優しい言葉をかぶせて


 商船警護の仕事の後、丸二日も休日をもらった。魔法を使うのも久々で疲れただろうから、というシンドバッドの計らいだとジャールファル様は言っていたけれども、本当のところどうなのだろう。その実は私の戦い方の件などを踏まえ、色々と再考する時間が欲しかっただけなのではないだろうか。あながち間違いでもないような気がしているものの、ジャールファル様がそのような素振りを見せることなどあるはずもなく、真偽の程は確かめようがない。ただ、不思議と少しだけ気が晴れたような表情をしているのだけが見て取れた。
 そうして休日の後に私に割り当てられた仕事は、魔法研究補助であった。ヤムライハ様の指名ということだけれども、やはりその実はどうなのだか定かではない。わざわざ嘘など吐かずとも私には抵抗するつもりが毛頭ないので、あけすけに言ってくれれば良いのにと思う。腹の探り合いなど疲れるばかりだ。
 ヤムライハ様の元を訪れると、そこは様々な魔法道具で雑然としていた。中には初めて見るような物もあり、なかなか興味深いけれども、それはさて置きまずは片付けから始めるべきなのではないかと思うほどの散らかり具合である。机の上のみならず、床にまで物が散乱しているのだ。辛うじて足の踏み場はあるものの、ともすればうっかり道具やら巻物やら踏みつけてしまいそうだった。それなのに部屋の主はまるで気にした様子がなく、一心不乱に何かを書き付けている。少しよれた羊皮紙が力強い筆跡で埋まっていくのを暫し眺め、どうやら彼女は私が来たことにさえ気がついていないらしいと気がついた。

「あの……ヤムライハ様」
「………」

 応答はない。聞こえるのはペンが紙の上を走る音と、何かの魔法道具からしゅうしゅうと水蒸気が立ち上る音だけ。集中しているらしいことは明白で、あまり邪魔はしたくないところではある。
 しかし、彼女が私に気付いてくれるのを待っていたのでは、一体いつになるやら分からない。私としてもただただ突っ立っているわけにはいかないのだ。やむを得ずもう一度、今度は先程よりも幾分か大きな声で声をかけた。

「ヤムライハ様!」

 今度は聞こえたようだった。びくりとその華奢な肩を跳ねさせて、彼女は顔をあげる。

「…あら! ごめんなさい、私ったら気がつかなくて…!」
「いえ、お気になさらず──」
「敬語、やめましょうって言ったのに」

 ようやく私に気づいた彼女はペンを机──これまたやはり雑然としている──の上に置いて、残念そうに言った。

「敬称も無しで……ね? お願いします」
「……わかった。だけどそれなら、貴女も私に敬語は無し」
「え!」
「身分の低い私が敬語を使わないだけでもおかしいのに、貴女だけ敬語なのはもっとおかしいよ」
「でもエルさんのほうが年上で、」
「私は、生きた年数なんてあまり関係ないと思うんだよね。どんな生き方をしてきたか──そこに敬意を払うものなんだと思う。ね、私はろくな生き方をしていないもの」

 そう念を押すと、彼女は困ったような顔で頷いた。「……だけど私は、エルさんの生き方も敬意を表するに値すると思うわ」。声が小さく震えている。

「…そんなわけ」
「もっと自信を持って。望まない状況でもルフをずっと綺麗なまま保ってきた貴女の生き方を、悪く言うことなんて誰にも出来ないわ。…ううん、誰にも言わせない」

 彼女の目は真っ直ぐで、使命感にも似たものが見える。なぜ、殆ど初対面も同然の彼女がそこまで言ってくれるのだろう。有り難く思うのと同時に困惑して何もいえず、曖昧に頭を下げることしか出来なかった。
 顔をあげると、ヤムライハ様──もといヤムライハは寂しげに微笑んでいた。
 思えば、私は彼女にこういう表情ばかりさせてしまっている。彼女が悲しむことなどないというのに。私がもっと素直に彼女の言葉を受け止めて、笑みの一つでも浮かべられたなら良いのだろう。しかしそうするために必要なほんの少しの余裕さえ、今の私はどこかに置き忘れてしまっている。

「貴女の言葉はとても嬉しい。だけど、この国の人々のルフの綺麗さには及ばないよ」
「……確かにシンドリアでは、出自も経歴も様々な人が暮らすわりに濁ったルフを見かけることなんて殆どないわ。でもそれは、この国にシンドバッド王がいて、国民が絶対の信頼を寄せているからで……王様のお陰である部分が大きいの。でもエルさんはひとりで堪えてきたんでしょう? それって凄いことよ」

 私は笑った。自嘲のつもりではなかったけれども、自分の耳にさえ嘲笑のように聞こえたから、彼女の耳には尚更そう響いたことだろう。

「私は貴女が思う程のことはしてない。人を恨みもした。それに、シンドバッド王の存在が少なからず心の拠り所になっていたとも思う。確かに私は一人だったけれど、心まで本当に独りだったら、きっと今の私は何処にもいないよ」
「…………」
「さ、この話はやめにしよう。今日の私の仕事を教えてほしいな」

 ヤムライハはまだ何か言いたそうにしていた。白い手は胸元で固く握られ、澄んだ青の瞳はゆらゆらと揺れる。それでも私が彼女の言葉を待っているのだと気がつくと、握り締めた手を解いて「そうね、」と話し始めた。

「どうせバレてしまいそうだから、単刀直入に言うわね。……エルさんの魔法について調べたいの」
「それは……、魔力量だとか一つ一つの魔法の威力だとか、そういうこと?」
「ええ。良いかしら?」
「どうぞ。きっとそんなところだろうと思ってた。ジャーファル様が気にしているのでしょ?」
「……やっぱりバレてたのね」
「私が彼の立場なら気になるからね」

 彼は分かりにくいようでいて案外と分かりやすい。向き合って腹の探り合いをするとなればまた話は別であるけれども、彼が最善を選ぶが故だろうか、行動だけならば私にでも予測出来るのだ。
 きっと、私にどれだけの能力があるのかは、もっと早い段階で明確にしたかっただろうと思う。先日の初仕事で ある程度の情報を得たにしても、彼にとっては懸案事項が増えてしまっただけで、まだまだ不十分な情報に違いない。
 ──この状況は、いつまで続くのだろう。
 信じてほしいわけではない。けれど、現状に何とも言い難いもやもやとした気持ちを抱いている自分を、いい加減見過ごすことも出来ないような気がした。淡々としたマスルールの言葉が蘇り、無意識に手を握り締める。爪が食い込む痛みにはっとして力を緩めれば、掌にはくっきりと爪の痕が残っていた。

140706
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