心臓に秘めたナイフ


「アスファル!」

 ボルグを思い通りに扱えない私が、意図的にそれに近いものを作ろうとするとき、使うのは専ら風魔法だった。分厚い空気の壁で攻撃を防ぐのだ。
 狙い通り、アバレウツボは空気の壁に弾かれて身をくねらせながら海に沈んだ。ばしゃんと大きな音をたてて跳ね上がる飛沫(しぶき)を風魔法ではねのけ、私は宙を歩いて一歩前に出る。きっと今の攻防でアバレウツボを怒らせてしまっただろうから、すぐに反撃してくるはずだ。それでも、彼らにとってそれは己や縄張りを守る為の攻撃であって、私よりも余程真っ当な理由で力を奮っているのである。
 もしもアバレウツボが口を利けて、なぜ人を襲うのかと問われたなら、恐らく彼は「自分を守るために」と答えるのだろう。私は口を利けるけれども、これまで手を下した誰の問いにも答えられなかった。
 不意に、いつかの標的だった男の声が蘇る。

『なぜ俺は殺されなければならないんだ! それも、お前のような小娘に!』

 怯えと憤りの混ざる目を見据え、私はただ沈黙を貫いた。私には目の前の男を殺すような理由などなくて、なぜ彼が殺されなければならないかも分からなかったからだ。そもそも、この男が殺されなくてはならない理由など本当にあるのだろうか。
 私はただ、命じられたから。それだけだった。それだけで、私は。ひょっとすると罪など無いかもしれない命を───。
 その瞬間、ざんと目の前の波が鳴って、我に返った。アバレウツボが再び姿を現して、その巨体で海を叩く。波が荒立てば船が危ない。私はもう一度風魔法を使い、今度は突風を起こしてアバレウツボを船から遠ざけた。さあ、次はどうするか。背後の船から、シャルルカン様の怒鳴り声が聞こえた。

「魔法ばっかじゃねえか! 剣を振るなら剣術使えよ!」

 そんな無茶な。
 私はあくまでも杖の延長でしか剣を使えない。接近戦に持ち込まれてしまったときは剣として使うけれども、私は魔導士であって剣士ではないのだ。最初に断っておいたというのに、嗚呼。
 仕方がない。私は剣を構えて呼吸を整える。思い浮かべるのは、まだ実戦では使ったことがない命令式だ。試してみる価値はある。アバレウツボが鎌のように頭を擡げ勢いよく向かって来たのを視界に捉えたところで、私は口を動かした。

「アスファル・サイカ」

 銀に煌めく刀身が風を纏う。成功していることを祈りながら剣を振り抜くと、鋭刃のような鋭さを持った風がアバレウツボを斬りつけた。さらに一つ二つ振り抜いて、攻撃を重ねる。風の刃は剣の軌道に合わせて形を変えながらアバレウツボに襲いかかった。アバレウツボが身をよじる。のた打った巨体にぶつからないよう避けながら、私は冷静にこの命令式を考察していた。
 ──ひとまずは成功に見える。しかし、アバレウツボがどの程度の頑丈さを持つ生物であるか分からないことを差し引いても、どうも威力が弱い。致命傷には到底及ばないところを見ると、この魔法にはまだまだ改善の余地がありそうだ。
 ふと、さも当然のように誰かを傷つけることを考えている自分に気付いて、嫌悪感が湧き起こった。ヤムライハ様なら、そのようなことは考えないのだろう。あるいは、ユナンなら。
 考えるのが嫌になって、劣等感から逃げるように命令式を組み替えた。

「ラムズ・サイカ」

 そうして刀身に雷電を帯びた剣を握り直し大きく振るえば、軌道に合わせて雷が走った。風の刃のように斬ることは出来ないが、目的は斬ることではない。雷は狙い通りアバレウツボに纏わりついて、体を麻痺させる。やはり威力は小さいように見えたけれども、アバレウツボは一度だけ大きく身を震わせ、力尽きたように海に沈んでいった。
 飛沫が飛び、完全にアバレウツボが沈んでしまうと、背後の船からは歓声のようなどよめきが聞こえた。海兵達である。甲板から見ていたのだろう。あの中に戻るのはどうにも躊躇われた。
 ──いっそ、このまま逃げてしまおうか。そして、どこか別の場所で死ぬのだ。自ら命を絶つか、誰かに殺してもらうか。出来れば後者が良い。前者では、上手く死ねるか分からないから。実を言えば、以前私は自ら命を絶とうとして失敗している。それは、死のうとしても王宮が許してくれたかったのとは別の話だ。
 ある任務を完了したとき、事切れた標的の傍らには短剣が落ちていた。それを拾って喉に突き立てようとした私は、どれだけ頑張っても切っ先を喉に届かせられなかったのだ。まるで何かに阻まれているようで、私は諦めて短剣を捨てた。自分自身の悪意にボルグが発動したのかもしれないし、知らず知らずに死を恐れていて身体が思うように動いていなかっただけかもしれない。どちらにしても、私は自ら命を絶つことが出来ないと思い知ったのがあの時だったように思う。
 そのままぼんやりと宙に浮いていれば、シャルルカン様が怒鳴った。

「さっさと戻って来い! 船を動かせねえだろ!」

 どうやら彼は私に敬語を遣うことを完全にやめにしたらしい。それは大いに構わないし、むしろそれでこそ立場からして在るべきかたちだと思うが、怒鳴られてばかりは好ましくない。アバレウツボの沈んだ海を一瞥して船に戻れば、海兵達は私の肩を叩いて口々に言った。

「あんた凄いな!」
「一人でアバレウツボを倒すなんて驚いたよ」
「まるで八人将みたいだ」

 彼らは私の素性を知らない。王が受け入れた難民の一人で少々腕が立つ、とだけ説明してあるとジャーファル様から聞いていた。それで彼らは、最初こそ改まった態度をとれど、いつの間にか随分と気さくに接してくれるようになったのだが、それには私のほうが戸惑ってしまう。ましてやこうも褒められては。だめだ、と心の中で誰かが言う。先の戦闘のどの技をとっても、誰かを傷つけるために身に付けたもので、こうやって、温かく受け入れてもらう価値などないのだ。

「いえ、そんな、恐れ多い…」
「そう謙遜するなよ。南海生物が相手とあっちゃ、俺達だけじゃ殆ど何も出来ないんだ」
「八人将のシャルルカン様にスパルトス様、そこに凄腕魔導士のエルハームさんだろ。心強いなんてもんじゃないな」
「それは言い過ぎにも程がありますよ。私なんて本当に、ッい!?」

 突然、がつんと力一杯の鉄拳が旋毛に降ってきた。身構えていなかった分、何倍も痛い。今度は何を怒鳴られるのかと、鉄拳を振り下ろしたシャルルカン様を見上げた。

「急にどう──」
「なんだよあの戦い方! 殆ど魔法じゃねえか!!」
「だ…だって私は剣士ではないのですよ! 最初からそう申し上げて、痛っ、おり、っ、ます! ッ、そろそろ叩くのはやめて頂けませんか!」
「うるせー! 剣使うならもっと剣に誇りを持ってだなあ──」
「シャルルカン!」

 スパルトス様が割って入ってくれたおかげで、どうにか鉄拳の雨は降り止んだ。海兵達は面食らったように成り行きを見守っている。

「シャルルカン、彼女は剣士ではなく魔導士だ。そうでなくとも、彼女が試行を重ね編み出した戦法に文句をつけるのはどうかと思う」
「けどよ、」
「剣で魔法が使うのが気に食わないというなら、お前の眷属器はどうなんだ。私からすれば──どちらもよく似て見えた」
「…………いや、まあ」

 どうやら勝負あり、この口論はスパルトス様の勝ちのようである。シャルルカン様の眷属器に似ているというのが少しだけ気になった。ひょっとすると、あの魔法を改良するヒントがあるかもしれない。
 改良して、どうするの。
 心の中で誰かが問うた気がした。

140523
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