凍える太陽


 エルが死にかけている。
 ただそれだけのことに、こうも落ち着かない気持ちになることが信じられなかった。特別この人に入れ込んでいるつもりはなかったし、もしも殺せと言われることがあればいつでもそれに従えると思っていた。しかし、本当にそうだったのだろうか。こういう事態になって、あくまでも“つもり”でしかなかったのではないかと思い始めていた。
 死というものは、俺にとって長いことずっと身近なものだった。シンさんがこのシンドリア王国を建ててから幾らか遠退きはしたかもしれないが、それでも、やはり死はいつだってそばにあることを忘れたことはない。何人もの死をこの目で、間近で見てきたのだから、当然のことだ。死の色も死の臭いもよく知っている。それらを前にしたところで、最早感じるものもほとんどない。
 ──はずだったのだ。
 限りなく死に近い気配を纏ったエルの青褪めた顔を見る。胸が微かに上下しているほかは、ぴくりともしない。
 倒れ伏したエルをあの袋小路で見たときから、体の芯が冷えていくような感覚に陥っていた。シンドリアの眩しい陽射しの下にいようが、熱い湯を浴びようが、その感覚は消えることがない。もう二日も経つのに、ただずっと冷えていた。そして、死人と間違えてしまいそうなほど冷たいエルの手に触れる度に、その感覚はますます酷くなる。
 こうして目を覚ます気配もない青褪めた顔を見ていてもそれはどうにもならないのに、なんとなく側を離れがたく、ぼんやりと椅子に座っていた。このよく分からない感情も含め、俺はきっと今起きている現実を持て余している。

「おや、マスルール。お見舞いですか」

 ジャーファルさんが足音を立てずに部屋に入ってきた。そうしてしまうのは癖なのだろう。思えばエルもそうだったような気がする。全く音を立てないわけではないが、ジャーファルさん程ではなくともひどく静かに歩くのだ。

「まだ、目を覚ましませんか」
「そっすね。ぴくりともしません」
「そうですか」

 ジャーファルさんは眉をぐっと寄せて険しい顔になった。

「様子を見るほかありませんが……このままでは……」

 その先の言葉は聞こえてこなかった。しかし、何を言おうとしたのかは俺でも分かる。このままでは、あと何日も持たずに衰弱死するだろう。きっとそういうことを言おうとしたに違いない。
 急にまた体が冷えていく感覚が酷くなった。
 エルはこのまま目を覚ますことなく死ぬのだろうか。今はかろうじて上下している胸さえも動かなくなって、一切の温度を失って。
 そう考えて、それは嫌だなと、初めてはっきりと思った。

「何か……ないんですか」
「何かって……目覚めさせる方法ですか?」
「……まあ、はい」
「もしもあるなら、とっくにしていますよ」

 たしかに、それもそうだ。
 なるほどと頷き、エルを見る。横からジャーファルさんがじっと見てくる視線が突き刺さったが、何も言われないのを良いことに振り向かなかった。今は、何も言われたくなかった。

***

 三日目の朝がきても、エルはまだ眠っていた。もうこのまま起きないような気がしている。そうなってほしいとは思わないのに、目を覚ますとも思えなかった。
 ただでさえ、エルの体は弱っている。強い毒に内側からボロボロにされたその状態で、飲まず食わずで三日目だ。栄養が摂れていない体は眠り続ければ眠り続けるほど衰弱していき、目を覚ます可能性はどんどん低くなっていくはずだ。
 シンさんはまだ諦めていないようだったが、ジャーファルさんは半分諦めかけているように見えた。
 特にこれといってあてもなく、廊下をふらふらしていると、シンさんがジャーファルさんに背を押されるようにして歩いてきた。シンさんがひどい顔をしているのは一目でわかった。しかしそこにどんな感情があるのかまでは、俺には到底読み取れない。
 ジャーファルさんは廊下に突っ立っている俺に気がつくと、すぐに「マスルール!」と呼びつけた。

「シンをお願いします。私は一旦戻らないと。話が済んだら私も行きますから、それまでシンを部屋に待機させておいてください」
「はあ……」

 ジャーファルさんにしては珍しく、よく分からない説明だ。今回に限っては、俺が馬鹿なせいで分からないのではないと断言できる。
 ジャーファルさんは俺にシンさんを押し付けるようにして、来た道を戻っていった。俺はよく分からないまま、仕方なしに何も言わないシンさんと並んで執務室に足を向けた。見れば見るほどひどい顔で、宴で吐くまで飲んで二日酔いになったときよりもひどい。こんなシンさんを見るのはおそらく初めてのことだ。
 部屋に着くと、シンさんは椅子に崩れ落ちるようにして座り、机に肘をついて両手で頭を抱える。そして時おり何かを呻いて頭をかきむしった。外交でしくじったときよりも、ジャーファルさんを本気で怒らせたときよりも深刻そうに見えるのは、どうも俺の気のせいではない。
 ──もしかしてついにエルが死んでしまったのではないだろうか。それなら、この様子も納得がいく。
 ──信じたくは、ないが。
 訊ねることもできず、ただシンさんの様子を眺めるだけで時間が過ぎていく。あとで来ると言っていたジャーファルさんは、いつになったら来るのだろう。少なくともジャーファルさんが来れば、今度こそいつものように分かりやすく説明してくれるはずだ。そう信じ、気が滅入るというのは今のような気分をいうのかもしれないと思いながら、シンさんを横目にジャーファルさんを待っていた。
 やがて扉越しに話し声が聞こえてきて、柄にもなくどきりとした。ノックの音に反応してすぐに扉を開けると、そこに立っていたのはジャーファルさんではなかった。
 いたのは、エルだった。顔色は相変わらず青白いが、ジャーファルさんに支えられて部屋の前に立っている。
 エルは死んでいなかった。生きていた。生きて、目の前に立っている。三日間閉じられたままだった瞼が、今はしっかりと開いている。
 良かった、と。やはり柄にもなくそう思う自分が確かにここにいた。

150804 / title by 夜途
一周年企画@笹月さん
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