初恋


 …疲れた。大きく出来た日だまりに身を預けるように、わたしはソファーに深く腰掛けた。小春日和のうららかな季節、10月。不妊治療のために、この病院を行き来してもう1年になる。朝の6時に出勤する主人に精子を容器に入れてもらい、それを病院まで運ぶ。時計の針は10時をさしていた。4時間も空いている。今回の精子は、大丈夫だろうか。時間を空けすぎたために動きが悪くなったりしていないだろうか。もち運ぶ時に温めすぎて駄目になってはいないだろうか。それとは逆に、冷めていたら。心配で、不安で、そわそわと足を擦り会わせてしまう。わたしは今から行う人工受精の為の精子の処理により、約2時間ここで待つことになっていた。
 こんな気候とはうらはらに病院の廊下はいつ来てもひんやりとした空気が漂っている。病院独特の薬の匂いが鼻につく。
 わたしは仕方ないことだと、当然のことだと、理解はしている。主人の精子の量や運動率が少ないことは主人のせいでは無いし、子供が出来ないことを義両親からしつこく言われることも心配から来ているのだろうし。主人がそんな義両親に強く言い返せないことも、義両親のことが好きだからだし。わたし自身は至って問題無いのに、痛い思いをすることも。家と病院の行き来でへとへとになることも。すべてすべて当然だと思う。だって妊娠するのは主人ではなくわたし、だし。でもわたしはこの状況に慣れることが何時まで経っても出来ないでいる。もうそうやって治療をはじめて1年に成るのに。
 きっとわたしが疲れているからなのだ。嵩張る費用と反比例するように結果の出ない治療。線の入らない妊娠検査薬。生理が来るたびの落胆と失望。義両親からの冷ややかな目線。まるで出口の無い迷路を歩かされているような気分になる。

 半袖でも充分な暖かい日だからなのか、廊下の窓は開かれていてそこから風が入ってくる。あまり体をひやしてはいけないと言われていたのを思いだし、窓を閉めてしまおうかと席をたち窓に手をかけたときである。

「とてもいい香りがしますね」

 綺麗な声が聞こえた。
 半ば操られるように声の主に眼をやる。声の主は、いつの間にかわたしの斜め前ほどに座っていた制服を着た男の子だった。そしてその男の子はわたしを見て微笑んでいる。どうやらわたしに話しかけているようだった。

「え、え?」

「金木犀のいい香りがしたものですから」

 急に話し掛けちゃってすみません、その男の子はそう続ける。彼はどうやら、わたしがいい匂いにつられて金木犀を見るために窓に手をかけたと思ったらしい。わたしはというと彼に金木犀のことを言われるまで、そのことに気づかなかったというのに。窓を閉めようと思っていたもののこの匂いを楽しんでいる彼の手前、閉めることが申し訳なくなってちらりと窓の外を見る。金木犀が見えてそれを認識した瞬間、薬の匂いと一緒に金木犀の匂いが鼻腔いっぱいに広がる。

「あー、これトイレの臭いだ」
「トイレ?」

 特に何も考えずに口から出たことばに対して、男の子が不思議そうに小首を傾げる。

「わたしが小さい頃は今みたいに芳香剤とかなくって。だから、いろんな団地とかアパートとかマンションのトイレの傍には臭い消しのために金木犀が植えてあったの」

 だから、トイレの臭い。この匂い嗅ぐとトイレを思い出すの。窓を閉めるのをやめて元の場所に座り直しながらわたしはそう続ける。

「じゃあ奥様にとって懐かしい匂いなんですね」

 …懐かしさなんてものはあまり感じないのが本当だけど、男の子がそう言ってくれたことが何故か少し嬉しくて黙っておいた。それよりもわたしはこのくらいの歳の男の子が名前も知らない赤の他人を奥様とすんなり呼べることに感動していた。彼の制服は関東で有数の私立、立海大付属中学のもので彼の立ち振舞いの一つ一つは(例えば金木犀をちらりと見る目の運び方だったりことばの使い方やそのセンスであったり。そもそもファーストインプレッションが)育ちの良さを感じさせる。きっと良いとこのお坊ちゃんなのだろう。そう思うとこの大人びた話し方に納得出来る。

「金木犀の香りは、散歩に行きたくなります。もう秋なんだなあって」

 ロマンチストというか、感受性が豊かというか。わたしが彼くらいの年の頃、そんなことを思ったことがあっただろうか。少し昔を思い返してみる。わたしにとって金木犀の匂いは物心ついたときからトイレの匂いだったし、中学の頃のわたしが何か花や木々の匂いを嗅いだとしてこういった感想はでてこなかっただろう。
 どうして今日はここに?そんな問いが口から出かけてわたしは慌ててそれを押し留めた。彼に対し、プライバシーにずけずけと入り込む図々しいおばちゃんになりたくなかった。それになにより同じ問いを返されることが怖かった。わたしは急かされるように当たり障りない気候の話しをする。

「最近風が冷たくなってきたもんね。今日はまだあったかい方だけど」
「駅から病院まで結構距離があるので助かりましたよね」

 意外とそれから話が弾んでしばらく他愛もない会話をした。テニスをしていること、ガーデニングが好きなこと、一緒に遊ぶ友達のこと、よく聴く音楽のこと、そしてもうすぐテニスの合宿があること。とても楽しみで今から待ち遠しいこと。テニスの話や友達の話をする彼の顔はきらきらと輝いていて、とても眩しい。病院と家の往復で、主人以外の人間とあまり話すことがないわたしは彼と話すことが楽しかった。

「あ、そうだ」
「どうしたの?」
「奥様、金木犀の花言葉って知ってます?」
「え、知らないなあ」
「金木犀の香りの素晴らしさに比べて、花が控えめであるところから謙虚って言葉があるんですよ」
「さすがガーデニング好きなだけあって詳しいんだね」

 わたしがそう言うと彼は照れたようにくすりとわらう。その笑顔は少し幼くて相応の年齢を感じさせた。彼ははにかみながら話を続ける。

「あともう一つあって、」
「ユキムラセイイチくん」

 彼が次のことばを発する前に、遠くの方から看護師さんの声が聞こえた。

「あ、呼ばれたので失礼しますね」

 お話して頂いてありがとうございました。彼はそういうと、ぺこりと軽くお辞儀をし、軽く身なりを整えてから遠くの内診室へと向かった。育ちの良さはそういったところにもあらわれていて、ついつい見蕩れてしまう。わたしはつられるように慌ててお辞儀をして、彼を見送る。すらりとうつくしいせなかが、遠ざかる。彼は見舞い客などではなく、診察を受けにきていたらしい。そらそうか。見舞いだったら休日に来るものだし、制服着てたし。大方今から学校に行くのだろう。

 彼にとっていまの出来事はどういったものになるんだろう。そのままなにをするでもなく、ぼんやりとソファーに座りながらわたしは考えていた。大方、暇潰しにおばさんと話した。その程度なのだろう。実際そうだし。そして彼の中で風化されて、忘れ去られていく。いや、もうこの瞬間にもわたしは彼の中で埋もれた存在になっているのかもしれない。金木犀の花言葉のあともう一つはなんだったんだろう。帰ったら調べてみよう。でも、彼の口から聞いてみたかった。最初で最後になる彼との会話はわたしをなぜか切なくさせた。

 微かに開けられた窓からはずうっとずっと、金木犀の香りがしている。やっぱりわたしにとってはトイレの匂いだ。もう秋だなあ、だとか散歩したくなる、だとか、そんな気にはならない。でもなぜだろう。わたしは金木犀の香りがするたびに今のことを思い出すと確信した。昔のトイレの匂いは上書き消去されて、制服を着た大人びた彼のことを。

 そのうちガラガラと内診室の扉がひらいて、今度はわたしの名前が呼ばれる。引き摺られるように内診室に入り、今から与えられる痛みに身を固くしながら下着を脱いで内診台に横になる。目を閉じて、必死に彼のことを思い出す。柔らかそうな髪、陶器のような肌、うっすらと赤みがさした彼の頬。くすりと笑った時に覗いた白い歯、女の子のような細い声。看護師さんが呼んだ彼の名前。

 ユキムラセイイチくん。

 一体どんな漢字なのだろう。雪村?それとも幸村?それすらもわからない、知らないまま。永遠に。それでも。それでもわたしはぱりぱりに渇いた唇でそれをなぞった。ユキムラセイイチくん。

「それでは開始しますね」

 医師の声が聞こえる。子宮口を広げる為の器具はひんやりと冷たく違和感があり、いつまで経っても慣れないままだ。
お腹を突き抜ける様な痛みでわたしは少し、息を呑む。真っ暗な視界のなか、痛みから逃れるようにもう一度反芻する。ユキムラセイイチくん。彼のやさしく甘い笑顔を思い浮かべた。

 わたしの、初恋。  




 

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