「なあ、俺には、お前を幸せにしてやることが出来ないんだ。乱太郎、お前はどうか幸せになってくれ。俺は大丈夫。この学園でお前と過ごした日々の記憶があれば、生きてゆけるから」

_けたたましく鳴り響く目覚まし時計のアラーム音で、猪名寺は目を覚ました。
_ぼやけた視界でぼーっと天井を眺め、それからようやく自分の頬が濡れていることに気付く。
_あれは、忍術学園を卒業する日の夢だ。誰にも何も相談せずに一人で戦忍になることを決め、学園の門をくぐったその足で戦場へ向かうというきり丸を、為すすべなく見送った日の記憶。
_乱太郎はその背に向かって、ばか、と叫んだ気がする。きり丸がいなくて、一体どうやって幸せになれというのだと。
_猪名寺は上体を起こした。覚束ない足取りで洗面所へ向かう。
_初めて担当の挨拶に来た摂津を見た瞬間、確かに「彼」だと思ったのに。当の摂津にはかつての記憶がないようで、猪名寺の確信は揺らぐことはないものの口には出せずに懐かしさと言い様のない寂しさばかりが降り積もっていった。
_猪名寺は確かに摂津に対し好感を持っていた。しかしそれが摂津個人に対するものなのか、摂津に「きり丸」を重ねているだけなのか、猪名寺自身にもわからなかった。
_顔を洗って鏡を覗き込むと、涙の跡はすっかり消えた。頭を小さく振って思考を中断させると、猪名寺は眼鏡をかけ一日の準備を始める。今日は一日忙しくなるはずだ。
_今日は、猪名寺の誕生日だった。

_昼過ぎ、猪名寺の家にはいくつもの段ボールがやって来た。それは猪名寺の友人やファンが送ってくれた、彼女への誕生日プレゼントだ。
_友人から送られてきたものの中には、作家仲間でもある黒木の名前もあった。今度発売される黒木の新作長編小説の献本と以前から猪名寺が欲しがっていた海外の挿絵画家の画集、それらにメッセージカードが添えられている。そこには猪名寺の誕生日を祝う言葉と、良ければ新作を読んでほしいという文言が簡潔に書かれていた。猪名寺は目を通し、そっとメッセージカードの表面を撫でた。
_編集部からは花束とともにファンからのプレゼントや手紙が届いていた。猪名寺の絵本の読者である子供たちが描いた絵や手紙を眺めて猪名寺は微笑む。中には、猪名寺の代表作シリーズである「きりまるとらんたろう」を描いたものもあった。
_不意に、玄関チャイムが鳴る。
猪名寺は顔を上げて「はーい」と応じると、玄関へ向かった。

_照れくさそうに微笑みながら立っている摂津を見て、猪名寺は目を丸くした。摂津はそんな猪名寺に向かって「連絡もせずに突然すいません。近くまで来たもので」と頭を下げた。
「いえ。どうぞ、上がってください」
_猪名寺はひとまず奥を促した。摂津はもう一度恐縮して「お邪魔します」と頭を下げる。
「あ、これ差し入れです」
「ありがとうございます。お茶淹れますね」
_摂津が手渡したのは編集部近くにあるケーキ屋の箱で、猪名寺の好物でもあった。猪名寺は一度キッチンへ寄り支度を整えると、定位置であるソファーにいる摂津のところへ温かい紅茶とケーキの箱、二人分の皿とフォークを運ぶ。
「猪名寺先生。原稿の進み具合はいかがですか」
「そうですねえ。まだ下書きを進めている途中で……」
_担当らしいことを申し訳程度に尋ねてくる摂津に答えながら、猪名寺はケーキの箱を開けた。すると中に入っていたのは四号のホールケーキで、生クリームの上にはホワイトチョコレートのプレートが載っていた。そこには、「お誕生日おめでとう猪名寺先生」の文字。
_猪名寺は「えっ」と声を上げ、摂津を見た。
「摂津さん、これ」
「お誕生日おめでとうございます。えっと、ちょっとしたサプライズです」
_猪名寺の驚いた表情に満足したように笑って、摂津は鞄から小さな箱を取り出した。
「ささやかですが、良かったら貰ってください」
「そんな。気を遣っていただいて、ありがとうございます」
_開けてみても? 猪名寺が尋ねると、摂津は「勿論どうぞ」と快く応じた。
_箱の中身は、スベスベした手触りのシルクのリボンだった。柔らかな光沢のある白い生地に金色の糸で縁取りがされている。
「綺麗……」
_手に取って、猪名寺は呟いた。
「猪名寺先生、最近髪が伸びてきたって仰っていましたし。お似合いになるかなと思って」
「ありがとうございます。使わせていただきますね」
_早速、と言って猪名寺は結んだ髪に着けていた髪飾りを外した。リボンを結ぼうとし、そのときようやく、猪名寺は自分の手が微かに震えていることに気付いた。

「餞別なんて大層なもんじゃないけど、これやるよ乱太郎。髪、いい加減邪魔だろう」
_そう言ってきり丸は髪結い紐を乱太郎に差し出した。それはよく見慣れたもの、きり丸が学園で愛用していたものだった。乱太郎が俯いたまま受け取ろうとしないのを見て取ると、きり丸は乱太郎の髪に手を伸ばし、正面から柔らかい赤毛を結ってやる。
「乱太郎、そんな顔をするなよ。……なあ、俺には、お前を幸せにしてやることが出来ないんだ。……」


「猪名寺先生、大丈夫ですか? 良ければ俺が結びますよ」
_摂津に声をかけられ、猪名寺はハッとする。慮るように顔を覗き込んでくる摂津に、誤魔化すようにぎこちなく微笑むと「お願いします」と言ってリボンを手渡した。
_摂津が猪名寺の後ろに回り、猪名寺の髪に遠慮がちに触れた。
「……あの、猪名寺先生。先生に忘れられない人がいるってことも俺、わかっています。それでも」
_探るように控えめな言葉とともに、きゅ、と摂津の指がリボンを引く。形よく整ったそれは、摂津の見立て通り猪名寺によく似合った。
「あなたのその記憶ごと、俺はあなたを大切にしたいと思っています。……俺ならあなたを幸せに出来ます。あなたを幸せにしたい。あなたと、幸せになりたい」
_ああ、この人は。どうしてこんなに優しいのだろう。昔も今も変わらずに。
_泣かないで、という摂津の言葉で、猪名寺はようやく自分が泣いていることに気が付いた。


20130728

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