_サラリーマンも楽じゃないなと思いながら一日の仕事を終えてアパートの自室へ帰ると、窓から漏れる明かりで闖入者がいることがわかった。
_木下は溜め息一つ、指先に食い込むビニール袋を持ち直してからドアノブに手をかけた。鍵がかかっていないことはわかっていた。以前、闖入者が寒空の下、何時間も部屋の前で木下の帰りを待ち続け凍死しかける事件があってから仕方なく合鍵を持たせている。
_ドアノブは木下の予想通り何の抵抗もなく開き、中からはテレビの音と明るい笑い声が聴こえた。
靴を脱ぎながら「帰ったぞ」と木下が声をかけると、振り返った尾浜は「おかえりなさい」とにっこりした。
「また来たのか」
「また来ちゃいました。鉄丸さん、今日もお惣菜ですか」
_一先ずビニール袋を尾浜に手渡し、木下はネクタイに手をかけた。袋の中身を覗き込んだ尾浜は「駄目ですよ、出来合いばっかりじゃ」と女房面してそう言うが、テーブルの上には尾浜が勝手に注文したらしいデリバリーピザが乗っている。木下の無言の視線に気付いた尾浜はへらりと笑い、「あ、ピザ食べます?」と嘯いた。
「それよりも。下の名前で呼ぶなと言っているだろう」
「えー。だって俺が『木下先生』の生徒だったのはもう何百年も前のことですよ。木下先生とは呼べないし、何て呼んだらいいんですか」
_尾浜が口を尖らせると、木下は何も言い返せずに黙った。これもいつもの問答であるので、やはり尾浜は木下を下の名前で呼び続ける。
_はるか昔に教師と生徒という関係だった尾浜と再会したとき、木下は腰を抜かしそうになるほど驚いた。まさか出会えるとは思っていなかったから。そうして古い記憶を共有する者同士、木下は尾浜にほだされるような形で以後交流を持ち続け、今では殆ど毎日木下のアパートに尾浜が入り浸るまでになっている。
_出会った当時尾浜はまだ高校生であり、進路希望に「鉄丸さんのヒモ」と書いて職員室に呼び出されたという話を本人から聞き、拳骨を一発見舞ってやったのも既に懐かしい記憶だ。
_部屋着に着替えた木下が尾浜と同じテーブルにつくと、すぐに目の前のグラスにビールが注がれた。見ると、木下が今日楽しみに帰ってきた缶ビールが既にいくつか空になって転がっている。木下がじろりと睨み付けると、尾浜は惣菜を皿にあけるため、そそくさと立ち上がった。
_木下は仕方なく、テーブルの上に置かれたピザにかぶりついてビールを煽る。惣菜の入った皿を手に尾浜は戻ってくると、ごく自然に木下の隣に腰を下ろした。皿は以前尾浜がフリーマーケットで見繕ってきて、木下の誕生日にプレゼントした硝子製のものだ。尾浜は木下に惣菜を差し出しつつ、「そう言えば」と口を開く。
「鉄丸さん、さっきテレビでやってたんですけどね、近くに紅茶専門店が出来たんですって。今度一緒に行きましょう」
「紅茶ぁ?」
_木下家の台所には紅茶などという洒落たものはない。飲み物といえばビールに牛乳、あって煎茶だ。
_うろんな声を上げた木下に、尾浜は悪戯っぽく歯を見せて笑った。
「超高級ダージリンが百グラムで何と、いちまんごせんえん!」
「そんなもの買わんぞ」
_木下は即答でばっさりと切って捨てる。いくら独り身のサラリーマンで自由に給料を使える身であるといえど、特別紅茶に凝っているわけでもないのにそんな贅沢は出来ない。尾浜は吹き出して、「わかってますよ」と言った。
「でもそこまで高くなくても、やっぱりいい紅茶って美味しいんですよ。俺、喫茶店でバイトしてたことがあるんで上手に淹れられますから」
_ねえいいでしょせんせい、とこんなときばかり子供の振りをして尾浜はねだってくる。
「まったく。生徒ではないと言っていたくせに調子がいいな」
「いいじゃないですか、子供の特権でしょう」
「もう子供って年でもないだろう」
_尾浜が片手に握る缶ビールに視線を遣れば、「じゃあ、年下の特権ってことで」とこれまた調子のいいことを言って尾浜は笑った。
「昔、俺が先生の生徒だった時代には子供でいられる期間が短くて、学園を卒業すればすぐに俺たちは血腥い大人の世界に踏み込まなければいけなかった」
_ふ、と尾浜が目を伏せる。しかしそれも一瞬のこと、尾浜はパッと表情を明るくすると、「だから、ね。美味しい紅茶を買いに行きましょう」と無理やりに話を引き戻すので「どうしたらそう話が繋がるんだ」と木下は思わず呆れた。
「つまり平和なこの時代、昔の分までたっぷり甘えさせてくださいってことですよ、鉄丸さん」
_既に週末出かけることが決定事項のように尾浜は上機嫌に笑っている。
_尾浜は木下の部屋に私物こそ持ち込まないが、木下自身では選ばないような洒落た食器類だとか、高級な紅茶だとか、そういうところで抜かりがない。年下の男が入り浸っている部屋に女を連れ込むことなんてないし、実際にそういう相手もいないと言うのに、尾浜は「もしものための用心ですよ」と周到さを見せる。そういところは変わっていないなあと木下はほんの少し懐かしい思いがして、結局尾浜の好きなようにさせていた。
「……そうだな、紅茶を買うついでにこの間勘右衛門が行きたいと言っていたケーキ屋にも寄ってみるか」
_木下が呟けば、尾浜は「やったあ」と無邪気にはしゃいで木下の腕に抱きついた。
_結局、今も昔も木下は尾浜に甘いのだ。


20130520

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