_学園が休みに入っても、教師には何かと仕事が残っている。木下はそれらをすべて片付けてから、生徒たちから数日遅れて学園をあとにした。
_山を一つ越え、二つ越え、そうしてようやく借家のある里までたどり着く。
_木下自身、何かと忙しい身ゆえ家に帰るのは久しぶりである。身分を偽って借りた家に帰るのはごく稀、ともなれば自然と近所付き合いは疎遠になり、家人のいない木下にとって、家に帰ったところで交わすのは大家との事務的な会話のみということも少なくはない。
_それだというのに、借家を目指して歩いている途中、木下は何人かに声をかけられ、怪訝に思った。
「こんにちは、木下さん」「おかえりなさい」と気安く声をかけてくるのはいずれも近所に住むご婦人で、しかもいやににこやかだ。皆今まで挨拶すらほとんど交したことのない方々だというのに。
_木下は訝ったが、誰か一人、あるいは全員を捕まえて「突然親しげに声をかけてくるとは何事だ」と問い詰めるわけにもいかない。何しろ皆ご近所さんなのだ。これまで交流がなかったとは言え、挨拶をするくらいごく自然なことなのだから。
_疑心暗鬼に陥った木下は刺客の存在すら疑って、久しぶりに自宅へ帰ってきたとは思えないほど辺りを警戒して進んだ。
_ようやく自宅が見えてきた、という時、隣家に住む主婦が木下を見つけてにこにこしながら寄ってきた。
「あら木下さん、お久しぶりです。お帰りになったのね」
「はあ。只今戻りました」
_隣人と顔を合わせればさすがに挨拶くらいは交わしたが、やはりそれほど親密な交流があったわけではない。
_一体何なのだ、と木下が頭を悩ませていると、その答えはやたらとにこにこしている隣人によって明らかにされた。
「奥様、もう何日も前にお着きになって木下さんをお待ちしていましたよ」
_原因がわかり、木下は途端に目眩を覚えた。

「鉄丸さん、お帰りなさい!」
家の敷居を跨ぐと、明るい声が木下を迎えた。
_少女のような面影を残す笑顔を満面に浮かべて迎えに出た人物に、木下は容赦なく拳骨を降り下ろした。
「いったい! ……鉄丸さんたら、折角お帰りになったのだからゆっくり休んでくださいな」
「何をしているのだ、お前は! それから、名前で呼ぶな!」
_もう一度拳を握り固めながら、木下はこめかみをひくつかせた。
_殴られた頭頂部を撫でさすりながら、年若い女――に扮した勘右衛門はぺろりと舌を出した。
「何って、先生のお帰りをお待ちしておりました。そろそろ戻られる頃だろうなと思って」
_勘右衛門は悪戯がばれた子供のようにまるで悪びれる様子がない。
_女装して木下の妻を装い潜りこんだらしい勘右衛門相手には隣人の目(この場合は耳)がある手間、名前を呼んで大声で怒鳴りつけるわけにもいかず、木下は喉元まで込み上げた怒声を飲み込んで大きく溜め息を吐いた。
「というか何故私の家を知っているんだ」
「嫌だなあ先生、僕は忍者のたまごですよ」
_こんなところでい組の優秀さを発揮するな、と木下は項垂れる。ほほほ、素の口調から一変して芝居がかった笑い声を上げた勘右衛門は一度奥に下がり、水の入った桶と手拭いを手にして戻ってきた。
「それより、お疲れでしょう。足を拭いましょう」
「……いや、いい。自分でやる」
_一呼吸の間に色々なものを諦め、木下は勘右衛門から手拭いを受け取った。勘右衛門は「そうですか」と笑んであっさり引き下がり、木下に背を向けた。一体何をするのかと足を拭いながら木下が横目で窺っていると、勘右衛門は台所に立って何やら作業を始めた。木下が帰宅する以前から食事の支度をしていたらしく、空腹を刺激する良い匂いが家中に広がった。
「……おい勘右衛門。さっきは私が帰ってくる随分前から待っていたような口振りだったが、一体いつからここにいる」
「学園を発ち、その足でこの家へ参りました」
_やはりか、と木下はがっくり頭を垂れた。
「私の妻だと、近所に吹聴して回ったな」
_睨み付けてやるが、勘右衛門は木下の鋭い視線をものともせずに頷いた。
「ええ。着いたその日に大家さんへのご挨拶は済ませましたし、先生がご帰宅されるまで時間がありましたからね。ご近所の方とも井戸端会議なんかしたりして、随分親しくなりましたよ」
_それにしても井戸端会議って想像以上に大変ですね、と言う勘右衛門はやはり優秀な忍たまだった。忍でもないご婦人方の懐に入り嘘を信じ込ませることは容易かったようだ。
_木下と勘右衛門は年の差が大きく開いているとはいえ、年若い娘が一回りも二回りも年上の相手に嫁ぐという話は珍しくもない。あとは勘右衛門が自身の話術と演技力にものを言わせたのだろう。
_木下はご近所中に広まってしまった誤解、もとい勘右衛門の嘘に、頭が痛むような気がした。
「まったく厄介な嘘を吐きおって。この先、近所との付き合いが面倒になるだろうが」
「大丈夫です、その辺の加減は心得ていますから」
_勘右衛門は湯気の立つ盆を手に戻ってきて、夕餉の膳を木下の前に置いた。
_まだまだ言いたいことはあったが腹が減っているのは事実である。木下は一先ず勘右衛門の用意した食事をありがたくいただくことにした。
_自身の前には何も置かず木下の向かいに座った勘右衛門に「お前も食べなさい」と木下は言うが、勘右衛門は「僕は、あとで」と首を横に振った。
「何故だ」
「やはりまずは一家の主が食事をとるべきでしょう。僕は三歩下がった妻を目指しているので。……いて」
_勘右衛門の頭を一発叩いてから、木下は「いただきます」と手を合わせた。「召し上がれ」と勘右衛門はにこにこと応じた。
_忍術学園の食堂のおばちゃんの腕前には遠く及ばないが木下が作るよりは大分上等な食事。「美味しいですか?」と聞かれ、木下は素直に「ああ」と頷いてやった。何だかんだ言っても、勘右衛門は可愛い教え子なのだから。
_腹を満たすとようやくひと心地ついたようだ。食後の茶を飲みながら木下はほうと息を吐き、そもそも勘右衛門が何故木下の自宅まできて妻を自称したのか、肝心なことを未だ尋ねていないことに思い当たった。
「勘右衛門」
「はい、先生」
「そもそもどうしてこんなことをしたのだ」
_木下の問に、勘右衛門はきょとんとした。そして「山本シナ先生が」と、くの一教室の教師の名前を脈絡なく口にする。この時点で、既に嫌な予感しかしない。
「年上のおとこのひとを落とすにはどうすればいいですかって相談したら、『外堀から埋めていきなさい』って」
_勘右衛門の返答に、木下は湯呑みを置いて頭を抱えた。
_相談する人選を、明らかに間違えている。


20130108

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