甘えながら 頼りながら 寄り添いながら


 どうにも寝付けなくて、アパートの部屋を後にする。1LDKと言えど大して広くもないのに、同じ空間で泣かれては流石の悠仁も起きてしまうだろう。
 まあ、私がベットから抜け出した時点で既に目は覚めてしまったかも知れないけれど。


「みょうじなまえさん、俺のお嫁さんになってください」

 両手いっぱいに薔薇の花束を抱えて、少し強ばった面持ちでそう告げられたのは半年ほど前。高専からの付き合いだから、年月にすればかなりの時間を共にしてきたことになる。悲しいも嬉しいも、たくさん分かちあってきた。もちろんプロポーズは快諾したし、周りのみんなにも祝福してもらった。だけどたまに少しだけ、不安に押しつぶされそうになって、無性に泣きたくなる時がある。

 これがマリッジブルーってやつなんだろうな。頭ではそうわかっていても、心が追いついてきてくれない。あんなに優しい人と生涯を共にするのは本当に私でいいの? とか、たくさんのものを背負った彼を、これから先ずっと支えていけるだろうか? とか、私の存在自体が悠仁の枷になってしまわないだろうか、とか。
 考え出したらキリがなくて、負のループに陥ってしまう。そしてそれが始まってしまえば暫くは涙が止まらない。

 アパートから歩いてすぐ、昼間は子供たちの笑い声が響く公園のブランコに揺られながら泣いている女がひとり。明かりは頭を垂れた街灯がひとつだけ、パチパチと音を立てて時折点滅しながらその空間を照らしている。傍から見たらホラーじみているかもしれないけれど、この時間帯は人通りも殆どないのはわかっているので、落ち着くまでここにいることにした。

 伝った雫で濡れた頬の温度が、夜の空気に晒されてひんやりと下がっていく。反対に瞼は熱くて瞳はまだまだ涙を拵えている。それはあまりにもちぐはぐで、ぐちゃぐちゃで、まるで私の心の中を表しているようだと頭の片隅で思った。

 寝静まった住宅街に響くタッタと掛けてくる音に、悠仁が駆けつけてきたんだと気がつく。やっぱり足が馬鹿みたいにはやい。むかつく。せめてこの涙を止める時間くらいくれてもいいのに。でもやっぱり起こしちゃってたな、疲れてるのにごめんね。またしてもちぐはぐな感情がぐるぐるする。

「……来ないで」
「いやもう来ちゃったし」

 反省の気持ちとは裏腹に、背中を向けて拒絶を示す。それでも地面を踏みしめる音は近づいてきた。

「心配した」
「っ……ごめん」
「俺、なんか気に障ることした?」

 ちがう、ちがうの。ただ私が弱いだけ。子供なだけ。覚悟が、足りないだけ。声を出せばますます涙が溢れてきそうで、ぶんぶんと首だけ横に振れば大きなため息が落とされた。
 ――あ、さすがに嫌になったかな。めんどくさいよね。

「……っ! ごめっ、」

 反射的に謝罪の言葉が口からこぼれる。

「あ〜ワリ、怒ってねえって」
「……」
「……ウソ。ちょっと怒ってはいるよ? こんな夜中に一人で危ないし」
「……」
「なあ、こっち向いてくんね?」

 鼻をすする音でしか返事をすることが出来なくなった私に、いつにも増して柔らかいトーンで悠仁が語りかける。左肩にごつごつとした手が添えられた。力づくで振り向かせてもいいはずなのに、それをしないことに彼の優しさが滲み出ている。

「……ぜったい顔ひどいからヤダ」

 その優しさに甘えれば、ふわりと後ろから温もりに包まれた。

「ちょっ、」
「これなら顔は見えないだろ」

 軽く身じろいでみても暖かな拘束に力がこもり、私の頭に乗った悠仁の顎がぐりぐりとそれを咎める。

「……ゆうじ、」
「あのさ」

 恐る恐る口を開いたけれど、それは降ってきた少し張り詰めたような言葉に遮られた。

「頼むから、俺のいないところで泣かないでよ」
「……っ」
「ほらまた〜」
「……今はもう、ゆうじがいるもん」

 屁理屈をこねて、首元に回された腕をきゅっと掴む。私が泣き止むまで、しばらくそうしていた。



「――ごめんなさい」
「落ち着いた?」

 こくりと頷くと、ゆっくりと拘束を解いた悠二が、私の目の前に回る。赤いハイカットスニーカーが俯く視界に入ってきた。

「はは! ひでぇ顔」
「だから言ったじゃん……」
「なまえ、」

 私の顔を覗き込んで、大好きな人が私の名前を呼ぶ。目を合わせれば、瞼にやわらかくキスが落とされた。

「ふふ」
「……なんだよ」
「ううん、なんでもない」

 きっと悠仁は、どうして私が泣いていたのかをなんとなくわかってる。直接私に理由を聞いてこないのがその表れだ。私がそんなことすらも解ってしまうということが、二人がどれだけ長く一緒にいるかの証、みたいなものなのかもしれない。

「よし、じゃあ帰るか」
「うん」

 差し出された暖かくて大きな左手に、自分のそれを重ねる。たくさんの人を守ってきた手。そして、これからもたくさんの人を守っていく手。だけど私といるときだけはどうか、私だけのものでいてほしいと意地汚く願ってしまう。

「ゆうじ」
「ん?」
「ごめんね」
「……うーん。ごめん、じゃなくて?」
「……ありがとう」

 よくできました、と笑う彼の腕にそっと寄り添う。
 きつく握られた右手の小指に触れる、つるりとした少し冷たい感触。それは、悠仁の薬指で輝く、私とお揃いの幸せの感触。


 そっとなぞって、たいせつに噛み締めた。






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