深い森の奥に広がる色鮮やかな花畑はまさに楽園の名に相応しい美しさを表していた。その中心に花にまみれて寝そべり、さながらお伽噺の少女のように花を摘む彼女は己が知るかぎりどこまでも愚かな存在であった。

「どうして君はそうやって現実から逃げるのかな」

彼女の円な瞳がきょろりとシュウを見据えた。意味が解っていないのか、暢気に瞳をぱちくりと瞬かせている。

「君は天使なんかじゃない」

少年が云い放った言葉は鋭利な棘を含んでいた。その棘の先の毒はいまに彼女が持つ花を蝕もうと息を潜めている。彼女は高らかに笑うと、何回と繰り返してきた言葉を口にした。

「私は天使だよ。それ以上もそれ以下もなく、私は天使なんだよ」

しかし真実は、少女は天使などではなく人そのものであった。それは彼女自身が一番よく知っていたことであったし、その事実は彼女の枷でもある。何故己の名を捨て、天使の名を語るのか。少年はそれが彼女を愚かだと称する、一番の理由であった。天使というどこか宗教めいた響きの裏には、何の真意があるのか。

「天使はね、神様からの愛の御言葉をとどける御使いなんだって」

そう呟き彼女は手に持っていた可憐な色を持つ花をむしり始める。
一枚、また一枚と散る花弁をしたたかな光を宿した瞳に映し、最後の一枚を散らせた。神、その言葉を耳にしたとたんにシュウは暗い色の瞳を憎悪を孕んだ色に染め上げた。
シュウは少女を睨み、彼女が今摘んだばかりの赤い花を手から叩き落とした。同時に叩かれた彼女の手は薄らと赤くなり、じわじわと痛覚を生み出す。一方少女のほうは何がおこったのか理解できていないようで、赤く腫れた手と少年をおもむろな動作で見ていた。

「神なんていないんだよ。そもそも、宗教や信仰なんてものは狂気の沙汰でしかない」

宗教や信仰、それは洗脳にも似た狂気の塊だ。シュウはそれを誰よりも知っていた。結局、最初から生贄はなんて必要なかったのだ。あの忌まわしい情景はシュウを縛る枷でもあった。しかしそれを少女は知らない。少年の名さえも。彼女と少年の関係なんてそんなものである。
しかし、共に歩んだ時間なんて二人には端から関係がない話だ。片方はもはやこの世のものではない。故に時間で絆を測ろうなどそんな野暮なことをしようなどと思うほど彼らは愚かではないのだ。

「確かに、神様はいるかどうかは私たちにはわからないね。きっと死んだらわかるかもしれないけれど」

穏やかな瞳に先程摘んだ赤い花を映した少女は怒ることも微笑むこともなく淡々とそう言ってのけた。その口振りはまるでシュウがそう言うのがわかっていたようだった。
矛盾している。シュウは怒りを通り越して呆れを感じていた。天使と名乗るくせに実態は人間、その上天使は神の使いだと言った直後にそれを否定するときたから、それは当然の結果であるといえばそうだ。

「君はどこまでも矛盾しているね」
「酷いね。矛盾していないものが真実だとは限らないよ」

一拍おいて、少女の瞳から穏やかな輝きが翳りを見せた。

「見えるものしか信じずに真実を求めるのはよくないと思うな」
「…君の論法で言わせてもらえば、見えないものばかり信じて見えるものを見ようとしない、現実から目を背ける君のほうが愚かだと思うけれど」
「君のいう現実が私に必要なものなら私はきちんとそれを受け入れるよ」

でも、ちがうのでしょう?
シュウは屁理屈だと口からでかけたが、自分も人のことを言えない気がして押し黙った。
嫌いだ、自分の弱さを知ろうともせず現実から背を背けて甘い夢を見ている奴は。シュウの心に段々とどす黒いものが込み上げてくる。

「…天使は神の使いなんだろう?なら、君の神はどこにいるのさ」
「神は本当にいないのだとしても、心になら誰でもいるんだよ。そうだね…」

にこりと笑って、こことか、と胸に手を当てて祈るように瞼を閉じる少女に、シュウはついに怒りを露にした。

「そんなのは君の妄想でしかないじゃないか!…大切なのは強さだ、僕が強かったら、神なんていなければ僕の妹は死ななかった!」

らしくもなく怒鳴ったシュウの瞳からは黒い粒子が散った。少女はシュウの咆哮を聞くと何かを悟ったように目を見開いて、閉じた。シュウの神は既に死んでいたのだ。

「…ぼくは、僕は、強さがほしいんだよ…」
「…神様に、お祈りしようよ」
「だから、神なんて」
「私の神様は死んでいないよ」

キリストでも仏でもない、少女の心の神は見えなくても確かに少女の心に生きているのだ。
シュウは戸惑った。神は妹を見放した、僕ら兄妹を見放した筈なのだ。しかしそれは本当に神だけのせいなのだろうか。自分を信じる強さがあれば、妹は救えたのではないだろうか。
花の上に力なくおかれたシュウの手を少女が握った。

「私は天使だから、貴方の祈りを私の神様に届けてあげられるよ」

悪意のない清らかな笑顔が妹と重なった。この少女は一体どこまで知っているのだろうか。追及したいという意思と知ってはいけないという思いがシュウの中で相反する。

「…君は本当に愚かだ」
「そうかな」
「ほんと、きみは馬鹿だよ」
「…そうかな」

握られた手は冷たかった。
しかしシュウはその慈愛に満ちた少女の手を払うことはしなかった。


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