14年前、私は親に捨てられた。真冬の雨がよく降る日、タオルに巻かれてコンビニ裏のゴミ箱の陰に転がされていたらしい。生後間もない様子だったと聞いた。自分で産んだ餓鬼のそれですら命と思えない、そんな女から産まれた私はきっと、


「結婚なんて、できないんだろうなあ」

頬を撫でる生ぬるい風に言葉をのせるように小さく呟くと、背後で本を読んでいたリュウジがえ?と声を漏らした気がした。もしかして今の聞こえたかなあ、誰にも聞こえないように言ったつもりだったんだけどなあ。縁側からなげだした足をブラブラさせて、ごまかすみたいに「暑いなあ」なんて声に出してみる。園の中へと吹き込む風が私のワンピースをふくらませた。リュウジは何も声をかけてこない。気のせいだとでも思ってくれたのかもしれない。そっと後ろを見ればリュウジは手元の本に視線を落としていた。それを見て私はふう、と息をはき前へと向き直る。さっき私が水やりをしたばかりの芝生からは草いきれが立ち込めていて、遠くの緑が歪んで見えた。
この縁側ですごす夏は何度目だろう。夏は、きらいだ。押し迫ってくる熱気と水蒸気、焦がすような太陽の熱が、どうしても好きになれない。けれど、冬はもっときらい。こんな寒さの中に捨てられたんだ、とか、嫌でも考えてしまう。その点、夏は実感がないからいい。夏に寒さを想像するのは、難しい。
胸にたまった空気を苦しさと一緒にゆっくり吐き出すけれど、あまり気分は軽くならない。わきに置いてあったグラスを持ち上げると、角ばった氷がガラスにぶつかって、カランと小気味よい音を立てた。中途半端に冷たい麦茶は、少し薄い。唇をしめらせて元の場所にグラスを置こうとした時、後ろで畳をする音がした。

「どうしたの、さっきからため息なんかついて」

ふりむかずとも誰かなんてわかる。何も答えずにいるとリュウジはゆるりと私の左隣に腰かけた。

「君は、夏になるといつもここにいるね」
「うん」
「俺がお日さま園に来た時から、ずっとだ」
「リュウジも、いつもここで本読んでる」
「ああ、まあね。君も奥に入ればいいのに。こんなところにいたら、日に焼けるだろ?」
「いいの。私、黒くならないで赤くなるし」
「それがよくないんだろ、肌が弱いってことなんだから。赤くなったら痛いじゃん」

だから、いいの。そう思ったけれど、口には出さなかった。そのくらいはわきまえてる。きっと世間ではこういうのを自傷願望、って言うもの。

「…ねえ」
「なに」
「どうして、結婚できないなんて言うの?」

ああ、なんだ。やっぱり聞こえてたんだ。ただのひとりごとだったんだけどなあ、誰かに話すつもりなんてなかったのに。だけど、心のどこかにはリュウジにならやっぱり聞いてほしい、なんて思ってしまう自分もいる気がして、少しぞっとした。私ってこんなに扱いにくい子だったっけ。だけど、そう思っている間にも、私の口はリュウジに告げ口でもするように勝手にゆるんでいた。

「…私は、自分の子どもの命すら大切にできないような人から生まれたわけだし、捨てられた子だし、結婚も…恋も、できないんだろうなあ、って思ったの」

風に掻き消されてしまうような小さな声だったけど、震える声でそう言いきった私の頭をリュウジはぽんぽん、と叩いてくれた。一迅の風が私とリュウジの髪を揺らす。沈黙をごまかすように麦茶に口をつけた。氷はさっきよりも小さくなっている。

「…君が」
「ん?」
「君が誰から生まれたかなんて関係ないよ。君がいい子だってことはみんな知ってる」
「…でも、やっぱり誰ももらってくれないよ」

だって、だって。言葉がのどまで出かかって、けれどそのどれもが再び飲み込まれていく。私が何とご託を並べたところで、リュウジはそのどれもを否定してくれて、きっと私はそれに反論できない。本当は分かってる、私が言ってることはどれも言い訳にすぎないってこと。捨て子だって、きっと杏や玲名たちは素敵な人を見つける。生みの親より育ての親って言葉も知ってる。
だからこれは、ただの甘えだ。たぶん私は怖いのだ。人が、そして人を信じることが。これはそのことを自分にすらごまかした、甘えだ。世界で唯一、何があっても自分を愛してくれるはずの人に捨てられた私はどこか自分に自信がなくって、また裏切られるんじゃないか、誰も私なんて愛してくれないんじゃないかって怖くって、恋をするのも恐れてる。だけど、もっと怖いのはそれを自覚して自分の心の傷に触れること、だから私は、孤児であることを恋ができない理由にしたがる。
そして、そんな想いを口にするのすら怖くて、「私は恋、できないよ」とだけ呟いた私は、本当に弱くて、脆い。

「…そっか」
「う、ん」

両手に包んだグラスに熱が奪われていく。溶けてゆく氷。水面に映った自分の顔から思わず顔を背けた。いつのまにか太陽は陰っているけれど、さあっと吹き抜けてゆく風はやっぱりぬるい。その風に若草色の髪をなびかせたリュウジは、黒曜石みたいな瞳を悪戯っぽくわらわせて言った。


「俺にはさ、君が何を思ってるのか全部わかってあげることはできないけど、まあ君が、ブサイクすぎてどうしても嫁の貰い手が見つかんないーって言うんならそんときは、俺が貰ってあげるよ」
「…え?」


かしゃーん。音のした方を見れば、私が持っていたはずのグラスが石畳の上で割れていた。するすると滑っていく麦茶が氷が冷たい灰色を黒く濡らしていく。

「あ……俺、ほうき持ってくる」

それだけ言い残したリュウジはさっと立って奥へかけて行ってしまう。縁側に残されたのは私と、それから粉々になったグラスだけ。
今、リュウジはなんと言ったのだろう。俺が、貰って、あげる。誰を。私を。何に。お嫁さんに。誰が。…リュウジが。
ひとつひとつ確認していくごとに私のほおが熱を持つ。ただでさえ、こんなに暑いっていうのに。座っているのすらやっとなほどに頭がくらくらするのは、この気温のせいだけなのだろうか。石畳の上で日に照らされた幾つもの氷はおもしろいように溶けていく。

うしろに寝ころんでそっと目をとじると、まわりの音が大きくなった気がした。その中で響く、リュウジの声。
ブサイクすぎてどうしても嫁の貰い手が見つかんないーって言うんなら、そんときは俺が貰ってあげる。
あたまの中で、何度も何度も反芻されるその言葉。
…ああもう。そんなこと言われたら、好き、になってしまいそう。リュウジは、私が小さいころからずっと一緒にいた、家族みたいな存在で、でも血はつながっていなくて、でも、でも、でも。
目をひらけば再びかおを出した太陽の光が刺さる。あまりのまぶしさに起きあがると、芝生の上にちらちらと光る、なにかが目に入った。それはほかでもない、さっき私が割ってしまったグラスの破片。石畳ではねて、芝生の上までとんで行ったみたいだ。破片、というよりも砂粒のようになったガラスのかけらひとつぶずつが、その透明の中に光をとりこんで私へとはなつ。さっきやった水なんてすっかり乾いてしまったけれど、ガラスがちらばった辺りだけ、まだ濡れたように輝いている。陽炎のゆれるなか、キラキラと輝くその場所だけが、まるでこの世界とは隔絶されているように美しい。
気付けば私はそばに置いてあったサンダルに足をのばしていた。履き古されたサンダルの底が芝を踏むとキュッと音が鳴った。しゃがみこんで、その煌めきに手を近づける。そっと手をのせた芝生は熱く湿っていた。その手をこわごわと押し付けて、静かに裏に返す。ちらちらと、私の手の上に光がゆらめいた。――


「あ、ちょっと、なにやってんの!」

がちゃりとドアを開けて入ってきたリュウジが、私を見るなり大声をあげた。ばたばたと私に走り寄ってくるその手にはほうきとちりとりが握られている。
こんなもの触ったらケガするだろ!ぷりぷりと怒りながらリュウジは手際よくガラスの破片を集めていく。

「ありがと、リュウジ」
「ん」
「…瞳子さん、怒るかなあ」
「大丈夫じゃない、たしかこれ、けっこう昔に大量にまとめて買って来たやつだし。それより、もうケガしてない?」
「うん」
「…見せて」

リュウジに手首をぐっと掴まれ、渋々手を開く。私の手のひらの上で熱に揺れるガラス片を、リュウジはなんのためらいもなくぱっと払った。太陽の光を存分に乱反射しながら名残惜しそうに散っていったそれらに自然に目をうばわれる私だったけれど、リュウジはそんなものには目もくれず、私にケガがないのを確認して握っていた手首を放した。
女の子なのに、傷でもできたらどうするんだよ。口を尖らせて言うリュウジに私はきょとんとする。「あら」「…なに?」

「キズモノでもリュウジがもらってくれるんでしょ?」

違うの?顔を朱に染めていくリュウジを下から見上げて問いかけると、リュウジは呆れたように息をはいた。

「…自分も大切にできない子は嫌いだよ」

…ごめんなさい。素直でよろしい。頭を撫でてくれたリュウジの手の温かさは、この暑さの中にあっても心地よい。

お日さま園ですごす13回目の夏、リュウジとすごす幾度目かの夏。私たちは契りを交わすのにはまだ幾らばかりか幼すぎる。けれど、幼いとか幼くないとか、そんな曖昧な境界なんて、夏の強烈な日差しの下には溶けてしまうのだ。
氷も、言葉も、みんな溶けた。私たちの影もゆっくり溶け合う。
リュウジの服をつかんだ私の手のひらには、わずかに残ったガラスの欠片が揺らめくように光っている。
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