人間には欲がある。物欲、睡眠欲、食欲。全て今の私が持っている欲。ジルの新作ワンピースが欲しいとか、お昼過ぎまで温かいお布団で寝ていたいとか、美味しいチョコレートケーキやミルフィーユが食べたいとか、満たされていない欲が、くつくつとスープを作っている鍋の中身みたいに湧いて煮える。美味しくない鍋の中身を捨てたくても、私にはワンピースを買うお金も、お昼まで寝ている時間も、美味しいチョコレートケーキもミルフィーユもない。だけど、台所には確かホットケーキミックスがあったはず。ただ問題なのは時間だ。只今日付が変わり、00:24を白いデジタル時計が表示している。つまり夜中だ、真夜中。夜中にホットケーキを食べるのは、ハイリスクハイリターン。お腹は満たされるが、体重も満たされてしまう。ただでさえ、体重とか体型とか気を遣っているのに、体重が増えるということは避けたい。でも人間というのは欲に正直だ。欲を満たすほかに、美味しくない鍋の中身を捨てる方法はないのだ。ジルのワンピースも眠気もチョコレートケーキもミルフィーユもないし、空腹じゃ眠れないし。仕方ない、私は横になっていた体を起こし、寝間着の上に薄手のカーディガンを羽織って台所へ向かった。





台所は真夜中だというのに、明かりが点いており更に甘いいい香りが漂っていた。誰かいるのだろうか。私は好奇心とほんの少しの恐怖心を胸に台所を覗き込む。そこには手元の灯りをつけて何やら作業をするヒロトさんがいた。

「ヒロトさん?」
「あれ?まだ起きていたの?」

ヒロトさんはこちらを向くとふわりと笑う。私はヒロトさんの手元に視線を移す。手元には白いボールと牛乳、割られた卵にホットケーキミックスが置いてあった。ヒロトさんもお腹空いたの?と聞けば、俺じゃなくて晴矢ねとまた笑う。なんだ、晴矢さんも帰ってきてたのか。

「晴矢が腹減ったって騒ぐから、仕方なく俺がホットケーキ作ってるの」
「暴れそうだものね」
「もう俺の部屋で暴れたよ」

クスクスと笑いながら、さらさらとホットケーキミックスをボールに入れていく。規則正しく泡立て器を動かし、ボールの中身は、綺麗なお腹を満たす魔法の液体になる。

「ヒロトさんもってことは君も?」
「部活が忙しくて御夕飯食べ損ねちゃった」

お腹に手を当てると、あらまという表情をするヒロトさん。
部活を熱心にやるのはいいけど、ちゃんと時間に食べなきゃ体壊すよ、と瞳子さんみたいなことを言う。なんだか子供扱いされてるみたいで、ちょっぴり悲しくなるな。ヒロトさんはフライパンを火にかけると、冷蔵庫からバターを取り出した。温まったフライパンにバターを入れると、ジュウッという音と共に、バターの良い香りが広がる。そして、そこに魔法の液体みたいなホットケーキのもとの液体を入れていく。自然に綺麗な丸になるホットケーキを見ながら、私はヒロトさんに話し掛ける。

「ヒロトさん」
「なあに」
「ジルのワンピース買って」
「えー?」

ヒロトさんは困ったように眉を下げながら笑う。だって、こんな欲を無くすには欲を満たすか、欲を捨てなきゃいけないんだよ?眠いし、お腹好いたし、お金無いし。そう私がキッチンねステンレスに頬をくつけて、ふてくされながら言うと、ヒロトさんは器用にホットケーキをひっくり返す。おー、お見事。私はステンレスに張り付いたまま、ヒロトさんの見事な技を見つめた。料理も出来るなんて、ヒロトさんすごいな。格好いいし、優しいし、料理も出来る。しかも、会社の社長さんだし。きっと素敵な彼女さんがいるんだろうな。綺麗でお淑やかで、その人にこそ、ジルのワンピースは似合うんだ。私みたいながきんちょに、大人っぽいワンピースなんて不釣り合い、ワンピースが可哀想になるだけ。なんだか悲しくなってきて、感傷的になりながら目を閉じた。聴覚が遮られたおかげで、他の感覚が鋭くなる。特に今は嗅覚がよく働くようで、ホットケーキの甘い香りを感じていた。バターとホットケーキのふわふわしたにおい。なんだかこれだけでお腹いっぱいになりそう。そんな事を考えていたら、近くでことんと音がした。気になり目を開けると、私の目の前に美味しそうなホットケーキが乗ったお皿が置いてあった。

「さあ、どうぞ」
「え?」
「お腹好いてるんだろ?もう遅いから、そんなに量はないけど」

ヒロトさんは目を細めなながら言う。私が、晴矢さんには?と言うと、晴矢用にこれから作るから、と言いながら、再びフライパンを火にかけ始めるヒロトさん。

「温かいうちにどうぞ」
「…いただきます」

出されたナイフとフォークを両手に持ち、ヒロトさんを見ながら言う。ホットケーキはふわふわで、ナイフを入れると生地がふわりとナイフを少し反発した。しかし、あまり力を入れなくてもすんなりナイフは入り、一口大に丁寧に切ってから、てっぺんのバターとはちみつをつけて口に運ぶ。柔らかで優しい甘さ。ふわふわとした食感。私は自然に笑顔になっていたのか、ヒロトさんがお口にあって良かったと笑う。私はひとすら口をもぐもぐ動かす。お腹に幸せな満腹感。私はあっという間にぺろりとホットケーキを食べきった。

「お腹いっぱいになった?」

こくん、と首を縦に振る。ヒロトさんは良かったとまた笑う。食欲が満たされたため、今度は睡眠欲がふつふつと鍋底から湧き上がってきた。私がうとうととしていたら、ヒロトさんがそろそろ寝たらと提案する。只今00:57。明日、正確には今日は休日だけど、起きるのが遅くなってしまったら瞳子さんに怒られてしまう。だけど、こんな時間に一人で寝るのは寂しい気がする。食欲が満たされて、睡眠欲も満たされようとしているのに、また新しい欲がふつふつと溢れてくる。本当欲深いな。いつまでたっても自室に戻らない私を不思議に思ったのか、ヒロトさんが私の顔を覗き込む。

「眠くない?」
「………」

ステンレスに再び頬をつく。自室のベッドに戻るより、ここにいたほうがいいな。それか無理言って、ヒロトさんたちの部屋に転がり込もうかな。それは迷惑だよな。限りをしらない欲に、自分でも吃驚している。

「明日、と言ってももう今日だけど」
「え?」
「ジルのワンピースはあるか分からないけど、二人で洋服でも買いに行かない?」

え、え、それって。私は勢いよく頭を上げる。ヒロトさんは相変わらずふわりと笑っている。私はわたわたしながらヒロトさんに詰め寄る。

「それって」
「一応、デートのお誘いだからね」

だから明日のためにもうお休み、そう言われて優しく頭を撫でられた。そのままふわふわと自室に戻り、ベッドに潜り込んだ。なんだかさっきまでのことが幻みたいな気がして、まだ幻を見てるんじゃないかって思ってしまう。美味しくない鍋の中身はいつのまにか、幸せな気持ちと真夜中に食べたホットケーキでいっぱいになっていて、それがさっきまでのことは幻なんかじゃないと物語っていた。


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