クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界の歴史が変わっていた。なんて言葉があるけれど、クレオパトラという女性の鼻が低かったところで、幾年もの年月とわたしたち人間の手によって創り出された歴史がそう簡単に変わるとは到底思えない。とか、不服そうな顔をしながら授業を受けていたわたしに山下先生はこう言った。「ひとが紡ぎ出す歴史とは、取るに足りないなにかでさえをも少しばかり変えてしまうだけでなにもかもが流動的に変わってしまう。それこそが、ひとが紡ぎ出す歴史なんですよ」ばーかばーか。そんなわけないじゃない。クレオパトラの鼻が低いか高いかで変わるほど世界の歴史はそう薄くないの。率直な感想と不満を腹に溜め、授業が始まる前に配られたプリントの裏側にぐりぐりと落書きをする。
 クレオパトラの鼻がもう少し低ければシャープペンシルという画期的な文具も、それを消す消しゴムだって生み出されていなかったかもしれないなんてそんな馬鹿な話信じられるわけがない。上手く描けたはずの不動先輩の似顔絵に、重苦しい溜息を落とした。





「バス停まで乗せてください」
「こっちは疲れてんだよ。お前ひとり歩いて帰れ」
「じゃあ先輩も歩いて帰りましょうよ。わたしは先輩と一緒に帰りたいだけなんですから」
「……荷台から転げ落ちても文句言うんじゃねえぞ」

 下り坂でもない道を走る自転車の荷台にわたしを乗せて、それを軽々と漕ぐのは先輩であり彼氏でもある不動明王。サッカー部員とマネージャーという関係からはじまったわたしたちだけど、気がつけば、協調性に欠け、反抗的な態度をとる不動先輩を無意識のうちに目で追っているわたしがいた。無愛想で口が悪くて、どうしてこんなひとを好きになってしまったのだろうかと自問自答を繰り返すわたしに、不動先輩からの告白。最初の頃は、彼を好きになった理由らしき理由を見出だせないままお付き合いをしていたのだが、最近になってその好きになった理由とやらがうっすらとかたちになっていき、それはおおきなものへと変わっていった。今この瞬間、お世話にもいいひととはいえない不動明王のどこが好きなのかと問われたとするなら、わたしは躊躇うことなくはっきりと答えられるだろう。周りとは違う独特な雰囲気と口ではああだこうだ言っても、なんだかんだで甘いその優しさに惹かれたのだと。

「先輩、先輩」

 暮れゆく夕焼けの下、先輩の背中は綺麗な茜色に染まっていた。学ランにおでこをくっつけると、どこか懐かしい匂いがわたしの鼻をくすぶって心臓がちいさく跳ねる。先輩と帰るときだけはバス停までの距離が遠くなればいいのにってそう思ってしまうわたしは心底ほだされているに違いない。「今日も先輩のことが好きです」「それはどーも」「先輩はわたしのこと好きですか?」「好き以外になにがあんだよ」先輩らしい返答。そういうところが好きだ。ほっそりとした腰も、あたたかい背中も愛想のない声も全部全部が愛おしい。好きな理由を見出だしてから日に日に増していく、このひとを好きになってよかったと感じるこの気持ちをあの頃のわたしに教えてあげられたらいいのだけど。黒髪に白いメッシュ。ふわふわと揺れる首元辺りまでの短い髪の毛を見つめながら、あたたかい背中に抱きついた。

「クレオパトラの鼻が低いだけで世界の歴史が変わってるなんて、馬鹿みたいな話だと思いませんか?」
「頭大丈夫か」
「世界史を教えてくれている山下先生が言ってたんですよ」
「で?そのクレオパトラがどうとかって話を俺にしてどうすんの?」
「一緒に馬鹿にしてくれると思ったから話してみました」
「この俺に、うんうんそうだねえって賛同してほしいってか?」
「いえす」
「それこそ馬鹿みてえな話だろ」

 ふんっと鼻で笑った先輩の背中越しに、時刻表が記されている置物と古びたベンチが見えた。誰もいない静かなバス停がわたしを待ち構えている。あーあって吐き出しそうになった溜息をごくんと呑み込み、近づくにつれて速度が落ちていく自転車から飛び降りた。軽やかな着地捌き。ふふんと自己陶酔しているわたしの耳に「危ねえからやめろっていつも言ってんだろうが」先輩の怒鳴り声が飛んできた。確かにいつも怒られてはいるのだけど、でもそれはわたしの身を心配してくれているからなのか、反動でふらつく自転車に取り残された先輩自身の身を案じているからなのか。誰が危ないのかを言ってくれないので未だにその意味を理解できずにいる。

 誰もいないバス停のベンチにちょこんと座り、スクールバッグのなかからスライド式の携帯電話を取り出した。「クレオパトラさんを検索してみたら画像とか出てきますかね?」「さあな」ベンチ脇に自転車を止めながら興味がないと言わんばかりの態度をとる先輩は、わたしのとなりに腰をおろしたあとも、検索結果が表示されている液晶画面を見ようとはしなかった。画像が出てきたら、顔の前に携帯を突きつけてでも見せてあげよう。そしたらきっと、危ねえなあって怒るんだろうなあ。安易に想像がつく先輩の表情を思い浮かべながら左手でボタンを押し、文字がいっぱい映し出された画面をスクロールさせていると、先輩の口がゆっくりと動いた。

「さっきの クレオパトラがどうとかって話の続きだけど、なにかが少しでも違ってたらなにもかもが変わるって論理は間違っちゃいねえだろ」

 なにかを考えるようにして遠くを見つめる視線の先には、茜色に染まった空とぽっかりと浮かぶ灰色の雲があった。くすんだ赤と今にも燃えてしまいそうなくらいに薄い雲から成り立つ境目は、酷く酷く幻想的なものである。

「要はあれだ。絶世の美女だとかいわれてるクレオパトラの鼻が低けりゃカエサルって男と運命的な出会いをしてなかったかもしれねえし、そうなると聖蛇の毒で死ぬこともなかった」
「……うん?」
「だから例えば、俺がお前と同じように左利きだったら今とは違う今があったってのは事実なんだよ。その世界じゃああの腐った影山と関わることも、今となりにいるお前と出会うこともなかったんじゃねえの」

 何故だかわからないけれど、携帯を持つ左手に力が入った。

「それってつまり、……わたしが右利きだったら不動先輩と出会わなかったってことですか?」
「だろうな」
「利き手が違うだけで?」
「そういうもんなんだよ」

 わたしの頭のなかは、カエサルだとか影山だとか聞き慣れない名前を無理に聞き出せるほど片づいてはおらず、縺れた糸のように、ぐちゃぐちゃとこんがらがっている。クレオパトラの鼻がもう少し低かったら世界の歴史が変わっていた。それに準えて作り出された例えばのお話。もし、わたしの利き手が違ったならば今となりにいる不動先輩と出会うこともなかった。
 そういうこと?じゃあそこはどんな世界?たぶんきっと。冷たくて寂しくて悲しい世界を想像するなかで、山下先生が言っていた「ひとが紡ぎ出す歴史とは、取るに足りないなにかでさえをも少しばかり変えてしまうだけでなにもかもが流動的に変わってしまう」という言葉を思い出す。授業を受けていたときのわたしは納得できずにいて、だけど先輩はこれを正しいと言った。

 何度か瞬きをするうちに、ぼんやりと霞んでいく視界。「今の話に泣くとこなんてあったか?」苦笑いを浮かべる先輩の顔もやっぱり霞んで見えるけれど、透き通るように綺麗な瞳は、相も変わらず綺麗なままだ。ぽんぽんと頭を撫でてくれていた手が冷えたほっぺたへと滑り落ち、慈しむような優しい手つきに嬉しさとか愛おしさとかくすぐったさとか、あたたかな感情が沸々と込み上げる。

「……不必要でしかない出来事もあったにはあったが、それでも俺はこの世界に満足してるわけだ。なんでだかわかるか?」

 ほっぺたに添えられていた先輩の手が後頭部へと回り、わたしの頭を、自分の胸に引き寄せた。首元から香る甘酸っぱいラズベリーの匂いは先日のバレンタインデーに渡した香水のもの。呆れた顔でこんなもん俺にどうしろっていうんだよとか言ってくせにね。ちゃんとつけてくれてる香水の匂いは、痛いくらいにぎゅうっと抱きしめられている身体を麻痺させた。「それはわたしと出会えたからですか?」「どんだけ自惚れてんだよ。そういうときはわかりませんって可愛らしく言ってりゃいいものを」そのあとも続くはずだった言葉を呑み込んだのは、わたしの唇。なのに。これは、この口づけは、ちいさな子供をあやすみたいなわざとらしい声と、欲しい言葉を濁そうとする先輩への仕返しだったからすぐに唇を離すつもりでいたのだけど、それでも先輩は、わたしの身体も唇も離れてはくれない。

 普段はしない、わたしからの口づけに気持ちが高ぶっているのか、いつもよりも強く唇を押し当てる先輩に酔いしれる。甘くとろけてしまいそうな感覚とはたぶんこういうことを意味するのだろう。ざらついた舌が狭い口内を犯したり、唾液をもっていかれるたびに漏れる甘い声。いつだってわたしは、彼の思うがままになってしまっているのだ。

「もうすぐ、バスが」
「バスがどうしたって?誘うだけ誘って、これからってときに逃げ出すほどガキじゃねえよな?」

 左手から、するりと落っこちた携帯電話。その液晶画面に映るのは、茜色でも灰色でもそこにできる幻想的な境目でもない。ベンチから立ち上がった先輩はぐっと背伸びをするように腕を上げた。「ああそうだ。俺んちに泊まってくって連絡だけは入れとけよ」「律儀ですね」「無断外泊はデメリットしかねえからな」そう言って自転車のスタンドを蹴った。世界を夢みた悲劇の女王、クレオパトラの壁画が映し出されている携帯電話を拾い上げ、自転車を押しながら数歩先を歩く先輩のあとを追う。わたしの世界に光をくれたクレオパトラさん、あなたの鼻が高くてよかったです。そしてなにより、わたしが左利きでよかった。

左利きの世界
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