塾からの帰路、アスファルト映る妙に鮮明な影。それにつられてゆっくりと、上を見上げた。





「満月…」





 寮の玄関を開け中に入る。外よりも寒さが幾分かマシに感じるそこは、埃を被った電球が薄暗く照らしている。コンクリートで出来ている廊下を進むと、足音がやけに響いて聞こえる。階段をいつものように上り、自室へと繋がる廊下に出る。部屋に向かって歩きながら鞄の内ポケットから鍵を取り出す。ちらりと隣人の部屋を様子見るが気配を感じない。まだ帰ってきていないのだろう。それとも燐はもしかしたら夕食の準備で食堂にいるのかもしれない。自室のドアの鍵穴に鍵を差し込み手をひねると、カチャと開く音がする。鍵を元の場所に仕舞い、ドアを開ける。
 冷たい風に髪の毛が揺れる。窓を締め忘れたか?いやそんなはずはない、と自問自答する。またか、と部屋を見渡すと壁を背に小さく座るかたまりを見つける。そのかたまりは窓からの光により装飾され、まるで獣のように見えた。

「アー兄…」

 靴を脱いで取り敢えず窓を閉めにいく。ただでさえ防寒機能の低い部屋なのに、窓を開け放すなんて言語道断だ。立て付けの悪い窓をガタン、と鳴らして無理矢理閉める。

「開けたら閉めてください」

 無駄だと分かりながら文句を言う。アー兄は予想どおり欠けらも気にする様子を見せず、無言のままジッと見てきた。今日もこの人の思考はさっぱりわからないと思う。
 鞄を机の脇に置いて制服を脱ぐ。皺にならないようハンガーにかけて吊し、靴下を脱いで洗濯籠に投げ入れる。ワイシャツのボタンを上から外し脱ぎ、これも籠に投げ入れ下着姿でアー兄の方へ移動する。

「そこどいてください」

 タンスの引き出しにぶつかる位置に座るアー兄に、取っ手に手をかけながら移動を促す。全く動く気配のないアー兄にぶつけてやろうかと目をやると、人差し指をくわえているのに気が付いた。

「アー兄、」

 腕を掴まれ下に引っ張られ、私はその力のままにアー兄の前に崩れる。何をするのかと顔を上げるとアー兄は口を開き、くわえていた指を出した。鉄臭い血の臭いが辺りに漂う。
 アー兄は私の左腕を両手で掴んで上を向かせ、肘の内側に濡れた人差し指を置く。その指を肘から指先へと、何かをなぞるようにゆっくり下ろしていく。私はそれを目で追いながら後に残る線が透明ではなく、赤色が混ざっていることに気が付く。それは徐々に濃くなりながら、手のひらの中心でぴたっと止まった。

「若は、」
「ぇ?」

 突然話し掛けられて声が擦れる。手のひらから目を離してアー兄を見たが、アー兄はそこを見たままだった。そっちに何かあるのかとまた視線を戻す。

「同じですか?」
「何が、っつ」

 アー兄が手のひらに置いた指の爪を突き立てる。尖ったそれは容易く皮膚を裂き、そこから赤黒いものがあふれてくる。ずきん、と痛むそこに眉が寄る。熱く脈打つ手にはみるみる間に、小さな血溜まりが出来た。
 アー兄は手のひらに顔を近付け臭いを嗅ぐ。そして舌をそろっと出して舐めてから仕舞い、口内で味わうように動かした。

「…似てますね」

 アー兄はぼそっと呟いて、また舐め始めた。私はされるがままにアー兄を傍観する。この程度で済むなら特に問題ないと、気の済むまでやらせる。これくらいの傷なんて、数分もしないうちに治ってしまうのだ。現に手のひらの痛みも血も、すぐに無くなっていった。

「治っちゃいました」

 そう言って顔を上げたアー兄の唇は、光を反射して光っていた。

「若のは僕のより少し柔らかい感じがします」
「や…?」
「おいしいです」

 アー兄はおいしいと言って顔を寄せ、私の唇を舐める。アー兄の口元から臭う独特の生臭さが私にも移る。それを舌で拭うと、口内に微かに鉄の味が広がる。私はその馴れた味を唾液と共に飲み込んだ。

「…わかんないです」

 そう言うとアー兄は床に付いていた手を上げて、私の唇を軽く引っ掻いた。

「これでわかりますか?」

 ピリッとした痛みは一瞬にジンジンと疼くそこを舌でなぞると、口の中に濃い鉄臭い味が広がる。アー兄は私をジッと見て答えを待ち望んでいるようだ。私はどう返せばこれ以上血が減らずに済むか考えを巡らせる。

「あ、」

 思考中も出続ける血は顎に伝い降り、さらにそこから滴り落ちそうになる。アー兄はそれを下から上へと舐めとり、そのまま傷口へと舌を這わせる。そして軽く噛んだりしながら血液を絞りだそうとする。徐々に思考を放棄していく脳に、唾液に何か混ざっているのかと思う。そうしてボーッと目の前の物体を眺めてたら、ふいに離れた。

「また治ってしまいましたね」

 ぬるい体温が遠ざかり、ひんやりとした空気が戻ってくる。舌で傷があった場所を確かめ、痛みが無くなっていることに気付いた。
 依然として物足りなさそうなアー兄を、振り切るように口を開く。

「ふ、く…とるんで退いてください」

 思った以上に詰まって出てきた言葉に軽く咳払いをする。そして変わらずに、むしろ前よりも邪魔な位置にいるアー兄の肩を手で押した。

「もっと、」

 肩を押した腕は掴まれて、逆の手で首を抑えられる。

「もう十分でしょう」
「足らないです」
「死んじゃいますよ」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないですよ何ですかその自信信用ならないですね」
「少しだけ」

 くっ、と首に微量な力がかかるのを感じる。首に添えた手が、そのまま動脈を裂くのではないかとゾッとする。私は掴まれていないほうの手で、首にあるアー兄の手を上からそっと抑えた。

「そこは、…ダメ、です」

 そう咎めるとアー兄は少し考える様にしてから、手を反転して私の手を握った。

「では、ここならいいですか?」

 アー兄は視線を目から下ろし、さっきまで傷があった手のひらに移動する。そこを親指の腹でゆっくりと円を描き、爪を軽く立てる。しかしそれが皮膚を突き破ることはなかった。一応了解を得るつもりらしい。
 私は確かに“そこは”と言ってしまったが、他が良いという訳ではない。私はアー兄の行動を阻止するために、意を決して口を開いた。







「少し、だけですからね」







end





モドル





結局日吉も何だかんだで満更でもないのと、ちょっとずれてるのと、アー兄に対する諦め+甘やかしを書きたかった、んだ、よ。






モドル








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