『正十字学園町は降水確率10%、日中晴れ間が広がるでしょう』
「…いい天気、だな」
抱きしめたら、君はどんな顔をするだろう
日吉は正十字学園高等部にいた。特に何か用があるわけではない。日吉はこの学園の建物と建物の間の、小さなスペースに作られた中庭などが好きで、まとまった時間があくとよくここに来た。
あまり生徒の近寄らない秘密基地のようなスペース。遠くから聞こえる生徒達の話し声と、草木の揺れる音の中にいるのが心地いい。
日吉はこういった場所を探すのが好きだった。さらにメフィストからもらった制服を着ていれば、仮に誰かに見つかってもあまり不審がられることもない。
「ここにするか」
そこは特別授業等で使う教室が集まっている棟のそばだった。授業をしているクラスがあるのか、上を見ると人が動いてるのが小さく見える。
日吉はその教室から見えない位置に移動すると、木で影になっているコンクリートの上に腰を下ろした。木の葉の隙間から見える空は青々としている。
サワサワと風になびく草木たち。風にのってくる土の匂い。遠くから聞こえるホイッスルの音。
(雪、何してるんだろ)
そして思うのは小さい頃から共にいた雪男のこと。前はそれほど気にならなかった学校というもの。通いたいわけではない。しかし大きくなるにつれ興味の対象として、存在は増していった。
日吉の知らない世界で雪男は日々を暮らしている。子供の時より会う時間も少なくなっていた。日吉には雪男がどんどん遠くに行ってしまうような気がする。その内に自分は忘れられてしまうのではないかと、頭によぎるたび寂しくなった。
(夜は、いるのかな)
日吉はごろんとコンクリートの上に寝転んだ。依然として空は青い。日陰にあったコンクリートはひんやりとして冷たい。日吉は目を閉じた。より一層感じる匂いや音たち。深呼吸をして更に空間に溶け込もうとする。段々と混在していく思考。あやふやな境界線に身体を浸し、深く深く、意識の奥へと落ちてゆく…
(………雪、……)
雪男は荷物をまとめていた。学校の授業が終わり支度をしているのだ。教科書とノートを鞄の中に綺麗に収め、忘れ物がないかチェックする。
(後はプリントを先生に出すだけか)
提出は今日までではないが、終わりしだい提出してもいいと言われたプリント。早々に片付けてしまった雪男は教師に渡すべく職員室に向かう。
「雪男くーん!またねー」
「さようなら」
途中途中挨拶をしながら職員室に着いた雪男は、担当教諭にプリントを渡す。二三言葉を交えて職員室を出て、廊下をまた歩く。塾にいくために人気の無い場所に向かっていく。部活で使われてる教室も近くにない、学園の端に建っている棟。授業で使うこともあまりない。誰もいないので、鍵を使うにはちょうどいい場所だった。
(…あれ?)
ふと窓の外を見ると、人の頭らしきものが見えた。誰かがいるようだ。珍しいそれに雪男は二階から目を凝らす。木の影でよく見えないが、雪男はその人物を知っている気がした。
(やっぱり)
外に出て近づくと疑念は確信にかわる。それは雪男が昔からよく知る人物だった。日吉は横を向いて寝転がっている。雪男は小声で日吉を呼んでみた。
「若」
反応がない、寝ているようだ。塾が始まるまで時間があり、急ぐ必要もないと判断した雪男。日吉の隣に座り壁にもたれかかる。空を仰ぐと少し黄色がかってきていた。雪男は日吉に目を向ける。
(…若、)
雪男は最近時々考えることがあった。日吉は何だかんだ言ってもメフィストの命令を聞く。それが何故なのかは雪男には分からなかった。いつか、日吉はどこかへ行ってしまうのではないかと。それを思うたびに悲しくなった。
(若は、いつまで)
風が通り抜ける。服が、髪が揺れる。雪男は何気なく日吉の髪に手を伸ばす。
「ぅわっ」
雪男は日吉に触れるか触れないかの所だった。寝ていたはずの日吉に手首をガシッと捕まれる。驚愕した雪男はそのままの形で固まった。
「ん…?」
日吉は状況がいまいちわかっていないのか、ぼおっと何かを掴んでる自分の手を見る。落ち着いてきた雪男は、静かに声をかけた。
「若、起きたの?」
「…ゃ……ねて、なぃ」
「いや、寝てたでしょ」
「……てな、ぃ」
寝呆けているのか、擦れた声で否定してくる。日吉は手を握ったまま、ゆっくりとうつ伏せになった。
「なんじ」
「…17時、30分くらい」
「30…」
日吉はそれを聞き雪男の手を両手で持ちなおす。そのままでしばし止まる。日吉は自分の状況を把握しようとしたが、寝起きの頭にすぐに諦め、目の前にある手に照準を合わせる。雪男の指を掴んで広げたり、皮を摘んでみたり、思いつくままにいじくってみる。
「ここ、…かたいな」
「銃が当たるから」
日吉は皮をなぞり、小指の方から順に観ていく。
「ここも、ここ、も……」
一通りみ終えると、日吉は次に雪男の指を広げた。雪男はされるがままに動向をうかがっている。日吉は自らの手の平の底辺と雪男の底辺とを揃えた。そして二人の手と手を合わせる。
「少し前までは、同じくらいだったのにな」
「少しって、数年前でしょ」
「うるさい。少しだ、少し…」
雪男と合わせている日吉の手は、力をなくしたかのようにずるずると下がっていく。ついにはコンクリートまでぼとっと落っこちた。宙には雪男の手だけが残される。雪男は緩慢な動作でそれを追い掛けて、日吉の手を拾い上げた。
「若の、……若にもたこ、あるね」
「ああ」
「僕の手にもある」
「ああ」
雪男は日吉の手から目へと視線をずらす。
「僕、若の手、好きだよ」
日吉は顔を俯かせる。
「手…だけ、か」
コンクリートに向かって日吉は呟く。そして上半身をゆっくりと起こす。
「何?」
「塾、行くか」
「……うん」
二人は立ち上がる。日吉がキョロキョロとまわりを見るのを見て雪男は「こっち」と手招きをする。二人は校舎に入った。雪男の後を日吉はついていく。鍵付きのドアを求めて進んでいくと、それはすぐに見つかった。
「じゃあ僕はこっちから」
日吉はそれに頷く。二人は隣り合わせのドアにそれぞれの鍵を差し込む。
「また夜にね」
「ああ」
ドアをくぐると、隣には誰もいなかった。
雪男は詰まっていた息を吐き出す。
(あまり、触らないでほしい)
手の平を見て廊下を進む。
触れられた部位を思い出し、自分の指でそこをなぞる。
(手だけじゃない)
歩く速度は徐々に早くなる。
雪男の足音が薄暗い廊下に響いている。
(手も、髪も、全部)
誰もいない廊下を進んでいく。
布の擦れる音がやけに大きい。
雪男は、大きく呼吸をした。
(僕は、全部が)
モドル