ああ、傘。傘を、忘れた。

時期はもう梅雨のさなかで、なぜ忘れたのかと自分を責めるも虚しいだけだ。朝の天気が良かったのだ。久しぶりに晴れ間が覗いて、雲の隙間からおひさまが顔を出した。
午後になるが早いが入道雲がもくもくと膨らみ、やがて黒くなって雷を鳴らした。降り出した雨は、止みそうもなく地面を叩いている。

(走るか、何か探すか)

友人はみな帰ってしまった。残された選択肢は二つ。このままびしょ濡れ覚悟で走るか、校内をうろつきゴミ袋でもかぶって帰るか。玄関の前で立ち尽くしながら、走るに不向きなローファーを持て余した。

二つ隣の下駄箱の前で、もう一人立ち尽くす女の子がいた。止みませんねと曖昧な笑みを交換して、二人して暗い雨雲を見た。

「ム、そこの女子、傘がないのか?」

二つ向こうの下駄箱の女の子に、聞いたことのある声がかかる。有名な声だ。独特な言い回し、甘い響きのテノール、自転車競技部の、東堂くんだ。

「俺はデキる男だからな、折りたたみがある、良ければさして行くといい」

東堂くんは女の子からモテて、自転車が速くて、二年生の時に一度同じクラスになった。私は当時少しだけ、ほんの少しだけ、東堂くんが好きだった。

残念ながら折りたたみ傘のお声がかかったのは二つ向こうの下駄箱の女の子で、お礼を言って傘を受け取っていた。雨は止みそうにない。私は走るしかなさそうなことを悟って嘆息した。

「君もないのか、みょうじさん」
「、東堂くん」
「朝は晴れていたからな、天気予報を見なければ分からなかっただろう」

東堂くんは蒼い大ぶりな傘をちらつかせる。どうせ天気予報は見ていませんよと悪態をつくも、久しぶりに言葉を交わして胸が高鳴った。
東堂くんは傘を開く。ばん、と布の張る音がして、土砂降りの中に東堂くんが足を進めた。

「その、みょうじさん」
「ええと、なに」
「良ければ、入っていかんかね」
「え、」

いいの、と問えば笑顔が返ってくる。忘れていた恋心が再び芽吹く音がしたような気がして、頭を振ってから東堂くんの隣に滑り込んだ。思っていたより背が高い。傘を持つ手、グローブの形によく焼けてる。傘を叩く雨の音が沈黙をなかったことにしてくれる。

「ありがとう、助かるよ」
「女子を雨の中走らせるなんてならんよ」
「今日は部活、ないの?」
「設備点検で外回りの予定だったのだがな、この雨で中止だ」
「走れなくて残念だね」
「俺の部活を、知っていたのだな」

東堂くんが笑ったような気配がして、私は彼を仰ぎみた。端整な横顔、カチューシャで髪が押さえられたせいで見える薄い耳たぶ、口元はやっぱり笑った形に上がっている。
部活なんて知ってるに決まってる。二年生の時の私は、東堂くんが好きだったんだから。

「折りたたみ傘をみょうじさんに渡さなかった理由は、分かるかね」

そこの交差点を曲がって少ししたら、もうそこは私の家だ。大ぶりな傘は雨粒を受け止めては端に流した。

折りたたみ傘を渡さなかった理由?
私の方があとから、東堂くんを見つけてもらったから、だろうか。

「あの女子がいなかったら、俺は折りたたみ傘は鞄に入れたままだっただろうな」
「……分かんない、よ」
「無理もない」

東堂くんは笑う。大きな口から白い歯が覗いた。もう家に着いてしまう。こうして肩を並べて歩く時間が、終わる。

「傘に入れたかったんだ」
「へ」
「みょうじさんと相合傘を、したくてな」

じゃあな、と傘から屋根へ雨よけの役目を移され、東堂くんが後ろを向く。蒼い傘から透明な雨だれが東堂くんの肩に染みを作っていたことを今更知った。

待って東堂くん、それ、どういう意味なの。
来た道を帰るのは、肩に雨を浴びせた理由は、折りたたみ傘を私に渡さなかったわけは。

「っ、東堂くん!」

振り向いた彼が何か唇を動かすけれど、雨がうるさくて聞こえない。

唇が、私の都合のいいように動いたような気がした。



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