誰もいない部室になまえがペンを走らせる音と時計が一秒一秒時を刻む音が静かに響く。ノートの半分ほどを埋めたところでなまえは顔を上げ、時刻を確認した。もうそろそろ自主練で外周に出た彼が返ってくるころだろう。そんななまえの考えは見事的中し、ほどなくして少し立てつけの悪くなった部室のドアが鈍い音を立てて開いた。


「まーだやってんのォ?」

「うん、日誌があとちょっと」

「ハッ、ご苦労なこった」

「荒北こそ、お疲れ」


 本当は日誌なんてすぐに終わるというのに、やけに時間をかけ、なまえがわざとこの時間まで残っていることを荒北は知らない。用意しておいたタオルをなまえが差し出せば、荒北はその細い目を少しだけ見開いた後小さく礼を言いながら受け取る。柔らかいそれに顔を埋めれば微かに洗剤の匂いが香った。


「冷えないうちに着替えてきちゃいなよ」

「おー」


 なまえの言葉に素直に従い更衣室へと姿を消す荒北の後姿を見て、彼が着替え終わるまでに残り少ないこの仕事を片付けてしまおうとなまえは意気込む。寮までのわずかな道のりを一緒に帰るくらいの下心は許されたっていいだろう。



 □



「入るよー?」


 日誌をまとめ終え、身支度を済ませて待っていても姿を見せない荒北を不思議に思い、普段は足を踏み入れない男子更衣室へと向かう。念のため中に向かって声をかけるが、返事は返ってこない。もしかしたら気づかないうちに先に帰られてしまったのかもしれない。


「お邪魔しまーす……」


 沈む気持ちに気づかないフリをしてそっとドアを押し開けて中をうかがう。するとそこにはベンチに腰掛け、ロッカーにもたれかかるようにして寝ている荒北がいた。制服に着替えたところで力尽きたのだろうか。床におかれた鞄には乱雑に突っ込まれたジャージが中途半端に顔を出している。


「おーい、荒北ー?」


 呼びかけても、閉じられた瞳が開く気配はない。普段あまり気に留めることはないが、伏せられた瞼から生える睫毛はその一本一本が長く美しい。女である自分よりも綺麗に生えるそれに、なまえは不公平だと思わずにはいられなかった。
 随分と深い眠りについているのか、いつも不機嫌そうに歪められている眉間からは皺が姿を消しどこかあどけない印象をもたらす。少しあいた口からは微かに息の漏れる音が聞こえる。すやすや。そんな表現がしっくりくるほど、荒北の寝顔は無防備であった。

 箱根学園自転車競技部はインターハイ常勝校であり、王者であり続けるために負けは許されない。そのためにも部員は暑かろうが寒かろうがペダルをまわし、体を作り、へとへとになるまで日々練習を重ねている。なまえの目の前で寝こけているこの荒北靖友という男だって例外ではない。入部当初は何やら時代錯誤な髪形をして誰彼かまわず噛みつき、練習などやっていられるかと悪態をついていた姿が目立った。しかし、そんな言動とは裏腹に、誰よりも遅くまで残り、黙々とペダルを回し、全国から猛者が集まるこの箱学チャリ部で高校からロードを始めた彼はレギュラージャージを手にした。それがどれほどすごいことなのか、三年間近くで支えてきたなまえには痛いほど分かる。

 静かに上下する荒北の肩を見ていたら、次第に瞼が重くなってきた。随分と前に窓の鍵のチェックは済ませたし、日誌も先ほど書き終えた。後は電気を消して部室の戸締りをするだけ。

 少しだけ、少しだけなら

 誰に言うでもなく心の中で言い訳をし、そっと荒北に並んで目をつぶる。視界がなくなった分、隣から聞こえる寝息がやけに近く感じる。ゆっくりと沈んでいく思考の片隅で、なまえはこの小さな幸せをかみしめた。



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