前後左右が分からない。
そんな感覚と同じです。
私は今、どんな状況下なのか分からないのです。
「・・・さゆき・・・」
ハラダ様の角張った大きな掌が、頬を滑り落ちていきます。
親指が唇を淡くなぞり、背筋が自然に伸びました。
本能的に逃れたいと察したとこまでは良いのですが、体が言うことを聞きません。
「・・・馬鹿なのかお前・・・。早く突き放してくれよ」
逸らせない瞳の中に文字通り呆然と立ち尽くす自分の姿がありました。
橙の中で私の頬が赤く染まっていたかどうかまでは確認出来ませんでした。
「おいさゆき・・・いいのか?」
『あ・・・、』
零れ落ちた言葉は意味を持たず、ハラダ様の焦りを倍増させたようです。
舌打ちを軽く打った彼は、私をその胸にもう一度引き込みました。
「は、はは・・・。悪ぃなさゆき。こんな、こんなつもりじゃ無かったんだ」
私の肩に埋めた頭が、ゆらゆらと横に揺れます。
ふわりと鼻を掠める匂いは男性特有のもので、ペトラちゃんやチヅルちゃんのような日だまりのようなものとは少し違います。
けれど、温かさは同じように感じられました。
「このまんま流されてると、喰われちまうぞ」
『喰わ、れ・・・?』
「意味すら知らねえのか、参ったな・・・」
“・・・理性を保てなくなりそうだってのに・・・
嘲笑を浮かべたのか、鼻で笑ったハラダ様の声が耳に響きます。
『あ、の・・・、』
「・・・すまねえ、もう、終いだな」
『ハラダ様?』
「大丈夫だ」
『でも、』
「わがままに付き合ってくれてありがとな」
体を離した彼は頬を撫でた手で頭を撫でると、そのまま勝手場の出入り口へ向かっていきます。
気づけば私も、さっきまでの哀しい感情をきちんと整理できたのか落ち着いていて、咄嗟に呼び止めました。
『さ、サノスケ様っ!!』
「・・・は?」
勢いよく振り向いた彼の顔と体面するときには、既に私は頭を深く下げていました。
『サノスケ様のお陰で、私も気持ちに整理がつきました。お話を聞いてくださって、ありがとうございます』
「俺は何もしてねえよ」
『いえ、そんなことはありません。もう一度、オキ・・・いえ、ソウジ様と話してみます』
言い終わって、顔を上げた先に見た景色は心なしか色が濃く、鮮やかに明るく光っていました。
視界の隅で燃える炎は、ハラダ様の瞳の色に似ていたことを知ります。
ニヤリと口角を上げたハラダ様はひとつ頷き、勝手場を出ていかれました。
私も息を吐き、自分の両の手で頬を挟むように叩きます。
パチンっと軽い冷たい音がして、そのあとの場の静かさを際立たせました。
『・・・ちゃんと、向き合うよ、リヴァイ』
目を閉じれば、直ぐに瞼の裏に描かれる彼の顔。
嗚呼、一体もうどれ程見ていないのでしょう。
だけれど、私はそのお陰で、あと少しで成長出来る気がするのです。
『・・・強くなるから』
リヴァイ以外の人たちを、何処かで警戒して、壁を作って。
そのなかでリヴァイに守られるだけなんて甘えたことはもう終わりにしましょう。
あの過去を、ただの“過去”として割りきってしまうことは想像以上に容易く無かったけれど。
ペトラちゃんやエルドくん、オルオくん、調査兵団の皆さん、そして新選組の皆様は信頼出来る人たちです。
私の恐怖を塗り替える数としては、もう十分足りています。
貴方に会う前に、変わっていよう。
そう決意して、勝手場を出ました。
人目を気にせず、履行にこの身を捧げよう。
(あれ、ヒジカタ様・・・。お茶ですか?それでしたら私がお持ちいた、)
(・・・守ってやるよ)
(え、何を、ですか?)
(その間、お前を守ってやる)