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■ ■ ■


その日も、彼は無表情で乗り込んできた。
達成感も臭わせなければ、疲労の色も窺えない。
向かいの窓に映る姿は相変わらず凛としていて、それが崩れるような綻びも何一つ見られなかった。

なまえはそっと瞼を降ろす。
膝の上に置かれた黒いショルダーケースを一瞬だけ通りすぎて、視線は暗闇に飲み込まれた。
ガタンゴトンと、腰から上を揺らす震動は意識すれば案外心地好いモノに思える。

三号車の四番目のドアから入ってすぐ右側にある座席。
一番左の席が、なまえの帰宅電車の指定席だ。
パーソナルスペースが広いと言われる日本人の例に、おそらく彼女は漏れない。
知り合いなら未だしも、他人とは出来るだけ距離を置きたいと思う。
そんな彼女が選ぶ席は、一人としか隣にならない場所──つまり一番端だった。

終電の二本ほど前のこの車両は、平日のなまえのお決まりである。
仕事上、どう足掻いてもこの時間帯の電車にしか乗れないのは勤務を続けて五年、良く理解できている。

日付の変わる手前、睡魔はカフェインという敵の攻撃をくらいながらも足を引きずって歩み寄ってくる。
そしてその手に捕まり逃げてはまた捕まるのを繰り返すことが、なまえの三十分の乗車時間の過ごし方だった。


この車両に乗っている人は少ない。
運が良くて彼女と列の違う座席に一人居るかいないか、運が悪くて片手で数えきれなくなる程度だ。
しかしそれは、数ヶ月前の話になる。
数ヶ月前から、運が良くても、一人は確実に同乗するようになった。

黒に近い群青の髪を襟足と片目を隠すくらいに伸ばしている、二十代前半の若い男性。
背筋をきちんと伸ばし、皺一つ無いスーツを抜群のスタイルとルックスで着こなす貴公子のような人。
彼はなまえと同じ列の、彼女の右側三つ隣に決まって腰かける。

なまえの乗車駅から二つ先の場所から乗り込む表情は、いつも変わらず無愛想であった。
しかし、怒っている様子はなく、ただ淡々と震動に身を任せ揺られていた。





なまえは自分が乗車し、彼が座席についてから数分間の睡魔との闘いを辞退するようになっていた。

  綺麗な人だなぁ。

目の前の窓にうっすらと映る男性を夜景の一つとして眺望しては、いつもそう考えさせられる。
恐らく同じ社内だったら、あっという間に独身のメスのハイエナに集られているだろう。
きっと彼は何処へ行くにもそんな面倒が付いて回る運命で、しかししれっとした態度で軽くあしらい払ってしまうのかもしれない。

  知らないところで修羅場とか始まっちゃうんだろうな。

罪な男だ、そう口の中で一人呟ちて、なまえは漸く睡魔に対峙──ではなく、敵に背を向け逃げ始めるのが常だった。


乗り合わせる時間的に、赤の他人とは言えない顔見知り程度の認識ができるようにはなっただろうか。

最初、降りる駅どころか出口まで同じだったことに若干の驚きとなぜか焦りまで覚えたが、そこで男が三号車に乗りなまえの近くに座ることも納得した。
彼女らの座席の一番近いドアから出れば、ホームから改札へ抜ける階段のすぐ目の前に下車できる。

なまえとの三席の距離は利便性とパーソナルスペースの許容範囲の妥当な均衡位置だったのだろう。
スペースの範囲といい、そういったことまで計算してしまうことに親近感を感じたのはなまえだけの話。

仕事もそつなく熟してしまいそうな彼が、一年後にこの車両を使わなくなる可能性も十分あり得る。
どちらにせよ、なまえにとっては仕事終わりの目の、ちょっとお高いご褒美でしかない。

  本日も美味しく頂きました。

音を乗せず唇を動かすだけで紡ぎ、なまえは今日の睡魔への抵抗を止めた。









「───い、おい。」

“この資料、仕上がってるのか?”

  もう、終わってますって。

「あんたも、次で降り───?」

「○○ー、○○です。出口は左側です。お降りの際は足元にご注意──」

“・・・問題はないようだな。よし、気を付けて帰れよ、”

  はいはい、ありがとうござ・・・、

“と、言いたいところだが、これも頼む”

  はっ?

“頑張れよ”

  いやいや、その親指へし折りますよっ?!?!
  無理ですから!勘弁して下さいっ!

「───致し方ないな。」

“俺も一緒に待っててやるよ。コーヒー買いにいってくる”

『終電逃すから手伝ってくださいよそこはァァァ!!!』

部署を出ようとする部長の腕を掴み、起き上がると。
強い明かりが目に飛びこみ、なまえは反射的にまた瞼を閉じる。

その刹那、ぐいっと腕を引かれて走りだし、迫る二つのドアの隙間をすり抜けた。
ホームに降りた瞬間、プシューット音をたてて隙間は埋まる。

「二番線、発車しまーす」

アナウンス越しの肉声に、なまえはようやく覚醒して周りを見渡した。
直ぐに腕を掴む手に気付き、その長いものを辿って視線を上げていく。
夢の中ならば、この手はもちろん、

『ぶ、ちょ・・・・・・ぅ???』

「・・・目は、完全に覚めていないようだな。」

『じゃっ、ないっ!!!』

かっと見開いた目に映るのは、鮮明な色を成した、いつもの男性だった。
明かりの中で見ると、初めて瞳まで黒めの藍色に染まっていることを知る。

腕は振り払うまでもなく、優しく離された。

「すまない、強く握りすぎたか?」

『っ・・・!!』

パーソナルスペースは、完全に侵されていた。
彼も同類だと思ったのだが、見当違いだったようだ。
なまえから距離を置き、首を横に振る。

『い、え、あのっ、腕は痛くはなくて・・・っ、喉が・・・、』

ちょっと待てちょっと待てと、なまえはショートしそうな頭の動きを抑制する。
もしかしなくても、彼女は顔見知り寄りの他人に叫んだのではないか。
是非ともそうでなくて欲しいが、この口の中の痛みはどうやっても否定できず、乾いたカサカサの喉は傷つけられている。

睡魔はとっくに消え失せ、こちらも捕まれた傷跡よりジクジクと痛みが残っている。
無言のなまえを見て、男は無表情の顔を崩した。

「ふ、はっ、」

『え?』

「いや、すまぬ・・・っ、」

顔を背けながら肩を震わす男の身長は、なまえより頭半分高い。
後ろの方で、次の電車が到着するアナウンスが聞こえ、なまえは重要なことを思い出した。

『あのっ、ありがとうございました!私、起こしてもらわなければあのまま乗り過ごしてました!』

「・・・いや、役にたてたようで良かった。」

その時の彼を、なまえは一生涯忘れない。
口角しか実際は動いていないが、それはそれは綺麗な微笑であった。
この世のものではないと疑いざるを得ないほどに、思わず息を呑む。

そして同時に、彼女の胸がその嬉しさに大きく高鳴った。



またもや呆然と突っ立つなまえの腕を彼は今度は優しく引いた。

「あんたも、こっちの出口だろう?」

彼の後ろをなまえが歩くこの体勢が、横一列で並ぶようになって、そしてこの日歩いた帰り道を彼が元から知っていたと暴露するのはもう少し先の話。








嬉しさの理由わけは、

あなたの笑顔の理由になれたこと。





(斎藤、一さん?)

(あぁ。あんたは?)

(みょうじ、なまえです)

(なまえか・・・、いい名だな)

(・・・っ、(この人天然たらしだ)