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これほど、廊下を長いと思ったことはなかった。
木のつける緑しか見えない窓。
閉まりきった誰もいない教室。
一定した秒針の足音。
目の前に積まれたノートと本の山。
無味無臭の白い道。
唯一変わるものといえば、吹奏楽部の練習曲に運動部の応援と注意の咆哮。
人間、それだけの変化じゃ物足りない。
『・・・恨むよ土方先生・・・』
三年間使うこの馴れた廊下も、先が見えなきゃただの真っ暗闇。
あとどのくらいで目的地の階段なのか。
あとどのくらいで曲がるのか。
そもそもここは何処なんだ。
教室の位置なんて毎年変わり、挙げ句ザ☆インドア派のなまえにしてみれば校内を巡ることなんて滅多になかった。
特別教室や職員室の場所は変わらないからだいたい下を向いて歩いても何ら困らない。
そんな自分にとって各教室のクラスプレートなんて視界外の範疇だ。
おまけに成長期というものをあまり知らずに生きた己の身体は、この両手にかかる負担を重心で傾げるなど以っての他なのだ。
『お??あれは・・・』
姿見を十人分くらい繋げた巨大な鏡に、彼女は映っていた。
横から見るとよく分かる。
段ボールからはみ出た山積みの天辺が眉の辺りまで伸びていることが。
この鏡は突き当たりに位置する職員室への一本の廊下沿いにある。
角二つ分を越えた壁沿いに設置されているのだが、目指す階段は今の距離の倍くらい。
普段自分たちは数秒でここまで来てしまうというのに・・・・・・ナンダ。
『まだこんなところだったのか・・・』
トロンボーンのグリッサンドの音が、心なしか肩を叩いた気がする。
しかし、ここでうじうじ言っている暇もない。
腕が痙攣を起こす前に何とかしても教室へ行き、家に帰る必要がある。
『今日は稼ぎ時なんだから・・・、』
このあと体力を削がれるのは先週の今日から知っていたこと。
そして今日が終われば、明日の休日は少しだけのんびりできる。
平穏な一日を是が非でも失うわけにはいかない。
そして、この仕事もこなせば明日の達成感も増すに違いないのだ。
亀歩きには変わりないが、それでもまた一歩また一歩と進みだす。
次の角を左に曲がり、そして今度は突き当たりの階段までまた直線する。
やはり先は長いが、なまえは確実に放課後終焉までの道を辿っていた。
『何で三年生の教室が四階なんだよもう!!』
ぜぇはぁと息を切らすなまえが立っているのは、四階まであともう一踏ん張りという踊り場。
しかしこの数十段が辛い。
魔の十三階段とかで一段増えられたら堪ったもんじゃないのだ。
『今何時かなーー』
五時半からはバイトが始まってしまう。
『・・・よし、あと少し!!』
声だけで喝を入れて鼓舞したなまえは、いよいよ最後の砦に足をかける。
一歩、二歩と一段に5秒ずつ位かけ、十段ほど登ったところで探りに入った。
あと何段あるのかを確認するには、膝を伸ばしてもう一つ先の段か試行しにければならない。
これにはさっきの三倍くらいの時間がかかる。
たった十五秒、なまえにとってはされど十五秒。
階段も喜ぶこと一分後、なまえは漸く天辺に上り詰めた。
『は、終わった・・・』
階段から一歩離れたところで、立ち止まった彼女は深い息を吐く。
『ここから教室まではあと・・・十分とかかな・・・は、ハハハ』
ダメだ。自分で言ってて悲しくなってきた・・・。
だが、この重さにも慣れてきたのも事実。
もしかしたらもう少し早く行けるかもしれない。
期待を胸に、もう一度短く呼吸をしたその時────
『──ッ?!?!』
「───っ、」
右肩に走った鈍痛。
気づいた時にはもう、遅かった。
捻られた身体は無惨にも段ボールを放り投げ、約二分の山道上をバサバサと飛んでいく。
そして自分の肢体もまた支えきれず、階段の方へと傾いた。
全てがスローモーションに見えた。
氷が水に溶けるかのように、ゆっくりと進む現状。
このあと自分が階段から転げ落ちるのはもはや予測するところではない。
ならばむしろ早く落ちたい。
理性は本能とかけ離れた場所で冷静だった。
本が床に着くのと、視界が階段のクリーム色で埋められたのは同時。
しかし彼女の身体はそこで静止した。
冷たいのは、響いている本が衝突した音だけで。
なまえの身体は温もりに抱かれていた。
ついに止まった世界で。
「みょうじ!!大丈夫か?」
『さ、斎藤くん・・・?』
「すまぬ!俺があんたにぶつかってしまった故に、」
『───ああぁぁ!!!ノートが!!土方先生の教材がぁぁ!!』
「っ・・・!」
(貴方に逢えた。)