今週の赤い文字についたピンク色の文字。私はそれをここ2週間かなりニヤついた顔で眺めていたと思う。だけどそれも今日限りでおしまいだ。
黒いペンで斜線を引けば、同時に心にも同じように線が入った気がする。
はぁ……。……こんな感情ダメだ。私が好きなのはただの西谷夕じゃなくて、烏野高校バレー部リベロの西谷夕。何て言ったってバレーをしてる姿を見て好きになったんだ。
だから私は、練習を理由に数ヵ月ぶりのデートがおじゃんになったって何も思わない。突然練習試合を入れた先生は事情なんて知るはずもないし、仕方ないと分かってる。そして私はマネージャーだ。この練習がみんなの為にならないわけがないし、全力でサポートしていく所存である。
だから、何も思いたくないし言いたくない、けど。
『ぜっっったい覚えてないと思う』
「そ、そんなことないですよ!」
『大有りだよ、だってただでさえバカだもん!! 付き合った記念日なんて覚えてるはずないよ!! だってバカだもん!!』
「すごい言われようね……」
右の仁花はオロオロして、左の潔子先輩は苦笑い。
部日誌とスケジュール帳を机に並べて、この葛藤を堪えきれず溢す。それを拾ってくれる彼女たちは全ての事情を知る同じマネージャーだ。練習の重要性も、行き場のない気持ちも、……黒い斜線を抱える日への期待も。
そして、今日の練習中。顧問である武田先生からの悲報が、彼にとっては朗報だったあの憎き反応を共に見ていたのも彼女たちである。隠しきれず田中たちと一緒に咆哮を上げた姿に、無理矢理刻んだ苦笑をがどんどんへの字口になって。揚げ句その後も何のフォローもしてこない夕に沸々と怒りが溜まっていき、帰りにアイスをやけ食いするという決意に至ったすべての経緯を知る唯一のメンバーだ。
自分から声を掛けて後の予定を立ててもいい。いいけれど、……夕の中での “彼女” が “バレー” に負けているという確信に近い疑念を持つこちらとしては、それを返上して欲しい機会だった。
ピンクの下に並べられた、真新しいオレンジの文字。スケジュール帳の大半を埋めるその色を部活用にしたのは、夕がいたからなのに。あぁ、今思えば、クラスも違う彼に会えると心を踊らせてオレンジを滑らせたあの頃が一番幸せだったかもしれない。恋愛は片想いが最も充実してるとは、なかなか真理である。
そうして、向こうから結局何の気遣いも無くその日を迎えてしまった。とりあえず私情を持ち込まないことだけを心に宿し、今日も今日とて烏野高校男子バレー部のマネージャーとして働いていく所存である。
幾つかの電車とバスを乗り継いだ本日の練習相手校は、最近名を聞くことが増えた中堅校だ。男子校だという情報に “潔子守り隊” は今回ものっけから他とは違う闘志……よりも信念のようなものに燃えている。そこに我が彼氏がいることなどもはや問題ではない。というか、むしろ私もその隊に片足踏み込んでいる。潔子さんを守ることに関して、夕とは同盟仲間だ。今年は仁花もいることだし、戦力は必要。
相手校はやはりというか当たり前というか、マネージャーという存在がいないため、色んな業務をローテーションで回すらしい。自分達で用意していたドリンクを運ぼうとしたところに鉢合わせした私は、小林と名乗る後輩くんに話し掛ける。
うちのメンバーはみんなアップをしている。スタメンやレギュラーじゃないにしても、対戦校や自分の先輩たちの様子を観察する時間は大切だろう。
『そういうわけで、置いといてくれれば一緒に運ぶよ』
「いや、でも、」
『なんか言われたら私から監督に説得するし、ついでだから本当に大丈夫。それに、今日のマネージャー業務は烏野に任せていいって言われてない?』
私たちはむしろ武田先生にそう頼まれている。まぁ、かえってありがた迷惑にならない程度に、とストッパーも用意されてるけれど。顧問同士の伝達はそんなに杜撰でも無いのか、心当たりがあるような素振りを見せた彼の背中を押し、部屋から強引に押し出す。
仁花たちは得点板の用意をしてくれているはずだけれど、私がこれを持っていく頃にはそこそこ準備も整っているかな。
そう思って体育館に戻った私は、絶句した。両校の顧問と監督が運良く席を外していたタイミングだったとしても、…………碌でもないな、野郎共は。
「ちっちゃい! 可愛い! 彼氏いるの?」
「あわ、あわわわ……っ」
とりあえず近場で絡まれてる仁花に近づき、『スミマセン仕事あるんでこの子返して貰いますね』と無理矢理連れ戻す。往生際の悪い男はのこのこ付いてきてるがひたすら無視。
困った顔をする仁花に小声で『大丈夫、あとでちゃんと追い払うよ』と伝える。今ドリンクを抱えるこの手では思うように救えないからなぁ。
仁花に頼んで相手校のベンチにドリンクを置いてもらい、得点板を挟んだ先にある烏野のベンチにもふたりでドリンクを置く。その最中もひたすら話しかけられていたけれど、相手にはしない。
そんな私たちとは少し離れたところで、一際大きな声が耳を劈いた。
「おい貴様ァア!! 不純な目で潔子さんを見るな!! 汚れるだろうがァア!!」
「田中うるさい」
バインダーを持って向こうのチームに話しかけていた潔子先輩が田中を睨む。向こうのスコアシートもこちらで付けることになったから、たぶんそれについて何か相談をしていただけだと思うけれど。
潔子先輩と直接会話していた目の前の人はキャプテンだが、田中が目を光らせた先は彼ではないようだ。そのキャプテンの隣にいる人物が口を開く。
「3人もマネいるんだからこの人くらい貰ったっていいだろ!」
「良くねーよハゲ!! 潔子さんは烏野のメシアなんだよ誰が渡すか!!」
「西谷クン、みょうじサンの目が怖いんだけど」
聞き捨てならないな縁下。別にそんな目してませんけど。
「大丈夫! なまえも同じこと思ってるから!」
……さすが、腐っても彼氏。よく分かってるじゃないですか。潔子先輩がメシアなのは事実だし、夕の言ってることに間違いもないし? このイライラは夕にじゃなくてナンパする男全般に対するもので、美を追求し美に焦がれるのは人間の性だもの。何も悪いことはされてませんから。
「なまえちゃんって言うんだー、いい名前だね。」
『どうも。褒めてくださったお礼と言ってはなんですが、監督がお見えになられましたよ』
「げぇっ!?!? ありがとう!! また後でお話ししようね!!」
バタバタと駆けていく背番号の8を見送り、仁花と息を吐く。お断りしますという言葉は伝え損ねたので、そもそもお話しする時間がないと信じたい。
試合が始まれば、田中がケンカ吹っ掛けていた相手も仁花に絡んでいた8番も、小林くんも。みんな人が変わったような様子でボールに喰らいつく。それはこちらとて同じで、夕も田中もしっかりと勝利を追っていた。
スコアシート担当じゃないのをいいことに、気づけば結局いつの間にかオレンジにばかり目を向けてしまう自分がいて。嗚呼……悔しいことに、どうしても嫌いにはなれないらしい。
学校名を象った黒いユニフォームの中で異彩を放つその色はさながら夕陽の色だ。そんなポエムじみたことを考え付いたのは好きになる前だった気がする。でもきっと、これは的を外していない。空を彩る橙は時に眩しく、常に羽ばたく烏を際立たせてくれる。防御や後援に徹するリベロにぴったりなイメージだと思う。
試合結果は白星。達成感と勝利への高揚に満ちた表情で戻ってくる様子に、どうしてスン…と炎が鎮火されてしまう。くそぅ、我ながら単純すぎて呆れるわ。
この場にいる誰もが片付けに動き出す。
しゃーない。クレープでも奢らせて今回の件はチャラにしてやろう。
妥協案に涎を垂らしていると、後ろから非常に喧しく鬱陶しい「なまえちゃぁあん!」に抱き付かれる。厄介なのは、声だけでなく本体も付いてきたことだ。
向こうのキャプテンが諌めるのもどこ吹く風。彼はお腹の辺りに両手を回し、私の頭に顎を乗せる。命拾いしたなこの野郎。コレが潔子先輩だったからには貴様の後頭部にモップで君たちの汗と地面の汚れのミックスに間接キスをお見舞いするところだった。
「負けちゃったから慰めて欲しいんだけど〜」
『なぜ私が』
「一番好みのタイプだから」
ゾッ、と鳥肌が立つ。この人、頭大丈夫だろうか。うちには美しい担当潔子とかわいい担当仁花がいるのにどれにも属さぬどころか同じ土俵にもいないなまえを選ぶとは? 男としてどうなの?
まぁ彼女たちの方に行かれて我々の隊が大変になるよりかはマシだけれど。
…………そう言えば、こんなとき彼氏殿は何をしているんだろう、と。そちらを視界に入れようとしたときに、小林くんがぬっと現れた。
「なまえ先輩! ちょっとドリンク作りのことでご指導ご鞭撻頂きたいのですが!! お連れしていいですか八幡先輩!」
「え、『あー、いいよいいよ。行こうか小林くん』あ、おい!」
助けに来てくれたことは明白だった。ならばその手を握るしかない。ロックされていたヤハタ先輩の手を普通に触って解除し、小林くんの手首を掴み引いて体育館を出るため歩く。
道中、若干震える声に加えて明らかに威勢を張ってくれた様子を思い出して笑ってしまった。うんうん、可愛い系の後輩だ。うちの日向と山口ポジだね。
『助けてくれてありがとう』
「いえっ! その、……もっと上手く出来れば良かったのですが……」
『上手く? 親切に正解も不正解もないよ。行動できた時点で花丸でしょう』
「……そう言って頂けると嬉しいです」
照れ臭そうに笑う小林くん。いかんいかん、思わずキュンとしてしまった。お姉さまキラーなタイプやこの子。
少なくともうちの彼氏殿より速く来てくれた。その事実には悲しさと言うより空しさが浮かぶ。
───……潮時、かなぁ。
そもそも、アイツの中で私が潔子先輩に勝るところなんて無いのは分かりきってるし、今更ながらどうして告白をオーケーしてくれたのか甚だ疑問である。……一応、返事をくれるときは頬を赤く染めていたけれど。それだって両想いに対するものではなく、告白というイベントに照れてただけかもしれない。オーケーしたのは何となく、だったのかな。あんまりそういうことするタイプじゃ無いはずだけれど、……なんかもう、夕のことよく分かんないし。
ついでなので小林くんにマネジ業務を教える。継承し終わってふたりで体育館に戻れば片付けも終盤に差し掛かっていた。
小林くんの同輩が彼を茶化す。ちらりと夕を確認したけれど、こちらには背を向けてカバンの中をごそごそ弄っていた。……どうにも、心配どころか興味すら抱いて貰えないらしい。あーあ、何だかまた腹が立ってきた。少しくらいそういう素振り見せてくれてもいいじゃん。彼の素直すぎるところもアレだったけれど、今回ばかりは裏目に出てるなぁ。
烏野の見送りと共に、今日は小林くんたちのところもそのまま解散するらしい。最後に個人的挨拶に駆け寄ってくる小林くんと、流れで校門まで歩く。潔子先輩と仁花は一緒に歩いているし、夕をはじめ田中や東先輩が周りを囲んでいるから大丈夫だろう。
『え、私の家もその近くだよ!』
「本当ですか!?」
思わぬ偶然にふたりで盛り上がる。男子校だから私の選択肢にこの学校は無かったけれど、小林くんは烏野と迷ったらしい。
先頭を武田先生と歩いていた澤村先輩が、振り返って私たちに叫ぶ。烏野もこのまま現地解散になったらしい。元々休日にする予定だったのもあるからだろう。日向や影山は普通に学校に寄って自主練して帰るんだろうけど。
ふと、夕はどうするのかなって考えて、数秒もかけない内に頭から追い払う。ダメダメ。こうやって気にするような関係じゃ、……なくなるんだから。あんなやつどうでもいいじゃん。
校門を潜り抜けながら、イライラを呼び戻す。それは酷く身勝手でエゴイズムだけれど、それでもきっと、好きなら仕方ない感情で。……夕には理解できないものかと思うと、やっぱり蒼黒い感情もあった。
「あの、」
『はいっ!? あ、ごめん、ちょっとボーッとしてて……』
突然話しかけられて驚く。ああ、小林くんが隣にいることをすっかり忘れてしまっていた。謝れば、顔を顰められる。
「……送ります」
『へ?』
「家が近いことも分かりましたし、……八幡先輩のこともあります。だから、お送りします。一緒に帰りましょう」
さっき私がやったのと同じ事を、される。手首を掴まれて、前の連中から逸れて斜めに進み始めた。
『こ、小林くん?』
「こっちの方が近道なんです。八幡先輩に気づかれる前に早く───「どこ行くんだよ」───え、」
ピタッと足を止める小林くんだけど、先にそうしたのは私の方だ。だって、空っぽの手のひらに、何かが重なってる。この大きさと、温もりを、痛いほど知っている。
小林くんは私を見下ろしたけど直ぐに視線を数センチ上に上げた。それに肖る形で、恐る恐る線を辿る。夕日の逆光で影になっていて良く見えない。もちろん表情も上手く読み取れない。…………ただ、棘々していて、殺気みたいな、ものが……刺さる。
それなのに、───嬉しい───なんて。私は、本当にどうしようもない。
「……リベロの、西谷さん」
「小林、だっけ。悪いけど、」
手を引かれて、後ろに重心が傾く。数秒もしないうちに肩も掴まれて、拘束ともいえない小林くんの弛い枷から手がするりと抜けた。
「コイツ、俺のだから」
『っ、』
「見送るのも守るのも、お前じゃなくて俺の役目な。───行くぞ、なまえ」
小林くんを追い越すように角を曲がる。バクバクと、心臓がまるで耳の中にあるみたいに鼓膜のすぐ近くで騒いでる。胸が苦しい。だからか泣きそうで、色んなものが堪らない。
だけど、2区画分歩いたところでブンッと無造作に手を振り払われた。は? なに、いきなり。再沸騰しそうなところに、振り向いた夕の冷水のような表情が上から勢いよく降り注がれる。不機嫌なときに見せる仏頂面じゃない、まるで能面だ。嬉しい嫉妬かと思いきや、そんな可愛いものではなさそうだ。かといって、私を責めるのはお門違いだと言いたいけれど。
「…………何してんだよ」
『何ってなに。別に怒られるようなことしてないけど』
「してただろ!! 抱き付かれたり手を繋いだり! 挙げ句なまえからも繋いでた!! 馴れ馴れしく名前呼ばれてた!!」
『不可効力だし手は繋いでない!』
「言い訳すんな!」
『はぁ!? じゃあ言わせてもらうけど、そんなに言うなら夕がどうにかしてくれれば良かったじゃん!! 小林くんの方がよっぽど気にして守ってくれてた! お礼は必要だけど非なんて全くない!』
「っ、だって!」
『なに!!』
「なまえ今日ずっと怒ってたし…………」
『は、』
はああぁぁあ??急に犬の耳みたいなものを生やして折り、悄気る態度に絶句。私が、怒ってたから?? ふざけてんの?
「俺に近づくなオーラ出すし、普通に避けたり払ったりすると思ってたんだよ!」
『出してない!』
「出してた!」
『夕が面倒がって話しかけたくなかっただけでしょ!!』
「話しけたかったに決まってるだろ! 一緒に帰んねぇでどうやって渡せって言うんだよ!!」
ゴソゴソとジャージのポケットから出したものを無理矢理手に握らされる。ラッピング梱包、だ。どっからどう見てもプレゼントなそれはノートのピンク色と似ているのに、私の目を白黒させる。
「っちゃんと、覚えてるし、悪かったと思ってるよ!!」
『え、』
「……潔子さんに言われたんだ。俺が、今日が何の日か忘れてるって思われてるって。そりゃあ、確かに今日の相手は初めてのやつらだから喜んだけど、でも別に、…………なまえよりそっちを選びたかったわけじゃねーし……。言うの、なんか、…………アレで、だからずっと先延ばしにしてたら、今日になっちまって……」
『もういい、分かった。私の方が負けですよ』
目線を明後日の方に向けてつらつらと纏まらない言葉を垂らすこの人は、知らないだろう。結局、恋は惚れさせたもん勝ちだということを。嫉妬だってなんだって、想ってる方が何倍も難しくて苦しくて、……受け身は単純な姿勢ですぐ舞い上がって、楽しいこともあるから、止められない。
「負けって、何が?」
『…………別に。夕も物好きだなって話』
「はぁ?」
全く、骨抜きにされる身にもなってほしいものだ。