放課後の体育館を訪れるのは初めてのこと。私は今、落とし物を届けると言う大切な使命を果たすべく此所に立っている。
今日が木曜日で良かった。木曜なら男子バスケ部の活動もあるからコレを渡すことができる。家の鍵と定期なんて大事なものは直ぐに持ち主の手元に返したい。
体育館の前で、もう一度名前を確認する。鍵についたストラップには定期券のパスケースもぶら下がっていて、そこから持ち主を特定できた。
───ハナミヤ マコト。
定期には片仮名で書いてあるけど、漢字も分かる。花宮くん、花宮真くん。
クラスメートで、学級委員をしている学年首席のめちゃくちゃ頭が良い人だ。二つ前の席替えで隣になってから話すようになり、この前の同じ行事で離れてしまっても暇があれば挨拶や世間話はする関係だ。
しかも彼はバスケ部のレギュラーだという。頭が良いだけでなくスポーツも出来るなんて、まるで真太郎みたい。
神様は二物も三物も与えるんだなぁ、なんて少し理不尽さを覚えながら、威勢の良い掛け声が響く空間へのドアをゆっくり開いた。
むわ、とした熱気が身体を包む。磨かれた床をキュッキュッと鳴らす音に、ダムダム力強くボールを弾ませる音。少し距離を置いた目の前を、茶色のボールをついた男の人たちがビュンビュン走り回っている。
触覚、聴覚、視覚。一気に飛び込んできた情報を処理すべく、身体が固まった。
走っている人の中には花宮くんも居て、他の人よりは比較的小柄な体型にも関わらず引けを取らない動きに思わず圧巻される。
うわぁ、……真太郎とも全然違う体格が違うのに、同じスポーツをあんな風に出来ちゃうんだ。本当に凄い。
一番話す相手だからか、若しくは用事のある相手だからか。花宮くん以外にもクラスメートはいたけれど、彼ばかりを目で追ってしまって隣に人が近づいてきたことに直ぐ反応できなかった。
「───お嬢さん。こないなとこで何しとるん?」
『っ、あ、す、済みません! お邪魔してしまって!!』
「いや、別に邪魔にはなっとらんけど……、誰か人呼びに来たんか?」
優しい声色と、独特な喋り方……関西系の方言。それらで話しかけて来たのは、眼鏡をかけた糸目の男の人だった。私は一年生だから、殆どの確率で先輩だと思われる。
私の用件を当ててくれた彼に二度頷きながら、騒がしい館内で会話をしやすいよう背を丸めてくれているのに倣って少し背伸びをする。
『あの、花宮くんに、落とし物を届けに来たんですが』
「花宮? ほんなら呼んだるから、ちょっと待ってな。───おーい花宮ー、ご指名やでー」
私から離れた眼鏡の先輩は、自分のターンが終わりフェイスタオルで汗を拭う花宮くんに話しかけていく。呼ばれた花宮くんが軽く眉を顰めてこちらを見た瞬間、目があったのが分かった。……あ、何か嫌そうな顔……。
花宮くんには本来とは違った表向きの顔があるようで、私に関してはどうしてかその仮面を着けてはくれない。他の人には紳士的で女子に定評のある爽やかスマイルを向けるのに、私と二人きりだと直ぐにそれを崩されてしまう。
やっぱりどこか胡散臭げな違和感を覚えたときに“花宮くんてあんまり目が笑ってないよねー”なんて言ってしまったのがダメだったのかな。い、一応冗談半分だったんだよ、アレ。
こちらに向かってくる花宮くんの顔は今は仮面を着けてる状態だけど、……やっぱり不自然だ。本当の花宮くんを知った私にとっては少し怖い。
「椥辻さん、どうしたの?」
『あ、あの、これ。花宮くんの机の傍に落ちてたから、』
鍵と定期券セットを両手に乗せて見せてあげると、驚いた顔をする。あ、コレは本物だ。
「わざわざ届けに来てくれたんだね。助かったよ、ありがとう」
『ううん。どういしたしまして! 花宮くん本当にバスケ部だったんだね、カッコ良かった!』
「ッ、───そうかな。椥辻さんは吹奏楽部だよね。楽器ができるのもカッコいいよ。……そういえば、部活の時間大丈夫?」
『あ、確かに戻らなきゃ! じゃあ花宮くん、頑張って! また明日!』
「あぁまた明日。鍵ありがとう、椥辻さんも頑張って」
お互いに手を振りあいながら、私は体育館の扉から離れる。“楽器ができるのもカッコいいよ”と“椥辻さんも頑張って”はきっと建前だったけど、それ以外は本物の気持ちっぽかったなぁ。ありがとう、はあんなに素直に思ってないと思うけど。
クスリと一人で笑って、ふと気づく。あの眼鏡の先輩にお礼出来てない!!
慌てて振り返れば、花宮くんが無表情で扉を閉めようとしているとこだった。誰にも見られないから仮面被ってないな、ってそうじゃない!
私が振り返ったことに訝しむ様子の花宮くんに駆け寄りながら、新たな用件を伝える。
「……何だよ」
『さっきの、花宮くんを呼んでくれた先輩に何もお礼をお伝えしてなかったの!』
「……伝えとくからさっさと行け」
誰にも聞こえにないように、花宮くんの顔の大きさくらいまで閉めかけた扉の隙間から本当の声と口調で言われる。こうなると逆らうのに萎縮してしまう私はコクコクと頷いて、『宜しくお願いします』と頭を下げ音楽室へ戻るしかないのだから不甲斐ない。花宮くん恐るべし。
とはいえ、やっぱり自分でお礼を言うことは大事だと思う。
部活終わり。用事があると断って部員のみんなを一人校門で見送ったあと、体育館の方に身体を向けている。両方の爪先を揃えて上げたり下げたり、時には踵で同じことをやってみたり。とにかく暇潰しをしながらあの眼鏡の先輩が出てくるのを待ちわびた。
先輩たちに特徴を説明して調査したところ、名前は恐らくイマヨシ、という二年生の先輩で。彼も入学当初から万年一位の成績を崩さない秀才様だという。
よく帰りがけに校門を出る花宮くんを見かけていたことからバスケ部もこれくらいの時間に終わることは推測できた。
夕闇が迫り始めた頃、漸くそれらしい団体が体育館から出てくる。先頭を歩く面子にはいなかったけれど、後方にあの先輩を見つけた。花宮くんも一緒だ。二人で歩いている辺り、仲が良いのかもしれない。だってあの花宮くんが素面だったから。
私に気づいた先輩と花宮くんは何か会話をして、それから先輩だけが小走りで此方へ向かってくる。突然自分を置いていったことに驚いたらしい花宮くんも駆け足でそれを追いかけた。
それでも先に私の目の前に到着したのは先輩の方で、息切れ一つ見せず爽やかに笑って見せた。
「さっきぶりやな、椥辻チャン」
『は、はい!』
「あぁ、名前は花宮から聞いただけやから、怪しい者とちゃうで。椥辻チャンはワシに礼を言おうと此処で待ってるんやないかって花宮が言っとったんやけど……実際どうなん?」
片眉を上げて問う先輩に、私は双眸を円くする。うわぁ、流石花宮くん!ドンピシャだ!
『その通りです! あの、さっきは時間がなくて花宮くんに頼んでしまって大変失礼しました! 花宮くんを呼んでくれてありがとうございました!』
「ええよええよ。今時珍しいくらい律儀な子やなぁ、花宮?」
先輩が首だけ後ろを見遣れば、少し息を切らしてる花宮くんが明らかに陰険な表情で「知るか」と返す。今まで私以外にその表情を見せたのを知らなかったから、今日一番の驚きだ。
「ワシは二年の今吉翔一。宜しゅうな」
『あ、花宮くんと同じクラスの椥辻円香です!宜しくお願いします!』
吹部の先輩たちの予想もまたドンピシャだった。この方が、二年の首席今吉翔一先輩。
ということは、今私の目の前には学年首席が二人も並んでいることになる。何という豪華絢爛さ。そしてバスケ部強し。
今吉先輩は私の横まで歩いてきた花宮くんに困った様子で話しかける。
「憎いなぁ花宮ぁ。こんな可愛ええ彼女がおるんなら紹介してくれたらええのに」
『か、彼女じゃないですよ!?』
「彼女じゃねーよ!」
「そうなん? ならワシにも望みはあるっちゅーわけやな」
『え?』 「は、」
キラリと、沈む寸前の太陽が光らせた眼鏡のブリッジを上げた今吉先輩は、その手であっという間に私のそれを掬い上げていた。ギュ、と握ってくる温もりはそんなに熱くなくて、でも冷たくもなくて。力強く大きな存在にドキッとしてしまう。
「こうして知り合ったのも何かの縁やろ。せやから円香チャンって呼んでもええか?」
『……! はいっ!!』 「なっ、」
まさに棚からぼたもち。いや、ちょっと違う?とにかく、願ってもない申し出だった。思わず弾んだ声で返事をすれば、くつくつと肩を揺らされる。
フレンドリーな先輩が出来るのはとても嬉しい。特に吹奏楽部は女性の先輩ばかりだから男性は少ないし、何てったって学年首席様。勉強に躓いた時は是非とも御指南御鞭撻頂きたい!
「そしたらワシのことも堅苦しくせんと呼んで欲しいとこやなぁ」
『えっ!? んー、でしたら、……しょ、翔一先輩……?』
「120点満点や。それでいこか」
『はいっ翔一先輩!』
がっしりお互いの手に力を加え合う。少し訛った“円香”も“翔一先輩”も、何て良い響きなんだろう。
と、もう片方のカバンを支えていた腕を掴まれる。
「怪しい人に軽々しく名前教えんなって小学校とかで習っただろバカ!!」
「花宮ー、ワシかて傷つくもんは傷つくでー」
何を言い出すかと思えば、黄色い帽子を被って歩いているとき耳にタコが出来るほど聞かされた教えだった。それ六年前の話だよね? 不審者とそうじゃない人の区別くらい自分で出来るまでには成長したつもりなんだけど……。
変わらない笑みで穏和にツッコむ翔一先輩を指差して、「コイツはお前が思ってるような奴じゃねーんだよ!!」と花宮くんは噛みつくように言い切った。
「一から百まできっちり計算してやがる上、ヘラヘラ笑ってる裏では何考えてるか分かんねぇし、」
『でもそれを言ったら花宮くんだって怪しいんじゃ…「あァ?」痛い!!痛いよ花宮くん!』
「要するに今自分が言ったこと全部ブーメランになっとるでってことやろ?」
「うるせーよ黙れバァーカ!!」
「小学生か」
翔一先輩が今度は関西人らしくツッコんだ。まあ、去年の今ごろは確かにランドセル背負ってたもんなぁ私たち。「ぐッ……」と言葉に詰まる花宮くんにしたり顔をしたあと、翔一先輩はネクタイを少し緩めながら言う。
「なんや驚いたなぁ。まさか花宮がクラスの女の子にも素の自分見せとるとは」
「コイツだけだっつーの。……クソ、俺のは見破って何で今吉のは分かんねーんだよケンカ売ってんのか?あ?」
『花宮くんのも見破ったわけじゃ……!』
真実を告げたのにムッとした様子の彼は私の頬っぺたを摘まんでグニグニ引っ張る。痛い!!
「あかんで花宮。好きな女の子虐めて許されるんは小学生までやから。……あ、自分小学生やったな?」
「その眼鏡ぶち割るぞ腹黒妖怪サトリ」
『もう!翔一先輩は先輩なんだからそんな口の利き方はダメだよ!! いつもの仮面つけて!』
「っだったらテメーのその呼び方もアウトだろーがよ!仮面とか言うなバァーカ!!」
いつもより数割増しのボリュームで言われて、思わず肩を縮こませる。いつもなら静かに淡々と毒を吐くのに、今日は声がでるなぁ。
すると、頭の方へ引き上げたその肩を下ろさせる手があった。……翔一先輩だ。
「……あんなぁ花宮。嫌なことを嫌だ言うんは大事やけど、理由もなしに理解させようとすんのは賢くないで?」
「あんたと話すのはストレス溜まるんだよ!」
「ワシを嫌うってのやなくて、……ワシと円香チャンが名前で呼びあってることについての話やねんけど」
ピタ、と花宮くんの応酬が止まる。様子を窺うべく横から覗き込んだけど、残念ながら顔を背けられてしまった。彼の表情がどんなものかすら見えなくて不安になる。
「…………どういう意味だよ」
「そこは自分で考えとき。……ワシは“お友達”やからお近づきの印に呼び名つけてん。それだけは勘違いせんといてな?」
『あ、』
そう言いながら私たちを追い抜いてしまう翔一先輩は、すれ違い様に私の頭を優しく撫でた。
「ほなまたな、円香チャン。気ぃ付けて帰るんやで」
『……ありがとうございます。さようなら、翔一先輩』
言い忘れた“また明日”を叫ぶと、振り返らずに片手を上げて先に駅の方へと歩いていく翔一先輩。一年後、あんな風に振る舞える人が同じ学年にいるとは思えないな。
「チッ、嘘つきが。キツネに祟られろ」
『……花宮くん、私たちも帰ろう?』
悪態吐くことに反応するのはキリがないと踏んで、掴まれていた手首を振り払い逆に手のひらを握る。
驚いた様子の花宮くんに、さっきの翔一先輩を真似た“したり顔”を見せて今度は私が引っ張っていく。
夕闇はもう片鱗を見せて、チラチラ星も瞬き始めている。それから校門を出た先で、私たちは友達を再確認するのだった。
────「で、円香チャン。花宮のこと何でそう呼ぶようになったん?」
翌日、昼休みに廊下で出会った翔一先輩に訊かれてあのときの様子を思い出す。そういえば終始そっぽを向かれてたなぁ。
『真くんが私のこと円香って呼んでくれて、友達なら私も花宮じゃダメだろって言われたので!』
「ぶはっ、そーかそーか。円香チャン、何で花宮がそう言い出したんか分かるん?」
『うーん、あのとき翔一先輩が友達だからって言ったからですかね』
「あーちゃうちゃう。花宮はな、“円香”って呼びたかったし“真”って名前で呼んで欲しかったんや」
『……? それ、友達だから、じゃないんですか?』
この疑問に翔一先輩はまた吹き出すように笑って、私の頭を昨日と同じく撫でた。
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