その日は朝から心臓の様子が可笑しかった。起きて直ぐなのにバクバクと動いている。嫌な夢を視たわけではない。目の前の景色が家具であることに気づいて、慌てて振り向く。そうして緩やかに弧を描く膨らみと、ヒト1人分では温かすぎる温もりに、安堵の息を静かに吐く。
それでも手を伸ばして実体であることを確認する私は、いつからこんなに心配性になったのだろう。逆立っていない黒の前髪を払って、ぼーっと顔を眺める。紙やテレビの中と違う造形は私の身近に溢れるものと同類だ。それでも限りなく “黒尾 鉄朗” に近い。───いや、本人、なのだけれど。
本当にこんなことあるんだなぁと。何度目になるか分からない思考で頬を撫でる。すれば、不意にその手を掴まれて両目が見開く。存外、私も役者のような反応をするようになってしまったものである。
「朝這い?」
ニヤリと右の口角だけを上げながらの問いに、ぶんぶんと首を振る。同時に手や腕を動かして解放してもらおうともがくも、彼に全くその気はない。蠱惑な舌が覗いて、目の前の唇をなぞる。
手は囚われのまま、器用に仰向けにした私に持ち上げた上半身を勢いよく覆い被せるのもお決まりの展開。そうして頭や額、頬、耳、首筋、至るところに押し当てられる唇は朝イチだというのに湿っていて、くすぐったい。
───あれも、これも、いつものことだ。違うのは、漠然とした不安に怯える私だけ。
昨日までならジタバタ動かして抵抗の意思を見せていたけれど、今のこの身体は素直だった。空いている右手を背中に回して、黒い薄手のTシャツを握る。
「なに、どーしたの?」
『…………いえ、なんでも……』
「怖い夢でも視たか?」
『……ちょっとだけ』
“それなら慰めてあげましょう” 。尖った犬歯をちらつかせる口が、身体と正反対なほど素直じゃない私の口を塞ぐ。同時に侵入した舌すら彼は利き手のように扱い、口内を蹂躙した。
黒尾鉄朗、26歳。私の知識とは些か齟齬の生じる彼がこの世界に迷いこんで、およそ1年が経とうとしていた。
バレー選手ではなく普通に会社員だという彼は、私服のまま私の家の玄関の前に立っていて。中に入っていたケータイは電波こそ捕らえるものの彼の持つアドレス先にはただの一言も伝えてはくれなかった。
野放しにできないと一先ず一人暮らしの部屋に連れ込み状況を整理する。その傍らに検索した彼の世界は、膨大なネットワークのどこにも引っ掛からないという不可解な現象に巻き込まれていた。本棚にあるはずのコミックもごっそり抜け落ちたように姿を消していて、意味がわからない。
どうして家の前に立っていたのかを、黒尾さんは覚えていないようだった。肩から掛けていたショルダーバッグにはご丁寧に財布だけが入っていて、中の免許証で年齢と “黒尾 鉄朗” 本人であることは確認できた。
マンガの世界の人間であると正直に伝えたときは流石に驚愕していた。ただ、テレビや街中に自分の知る人間や店が無いこと、記憶の無い状態で見知らぬ土地に立っていたこと、免許証の住所がその場所───即ち私の家の住所であったこと。否定できない違和感と現実が、否認の道を完全に遮断してしまったようだった。
開いた口を数秒で塞いだ彼は困った顔で笑う。迷惑をかけぬよう腰を持ち上げたのに、その腕を咄嗟に取ってしまった感触は今でも鮮明だ。
私の家の前にいたのも、免許証の住所が家のものだったことも、それなりの因果があるのだろう。妙に責任感を覚えてしまった自分は黒尾鉄朗に住処を提供することにした。免許証があるならバイトぐらいは出来るだろうと、思い返せばかなり安易な要素で説得してしまったが、結果的にはその通りだったので終わり良ければ全て良しである。
ふたりでは少し窮屈な部屋をむしろ幸運だと笑いあえるようになったのは、たった3ヶ月ほど前の話だ。一人用のベッドにふたりで身を寄せあいながら寝て、部屋の狭さを理由に何かとくっついてくることも増えた。
最初から名前呼びだったプレイボーイ黒尾さんを、鉄朗さんと呼ぶようになったのもその頃だ。社会人3年目に突入した自分より1つ上の彼はあっという間に平凡だったこの人生を薔薇色にして、生活の一部になってしまった。とんでもないことだ。
糸を引いて離れていく鉄朗さんが、目を細めてこめかみの辺りを柔く撫でる。気持ち良さで視界を閉ざした瞬間に話しかけられた。この人は私が瞼を下ろすのをとても嫌がる。
「慰められた?」
『はい』
「ホントに?」
『本当ですよ』
「足りなくないですか?」
『大丈夫です』
「オレは足りないんだけど」
言いながらもぞもぞと動く手に苦笑する。普段なら行く手を阻んで何とか朝御飯の支度に動こうとするところだけど、今日は───どうしてか、それが出来ない。
従順に為されるがままの私を見下ろして、鉄朗さんは眉を寄せた。
「なまえ? 具合ワリィの?」
『元気ですよ』
「……止めねーんなら、このまま進めちまうぞ」
『止めても進めるくせに』
図星を突かれて言葉を詰まらせる鉄朗さんにクスクス笑う。
異常は何一つ無い。与えられる温もりも、言葉も、幸福も、いつもと一緒なのに。どうしてこんなに胸騒ぎがするんだろう。恐怖心で心がつっかえる。いつの間にか外された左の枷を、今度は自分から縋るようにして握った。
こんな風に恥じらいも捨てて受け入れるのは、きっと “らしく” ない。けれど、そうせずには居られない。そして私は、その理由を口が避けても伝えられない。
───行かないで、なんて。そんな台詞は吐けない。彼の本当の居場所は私の隣なんかじゃない。この世界には、鉄朗さんの家族も友人も、仕事や26年間の軌跡も存在しない。もちろん、運命の人だって、居やしない。
「今日は休みだから映画に行くんじゃなかったか?」
『そう、なんですけど、…………もうちょっとだけ……』
少しだけ起こした上半身を、彼にくっつける。
もうちょっとだけ、刻ませて欲しい。腕を回したときの感覚。例えば、必要な両肩の開き加減、手があたる背中の位置と感触。額を押し当てる胸の硬さ。そして、小さく鳴る鼓動。
どれもこれも、現実 “だった” という証であり、きっといつかは忘れてしまうものたち。時間を稼いでも進行を遅らせる保証はないのに、性懲りもなく情報をかき集める。
何かを察したのか、背中から右腕がぐるりと回される。左腕は布団についたまま自身を支えているらしいけれど、涙を誘うには充分すぎた。
「……なまえ」
『はい』
「泣くなよ、なまえ」
『っ、ごめんなさい……ッ』
あと何度名前を呼んで貰えるのだろう。あと何度、こうして会話が成り立つのだろう。
朝が来るのが怖い。夜眠るのが怖い。目を覚ましたときに全て跡形もなく消え去っている想像は、毎日毎日脳を蝕んでいく。
本当はそんな日を待ち侘びなければならないのに。彼を想うなら、それが正解のはずなのに。幸せを願うのは嘘じゃないのに。
私がこれほどまでに悪い人だと、神様はきっと知らなかった。いや、知っていたからこそこんな試練をお与えになったのだろうか。
「映画、チケット取っちまっただろ? そろそろ支度しねーと」
そんな促しに頷いて、いそいそと出掛ける準備を始める。勝手知った家の中を動く存在を常に意識しながら身支度を整えて、映画館のある街へと繰り出した。
この世界から姿を消してしまった原作は、彼に変装の手間をかけさせなかった。とはいえ、生まれ持った設定は身体に染み付いているのだから、黒尾鉄朗がいる限り消し去ることはできない。日本人にはおおよそ珍しい身長と芸能人のようなルックスは周りの好奇を集めるには十分すぎた。だけど、女子たちの小さな歓声や甘い視線に抱く感情は、この人を一人占めしている自分にしてみれば傲慢以外の何物でもない。これ以上の独占欲を満たそうなんて、とんだ欲張りだ。
楽しみにしていたデートなのに、今になって過度に引っ付かないように距離を取ろうと思った。言ってしまえば、少しずつ離れる準備がしたかった。
いつも隣にいてくれていることが当たり前になってしまった現実に、ずっとは浸っていられない。今朝、漠然とではあるが、そう強く痛感してしまったのだ。とてもじゃないけれど、何もせずにはいられなかった。 “明日やろうはバカ野郎” 、 “思い立ったが吉日” ───今始めなきゃ、何かと理由をつけてズルズルと先延ばしにしてしまう。
それなのに、彼は目敏く気づいて私の手を掴む。指の間に指を絡めて手のひらをくっつける。伝わる温度が、いつか捨てられるように丸めていた “好き” をドロドロに溶かしてしまった。
「はぐれたら困るでしょ。もう会えなくなったらどうすんの」
『っ……それは、嫌ですね』
「じゃあちゃんと離れないでくだサーイ」
『……はい』
ズルい。卑怯だ。言わせないで。……ごめんなさい。
そう心のなかで呟いたことを、貴方は知らない。
同じ人間とは思えない容姿の外国人が織り成すヒューマンドラマが映る大画面を眺める。何千冊も並ぶ本の中、たった一冊の背表紙で偶然手と手が触れあう運命的な恋の始まりも。ヒールが折れて擦り向いた膝の痛みに歪める眉も。山有り谷有りで、それでも最後は清々しい気持ちで朝日を浴びるような成功も。フィクションなのに他人事に思えなくて。だけど登場人物や英語と字幕の羅列で我に返る度に、自分とはかけ離れた夢の世界である現実を叩きつけられて。
何を期待しているんだと自分を戒める私を、貴方には知らないでいて欲しい。
私の嘘が下手くそなのか。それとも鉄朗さんの洞察力が秀逸なのか。楽しくいつも通り振る舞っていた私の手は、映画が始まっても終わっても、家の最寄り駅に帰ってきても隣の手中にあった。
そのまま胡座の上に座らされ、問う。「一体どんな夢を見たんだ」と。鉄朗さんは苦笑いも浮かべず真顔で、その珍しさに怖じ気付く。誤魔化すことはいくらでも出来るけど、どうして誤魔化す必要があるのか分からなくなってしまった。
『……鉄朗さんが、…………』
ただ、伝えようとしたところでその事実を認めてしまうことにも気づいて、口を閉ざす。
何かを察してくれた鉄朗さんはため息をついた。そうして、またあの温度を、今度は全身に注ぎ込んでくる。
「……俺じゃダメなのかねぇ」
息を吐きながらでは、天にいるその人に到底届かない。例え仰いだところで、きっと受け取って貰えやしないだろう。
けれど、そうだと解っていても私たちは一縷の望みを捨てきれない。それしか方法が無いのだから。
「世界一幸せにしてやるのに。一生かけて探し求めるもんが、俺たちには今この瞬間、ココにあるのにな」
万事、人間は手に掴んだままでいられない。いつかはそれを手離さなければいけなくなる。それが決心の末なのか唐突な事故に似たものかはやはり神様次第だ。
不条理な世界に眉間を狭くしたとき、「……ごめんな」と耳の少し後ろから謝られる。心当たりはなかったけど、寄せている身体を表情を確認する為にずらすのは憚られた。だから精々彼の名前を呼べば、渇いた嗤いが聞こえる。
「絶対こうなるって分かってたのによ。……なまえの心を縛るようなことして、ごめん」
嗚呼、どうやらこういう関係になったことに対する懺悔だったらしい。そして、私は同じような科白を既に一度耳にしている。あれは、彼から好意を告げられたとき、“それでも言わずにはいられねぇや” と、まるで泣きそうな顔で微笑いながらだった。
あの時にはさして凶器でも無かったはずの優しさが、今は酷く心に突き刺さる。痛くて堪らなくて、恨みを込めた手で鉄朗さんの背中を殴った。
『受け入れて欲したのは私です。貴方に呼ばれる自分の名前も、手の感触も、温もりも、全部全部、知らずにいる方が嫌です』
「……あぁ、確かに! 俺もそうだわ」
さっきまでの感傷的な雰囲気はどこへやら。ケラケラと明朗に笑う彼が、ゆっくりと体重をかけて私の背中を布団へ付けさせる。するり、撫でるような跡を残して背中から離れていく手は大きくて、だけどその感覚がどこか儚い。
立てられていない黒の前髪から覗く眼光は揺らぎもせずに私の瞳を貫いた。ふわりと匂った彼の香りは、何番目に忘れてしまうものになるのだろう。
「なまえがそんな顔するからなんかスゲー不安になってきた」
『……移ってしまいましたね』
「じゃあ責任とって」
たぶん一番最初に失うのは温もりだ。続いて視覚情報、嗅覚情報……どちらが先かは分からないけれど、最後が聴覚だという理論はテレビの受け売りだ。嘘でなく、そうであってほしい。声なら一生忘れない。だってこの人の声は他にも聞ける可能性がある。それが否定できない現実であり、唯一の救い。あぁ、随分と皮肉な話だなぁ。
何度も何度も、名前を呼んで欲しいとわがままを言った。いつか耳にするであろう限りなく近い声を、彼のモノへと脳内で補正をかけられるように。
だけど、突き立てられる刺激の合間を縫うそれらは自分で望んだものだというのに苦しくて、また泣いてしまいそうだ。
「なんだよ、ちゃんとココにいるだろーが、 なまえ」
願った分だけ叶った。それどころか、好きだの愛してるだの、求めている以上のものまで注がれて、こういうところで運を使ってしまっているのでは、なんて……被害妄想にも程がある。
光の粒がひとつ、真上の顎から滴りそうだった。それを掬おうとした瞬間にぞくりと尾てい骨のあたりから背筋を通って電流が走り抜けていく。抑制の意思は届かず、全身の肌が粟立って視界も頭の中も真っ白に染まる。
「───ありがとな、なまえ」
いつもなら保てるはずの意識が酷く薄れて行く。抵抗の暇もなく、オセロをひっくり返すみたいに視界は黒へ変わる。頭を撫でられながら言われたお礼の理由は問えなかった。
でも、それもいい。明日訊ければ、それでいい。何度も刻み込まれた証と言葉のお返しも、明日できればいい。
だからどうか。また、会えますように。
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