ガラガラッとドアが開く音がして、身体が揺れる。肩が周りにぶつからないで良かった。ヒヤヒヤした心でぐるぐる全身を巡る熱い血の気を冷まそうとする。けど、今日は誰も寄り付かないような空き教室に逃げ込んだのに、こうもあっさり嗅ぎ付けられている現実が足を引っ張るもんだから……なかなか上手くできない。
教卓の中に縮こまる私は息を潜めて足音を辿る。後ろから入ってきたらしい彼は暫く教室の中を歩いていたようだけど、もう一度───今度は近めのドアがさっきと同じ音を立てて、最後に閉じられたのが分かる。どうやら初めて逃げ切れたらしい。
ふぅ、と安堵の息をついて這い出る準備をし、黒板に向かい合うように立ち上がる。『これで諦めてくれたらいいんだけどなぁ』なんて、今度はため息混じりのぼやきを落としたときだった。
「諦めるのはみょうじの方だろ」
『ぴっ!?』
クラスは離れたはずなのにどうしてか毎日耳を掠める声が、今日もまた。後ろから突然脳を侵食して、氷付けにされたみたいに神経が動かなくなる。
するりと首元を通っている彼の肘はずしりと私の肩を脇息にして、そこから伸びる手の平がいつものように額を後頭部の方へ押し退ける。必然、のけ反って彼の方へ重心が移動すればやっぱり肩に頭がぶつかって。大した音もしないから痛くは無いけれど、毎度毎度代わりに煩くなるのは心臓だ。
どうして!! さっきの扉の音はダミーだったの!? 最初に足音立てたのはわざとなの!?
色々と叫びたいことはあるけど情けないので、とりあえず彼の腕を申し訳程度に抓る。
『は、ははは離して「みょうじ、痛い」それなら「さて、今日は何にするかな」離してください荒船く「昼飯はこの前食ったし……」聞いてください……!』
くつくつと笑うのが、声はもちろん触れている箇所からも伝わってしまうのが歯痒い。うう……! 今年は受験生だというのにどうしてこんなことになってしまっているんだろう。
思えばクラスが離れてからだ、荒船くんが突然意味のわからないことを言い出したのは。話したことがない相手ではないし、何度か席は近くなって、時には隣で授業を受ける日々もあった。でも、こんな、
「つーか、まだ惚れねーの?」
『!?!?!?』
こんな耳元で甘い囁きを貰えるほどの関係なんかじゃなかったはずなんですけれど!!!
お陰さまで、クラスの友達とお世辞にも上手くやっていけているわけでない私は今年から有名人になってしまった。業務的な話以外したことのない女の子達は、興味津々に訊いてくる。 “荒船くんってあんな性格だったっけ?” ───そんなの私の台詞! 私が1番知りたい!
ガチガチに凍ってしまった神経を、彼のため息が震わせる。
「ま、いいか。俺の計画はどっちも崩すつもりないし、最終目標に届けば過程なんてただの副産物。気長にやるさ」
『あ、の、』
「じゃあ今回の命令は、───もう逃げるの止めねぇ?」
『そっ、それは……!!』
「って言いたいけど、流石に勝負もクソもなくなるんだよな」
声にならなかったツッコミに自覚があるらしい荒船くん。彼が毎日下す命令は、私たちのこの奇妙な鬼ごっこの謂わば賞品で、それを使って色んなことを要求してくるのだから困ったものだ。
そもそも運動なんてからきしな私と、この街……延いてはこの国を守るボーダー所属の彼とでは月とすっぽんもいいところ。だからこそ少しでもこちらにハンデが生まれるかくれんぼになりつつあるんだけど、どうしてすぐに見つかってしまうのだ。曰く、 “まァ、センサーみたいなもんがあるんだろーな。こう、ビビってくんだよ、お前の近くに来ると” なんて言うけど、そんなバカな。
とはいえ、心中でこういう思いをとくとく並べたところで、生来自己主張の苦手な私は何の異議申し立ても出来っこない。
今日も今日とて、ズルズルと引き摺られて座らされた窓辺の席に向かい合う荒船くんの目の前で、先日の命令に背かぬよう律儀に持ってきたお弁当箱が開かれる。これを持って走ってきたんだから、それはそれは中身が悲惨なのであるが……これを見てどうぞ私をドン引きしてくださいとまで願う始末だ。
喋るのが不得意な私とのお昼ごはんにそこまでの価値だって見出だせない。けれど荒船くんはいつも通り愉しそうに口角を上げながら、持っていたビニール袋から数種類のパンを並べて行く。
そういえば、この人は毎日パンばっかりな気がする。早弁勢なのかな、それともご両親がお忙しいのかな……。
「……何か交換するか?」
『えっ!?』
「さっきからずっと見てんだろ」
栄養バランスとかが少し気になり始めた時点で、荒船くんがチョコ味のスティックパンを軽く手で押し出す。
『だ、大丈夫……! そ、そうじゃなくて、その、えっと、』
「ゆっくりでいいぞ」
一丁前に自分の意見は持つ癖になかなか上手くそれを伝えられない私にとって、荒船くんのこういうところが優しくて嬉しくてズルい。昼休みに追いかけ回されてヘトヘトになるのに苦手意識を持てないのは、きっとコレのせいだ。
一つ深呼吸をして、おそるおそる少し上を見る。鋭いアーモンド型の目がしっかりと向けられていて、その真っ直ぐさに思わず視線を横に逸らした。瞳にはそんな情けない私が映っているのだと思うと、憂鬱だ。
『あの、……いつも、パンだけど、お弁当は……?』
「ねーよ」
『お、お野菜とか、たんぱく質とか、ちゃんと摂ってる??』
「……まぁ、たんぱく質は筋肉に必要だっていうからな。お前こそ、毎日弁当自分で作ってんの?」
『え!? そんなわけないよっ、お母さんが……』
「普通に料理できんの?」
『……お、お手伝いは、……する……けど……』
まさかの質問返しに形勢逆転された気分だ。
部活にも入っていない私が家に帰ってすることと言えば、勉強と親の手伝いくらいで。人様に楽しく話せる趣味も無いことを今更ながら呆れてしまう。
けれど、訊かれたことにすらハキハキと返せないでいても、荒船くんはしっかり拾ってくれたらしい。
「今日の命令決めたわ」
『え、』
「明日から俺に弁当作ってこい」
ボトッと箸から掴んだばかりの卵焼きが落ちる。
『えぇ!? そ、そんな……!!』
「心配しなくても金は渡す。これでも稼いでるからな」
『そっ、そうじゃなくて……っ、私、うまい訳じゃないよっ!』
「味はどーでもいいんだよ。命令なんだから拒否権ねーし。ホラ、早く食わねーと昼休み終わるぞ」
『う、』
そう言った荒船くんは、さっき落とした卵焼きを勝手に摘まんで口に放り込んだ。「ん、美味い」って言ってくれるけど、褒められてるのは私じゃなくてお母さんだ。
あぁ、明日から何時に起きようか。お母さんに手伝ってもらわなくちゃ。なんて説明すれば良いんだろう。
「あ、そーなると弁当箱いるのか」
『そ、そうだよ!!』
「じゃあ今日の放課後に買ってって渡すから。……一緒に買いに来るか?」
『も、もう今回の命令はおしまいっ!』
「命令してねーし。とりあえず夜に連絡すっから、ケータイ肌身離さず持っとけよ。そもそも依存しなさすぎだからな、みょうじは」
かくれんぼが始まって3回目くらいの命令で、無理矢理繋げられたお互いの連絡ツール。「何かあったときに困るだろ」は家族にも言われてきたけれど、ボーダーに所属する荒船くんの言になると重みが増した気がする。
ブレザーのポケットの中にあるのを確認して頷いて見せれば、何故か嬉しそうに笑われた。
お弁当か……。確かに、おかずなら夜作れるし、料理の練習にもなるから自分にとっての利もある。これを機に趣味にすれば、将来的にも役に立つだろう。
『帰りにスーパー寄らないと……』
「そこまでしなくていい」
『で、でも、折角ならちゃんとやりたいし……』
「…………お前さ、何で私なんですかっていつも言うけど、そーゆーとこも理由だからな」
『え?』
「好きなとこの話」
『!?!?!?』
食べ終えたパンの袋に他のゴミを詰めて一つにしていく荒船くん。素知らぬ顔で言う内容じゃない。お陰で私はストーブになった気分で、お弁当を片付け終えた手を咄嗟に顔の前に持っていった。
「あと今の反応も」
『っな……!!』
「毎回聞いてきてただろ。そもそも言葉にしなきゃ信じねぇお前が悪い」
立ち上がった彼はわざとらしくはぁーとため息をついて未だに座ってる私の頭を鷲掴み、グラグラと数回頭前後に軽く揺らす。
それからあっという間にランチバックを拐って、扉を開いて自分は通らずに私を急かした。なんてことだ、こんなに紳士だった記憶は無い。だからだろうか、
────キラキラして見えた気がした。
「みょうじ!!!!!」
『あら、ふね、くん……?』
キャップの下。まるで後光が差したように夕焼けを背負う彼の表情はあまり鮮明に見えなかったけど、やっぱりいつもと違ったからか、視界を輝かせて胸を締め付けた。
───昼間みたいに、これまでみたいに、って。私の名が聞こえて、したり顔で覗き込んでくれるのを願っていたことを今更ながら自覚した。それと同時に、そんな身勝手なものが叶った現実にますます頭が追い付かない。
崩れた店内。運良く瓦礫に埋もれなかったとはいえ、入口は塞がれて身動き一つ取れないうえに、いつあのネイバーが襲ってくるか怯えて数十分。
周りのひとの阿鼻叫喚で、もはやじわじわと死を実感しかけていたのに。日常化した彼の声は一種の走馬灯のようなものではないかと錯覚を起こす私を、彼は舌打ちしながら引き寄せる。怪我は無いか聞かれて頷けば、目の前の肩が緩く上下した。
その肩越しに周りの状況が漸く視認出来るようになった。何種類かの服を来た人たちが、周りのお客さんたちに声を掛けていく。もちろん、正体は荒船くんと同じボーダーなんだろう。
制服じゃない黒装束に身を包んだ彼は、軽々と私を横向きで抱き上げる。驚きはあったけれど、それを表に出せるほどの余力はなく、落ちないよう必死にしがみついた。安心感が尋常じゃない。
『ど、して……』
「……言ってるだろ、お前見つけるセンサーついてんだって……」
目の前に落とされた溜め息は呆れと言うには温かく、空気に混じって私の中へ入っていけばじんわりと胸を熱くした。それから荒船くんは顔を歪め、珍しくそっぽを向いて気まずそうに言う。
「……悪かった」
『え、』
「俺があんな命令しなければ、お前はこんなとこに居なかったのに」
その謝罪を、私は素直に受け取れなかった。警戒区域じゃない場所への、突然の襲撃。予期できないのはきっと一般人だけじゃなかったはずで、彼が謝る理由なんて何一つないのだ。
ぶんぶんと首を振って渇ききった口を開く。
『あ、荒船くんは、悪くないっ……、』
「事実だろ」
『でも、助けてくれた……!』
昔から肯定ばかり得意だったけれど、否定を示せるようにもなったのは彼がいたからかもしれない。何時だって過大評価される自分を拒むソレも、今回は彼のために頑張りたかった。
『荒船くんに見つけて欲しいって祈ってたの……、だから、嬉しくて、その、つまり、謝るんじゃなくて、わた、私がありがとうっていうから、だから……!』
普段喋り慣れていない仇が此所で返ってきてしまって、とても情けなくなる。しどろもどろになっている私を抱えたまま、荒船くんは軽やかに瓦礫を越えてスーパーから離れる。そうして落ち着いたところで、それはそれは顕著に息を吐いた。さっきとは温度が違うような風は私に届くことなく、代わりに視線が与えられる。
「……どうしいたしまして?」
『! そう! それ!!』
「お前はホント……、」
───早く俺のものになれよ───
心が通じたと喜ぶや否や、低め小さめの声で落ちてきた音といつもの鋭い眼光がまるで狼の類いに思えて高揚が停止する。
どんなに注がれたって慣れないあの感覚が今更ながら襲ってきたことに加え、この状況がとんでもないものであるのにも漸く気付く。
『あ、あの、怪我もないですし、お、下ろしてくださ「無理」
一刀両断。切れ味が良すぎて二の句を失う私に、荒船くんは見覚え有りすぎる顔で言う。
「命令したいなら勝ってから言えよ。───あぁ、そろそろ命令にするか。 “俺のもんになれ” って」
『っなりません!!』