チクタクと音が鳴る空間に、彼はいた。昔は頭しか見えなかったはずなのに、今や肘置きに相応の仕事をさせる横顔はくっきりとした凹凸を型どってそのまま崩さない。
こっちを見もしないのかな、と思ってしまうのはどんどん遠いところに行ってしまう彼にまた置いてかれたような気が止まないからだろう。いっそ、このまま世界が止まってしまえばいいのに。
「どうした、入らないのか」
読みかけであろう本から漸く視線が剥がれる。正面の窓から射して部屋に影を作る夕焼け色の光が、まるでこちらを射抜く赤い瞳から発せられたもののような錯覚がした。
ふるふると首を振って、もう何度踏んだか分からない絨毯にスリッパを滑らせる。
近づく間に閉じられた本の表紙を覗く。うん、読めない。もはや何語かすらも解らない。するりと目を逸らして、瞳の色と同じ赤色に移す。 相変わらず、綺麗なものだ。
その頭がスッと視界から消えて、次に見えたのは白いカッターシャツ。色の変化に思わず瞼を一瞬下ろした。
ふぅ、とほんの僅かに多くした息を吐いて見上げる。あぁ、また少し差が開いたのかもしれない。首の角度に違和感を覚えて、だけどそれもまた彼には伝わらないのだと錘を付けて胸に沈める。
『……久しぶり、……です』
「あぁ、少し予定より遅かったな」
『…ごめん、授業が少し延びちゃって』
「そうか。…………なまえ、」
『ん?』
「……いや、変わりなくて良かった」
その台詞に、笑って “征十郎こそ” とは返せなかった。皮肉なことに実際はその逆だ。彼はどんどん変わってしまう。身長だけの話じゃない。周りの環境に馴染むためか、雰囲気や思考も、椅子に埋もれていたあの頃とは比べ物にならないほどに。
対して綺麗に微笑んだ彼はするりと頬に手を滑らせる───その瞬間、今朝方耳にしたあの話が脳内を横切って。気づけば私は、征十郎の顔の前に両手の平を並べて横を向いていた。ピタ、と征十郎の動きと共に空気が固まったのを感じる。
「…………どういうつもりだ?」
『ぁ、っ……これは、その、』
「先ほどからやけによそよそしいと思ってはいたが、」
細められたであろう目から背け続ける私は、その先で高級品であろう絨毯の柄と壁一面を覆う本棚の下を見る。あぁ、やっぱり。……相応しく、ない。
その事実からまた逃げるようにギュッと瞳を閉じる。どんなに視界を隠したって私という存在は無くなりはしないのに。
「───心変わりでもしたか?」
『、』
聞こえてきたものに思わずもう一度双眸を開くも、言葉が出てこない。
どういう、意味だろう。それに、私のことを私よりも知っている彼がそう聞くってことは、99%そう思われている証だ。
目の前の口はまるで嘲笑うように片方だけ口角を吊り上げて、温度の感じない声で淡々と毒を吐く。
「楽しい大学生活を送っていると桃井からも聞いている。俺より好い人でも出来たんじゃないか?」
『っ…………!!』
飄々たる態度に、血が頭へと上っていくのが分かった。不躾に征十郎の手を払って何歩も後ずさる。
なに、それ。そんなのってない。自分のことは棚に上げて、……視る目がないのにも程がある!!
『良く言うよ! 征十郎の方こそ、私なんかに構ってる暇ないくせに……!』
「は、」
『邪魔なら邪魔って、そう言ってよ!! 私ももう大人だから、家族の誼とかどうとでも出来るもんっ!』
もし。20年近く親交を深めてきた隣の小さな家庭を気にしているだけならば、それは余計なお世話だ。
私の家族だって、自分と征十郎が本当に良いようになるなんてこと思ってないだろう。いつかはきっと、それぞれ身の丈にあったパートナーを見つけて、それでもご近所さんとしてお盆や正月くらいは挨拶をする仲であろうと。そういう想定は示し合わさなくたって全員共通している。
だから、私と征十郎が恋人と言い表す関係であることなんて知りもしないし、今朝あんな死刑のような報せを宣告したんだろう。
口にしなかった現実的すぎる未来に、心が文字通り張り裂けそうだ。何が楽しくて、こんなことわざわざ確認しなくちゃいけないの。
ギチ、と身体の横にぶら下げていた拳を握って、何とか理解されないような哀しみを堪えていた。……それなのに征十郎は、まるで演技じゃないような様子で首を傾げる。
「何の話だ」
問われて、もう終わりだと思った。征十郎は私のこと分かっているようで、何も解ってない。
『っ私は……! 征十郎よりもずっと先に気づいてたんだよ! こんな平凡な一般家庭の人間が入れるような場所じゃないことも、その隣に居られるような器じゃないこともっ、全部全部、征十郎より先に知ってた!』
彼が理解してくれているのは、あくまで感情の名前と種類だけだ。その中身にある複雑な色やそれを表す言葉なんて知らない。
「まるで俺が気づいているような言い方だが、生憎そんなことは今まで一度たりとも思ったことはない」
『嘘つき』
「嘘じゃない」
少し、語感が強まった声。しっかりとした意思を乗せている風に聞こえてしまうものに拐かされぬよう、なんとか踏ん張った。
嘘じゃないわけ、ない。もしそうなら、どうして、
『じゃあどうしてっ───お見合いなんかするの……っ』
朝聞いたのと同じ言葉が自分の声と同じ音で部屋の壁に反響して耳元に返ってきて、わんわんと唸るのがわかる。
……征十郎のお父さんは、確かに少しだけ息が詰まるような人だ。幼い頃から普通の私を尻目に征十郎へ常にトップであることを強いてきた。
それでも、悪い人なんかじゃない。仕事の合間にバスケを楽しむ征十郎の試合を観に来ていたり、学業に部活、家での習い事を勤しむ彼の様子を私に問うたり。
征十郎のお母さんが居なくなってしまってから、彼女の分まで立派に彼を育てようとする姿を、幼なじみとして認められている私にだけ見せてくれていた。
ここまで自分の理想に応えてくれた征十郎自身を誇らしく思っていたのも知ってる。だから、……今の征十郎が本当に嫌がることならきっと考慮してくれると思うんだ。征十郎のお母さんを喪って “そういう人” と引き離される痛みを嫌ってほど刻まれてるから、……きっとそうだと、思いたい。
征十郎が拒ばなかったから、私の幼なじみ以上の立ち位置を知らないんだろう。……いや、気づかれていたけど拒まない征十郎の何かを悟ったのかもしれない。
───自分の都合の良い解釈だ。でもそれを否定できるほどのものが、何もないのだって事実で。
「………………待て。確認したいことが、」
『美人でお金持ちで才女でっ、私なんかより好い人がいるのは征十郎の方でしょ』
「そんなもの俺には、…………はぁ。参ったな」
『っ、もう今日は帰る!』
「待てと言ってるだろうなまえ。勘違いだ」
ため息と共に額に当てられていた指が、次いで私の腕を掴む。ぐ、と身体が前のめりになってから動けなくなるけど、振り解こうと縦横無尽に腕を回しながら抗った。
『待たない! いつもいつもどんどん先に行っちゃって、待ってくれないのは征十郎だよ!!』
「それはまた別の話だとして、恐らく騙されているんだよ。俺も、なまえも」
『…………どういうこと?』
征十郎も騙されている、というのは聞き捨てならない。振り返って目を合わせると少しホッとしたように眉が下がる。ゔ。……そんな顔ズルい、罪悪感湧いてきた……。
一歩だけ前に出た彼は呆れたように目を閉じて、それから掴まれていたままの腕を後ろに引かれる。一瞬のうちに白いシャツが両側から視界を横切って、背中に温もりを与えられる。
「……俺は、反対だ」
『っ、なら、』
「見合いをすると聞いた名前は君のものだった、なまえ」
『……………………はい?』
「……だからあんな意地の悪い言い方をしたんだ。……嫌な思いをさせてすまない」
ギュッと力を加えられて、耳元で謝られる。ぞわりと首の後ろが震えた。そのまま耳の裏に当たった、少し湿った熱い感覚に身体が固まる。チュ、と聞こえた音に慌てて征十郎の腕を掴むけど、懐柔するように何度もその辺りに熱を落とされる。
『ちょっ……! 征十郎……!』
「まだ嫌なのか?」
『まだ、っていうか、よく意味が解らないんだけど……!』
結局どういうことなんだろう。私は今朝、征十郎がお見合いをするのだと両親に聞いた。でも、征十郎が聞いたお見合いをする人の名前は私だった……? それは征十郎のお見合い相手が私ってこと? いや、違う違う。それだと色々辻褄が合わないから───、
征十郎にくっつかれてることもあって、頭がごちゃごちゃになる。何だかスゴく複雑に考えているような自覚はあるけど、勘違いで征十郎に凄まじい台詞を吐きつけてしまった事実がじわじわと焦りや困惑を増長させた。
はてなを浮かべてるであろう私を見下ろしていた征十郎が、クスリと笑ったのが分かる。
「だから、俺たちは手を組んだ親に騙されていたんだよ」
『え』
「まったく、父さんまで参加されてしまえば洒落にならないのに。まぁ、前々から早く一緒になれと言われてはいたが」
はぁ、と息を吐いた征十郎。私は驚きを隠せず口をあんぐり開けて呆けてしまう。
つまり、征十郎のお父さんと私の両親が嘘を流してこんな事態にした、らしい。その理由となるのが恐らく最後の台詞なのだろうが、それもそれである意味問題である。
「とはいえ俺もなまえもあと一年とはいえ学生の身だから、…………そうだな、手始めに同棲でも始めようか」
『ど、せ、』
「場所はお互いの大学の中間で探しておこう」
『ちょ、ちょっと待って!! お、お見合いは嘘で、それで、え、なんで同棲に……!』
「仕方ないだろう。俺はまだ君を養える立場じゃないんだ。苗字を奪われるのはもう少し待っててくれ」
『なっ』
「さぁ、これで誤解は解け、彼らへの対策もできるね」
にっこり笑う彼に絶句。だって、今、というか、さっきから。なんか、すごいことを言われている気がする。
意味を噛み砕けば、顔にボッと熱が点るのが分かった。
その間に征十郎の腕がするりと外れて、再度私を掴む。そのままくるりと踵を返した征十郎に、もう抵抗する理由もないから大人しく連れて歩かれてみれば。
さっきの本が置かれた丸い脚長テーブルの前、征十郎が座っていたアンティーク調の椅子に無理矢理座らされる。さっきよりも高い位置から私を見下ろした征十郎が、今度はニヤリと片方の口角だけを上げて言った。
「それじゃあ次の問題だ。……君は一般家庭だから俺には釣り合わないとか、いつもいつも俺に待ってもらえないと言っていたことについて、詳しくお聞かせ願おうか」
『え゙。』
「俺がそんな風に想うヒトをこれほど長い間隣にいさせる人間だと? もうどれくらい一緒にいると思ってるんだ。こういう関係になっていなくとも、理解してもらえている部分であって欲しかったんだが」
オレンジに緋色を混ぜた光が、征十郎の頬に睫毛の影を作る。
「置いていったという自覚はなかったが、同棲すればそこの辺りは解決するだろう。元より俺は離す気など無いんだが……、伝わっていないのが残念だ」
わざとらしく落とされたため息に少し遅れて、唇が降りてくる。
「変わらないさ、これからも。変わっていくものもあるけれど、俺たちの根本は変わらない。だから、もう今さら手放せない」
『……うん、ごめんね。ごめん、征十郎。全部解ってると思ってたけど、全然だね』
「いや、それでも一番俺のことを解ってくれてるのはなまえさ。……幸せにするよ」
『っ、……なんで今言うかなぁ……。それこそ、征十郎なんだから当たり前でしょう?』
そう言えば、昔から大差ない柔らかい微笑みを浮かべる。どこかに呆れと、それから満更でもない様子を含んで、征十郎の頭が背凭れよりも下に下がった夕暮れのお話。
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