ぶっすぅぅぅという言葉が真横に書いてあるその人は、いつもより荒々しくボールを弾ませた。点が入って一瞬の余裕ができる度に視線を遣るのは時計と出入口の両方が見える方向で、毎回舌打ちをしてすぐにまたゲームに参加する。リバウンドや速攻を仲間任せにするのは珍しい、というかこんなに集中できていない彼を初めて見た日だった。
「なんか、虹村キャプテン今日怖ェんだけど?」
「話しかけないでよ峰ちん。あんまり目立ちたくないし……」
「何かあったんでしょうか?」
「まあ確実に白幡さん関連だとは思うけどね」
緑間と黄瀬、そして先ほど連れてこられたばかりの灰崎がコートを走り回るのを見ながら二年同士で疑問を共有する。
とはいえ、先に言った通り原因は分かりきっていた。委員会か何かで遅れるらしい白幡さんは、放課後になってから既に一時間以上経つのにまだ姿を見せない。
だが、ピリピリしている虹村さんに部員もつられていてこれでは練習に支障が出そうだ。全く、白幡さんのことになると主将らしさが三分の一ほど失われてしまうのだから困ったものである。
ふぅと少し多めに息を吐いた俺は、ゆっくりと体育館前方へ足を進めることにした。向かうは久保田さんと関口さんのところだ。
虹村さんはA組、白幡さんはD組。今年、彼らは中学生最後の年となる三年生にして初めてクラスが分かれてしまった。
久保田さんは虹村さんと、関口さんは白幡さんと同じクラスだというから情報は掴めるだろう。
「すみません。白幡さんはいつ頃来られるんでしょう?」
「あー……、わかんねぇな。今先生の雑用やらされてるからよ」
答えてくださったのは関口さんで、憐れみの視線を床に送る。
「白幡さんは確か放送委員会でしたね」
「あ、委員会じゃなくて日直の仕事な。なに? 備品の不備でも見つけた?」
「いえ、……そうではなくて、」
「虹村の機嫌が悪いから、だろ?」
否を示せば、久保田さんが的を射る。関口さんもその言葉に大層納得した様子を見せ、「ワリぃな」と苦笑い。
「白幡が虹村に遅刻の報告をしたとき、もう一人の日直の名前も出しちまったんだよ。別に虹村とも去年同じクラスだったんだけど……、」
「まあ、女子との距離感が何かと近い奴だからな」
「っつーわけで、お父さんは絶賛心配中ってことだ」
お父さん、という立ち位置は虹村さんにとって避けたいポジションだろうが、───それよりも状況は把握できた。
我らが主将は最近白幡さんの総てを知ることが出来なくなった状態にある。
虹村さんが知らない話を白幡さんが同じクラスの部員と話しているときの顔は、まるで能面のように───何というか、厳かさと畏れで満ちていて。ただでさえ本人にとって無意識のうちにストレスとなっているのに。
ここに来て、他の男と二人きりの作業か。
拍車をかけてくれないでほしいが、こればかりは今まで想いを明かさないでいる虹村さんやパーソナルスペースが狭い白幡さんの性格にも問題がある。
「俺が白幡さんの様子を見に行くよりかは虹村さんが行く方がいいとは思うのですが、」
「あいつ、最近白幡の鈍感さを白幡にぶつけるようになったからな……」
「そのせいで虹村が妬いたら毎度ケンカっぽくなってるっけ。それはそれで部活に支障が出るんだよな」
重いため息を吐く関口さんに同意を示そうとしたときだった。鉄製の扉が開く音がして、絶えず動かしているはずのボールと足を誰もが止める。
現れたのはたぶんこの場の全員が待ち焦がれていたであろう人物だったが、平穏は一瞬のものだった。
まず見えたのは白幡さん。だけど、その両手は重なる数十冊の教科書で塞がっている。どうやら、隣に立って同じく片手に教科書を持ちつつ扉を手にかけている男が開いたらしい。
しかも、バスケ部のものならマネージャーでも第一声は“お願いします”であるのに、彼女────白幡さんは全く違う言葉を発したからだ。
『みんなお疲れ様です! そしてごめんなさい!! 雑用パシりまだまだ終わんなさそうです! マネージャーのみんな、私の仕事もできる限りカバーしてくれると助かる!! ごめん!!』
「「「は、はい……」」」
歯切れの悪い返事をしたのは、この体育館の温度が少し下がり始めているのが理由だろう。けれどさっきまでの温度をそんなに知らない白幡さんは、隣の男を見上げて『付き合ってくれてありがとう、ゴミ捨てに行こうか』なんて優しく微笑むからもうやばい。
ブチッ! と何かが切れた音が、閉まり行く扉から微かに聞こえた次なる彼女の攻撃に重なる気がした。
「虹村、キャプテンなんだろ? あいつには何も言わなくていいのか?」
『いいっしょ、別に』
「ふーーん」
そして相槌を打ちながら振り向く男が、フッと嘲笑に似た笑みを虹村さんに見せたのが終わりだった。
───ドゴォォッ!!!!
時速40キロは容易そうなレベルで飛ばされたボールが凄まじい音で間一髪閉まった扉に激突する。
言わずもがなの投手は、笑みすら浮かべずに小さく呟いた。
────「………………くそが」
ついに体育館は氷点下。誰も笑えなくなったこの状況で、灰崎が「あーあ」と煽る。
「アレ二年でも女たらしで有名な千田センパイじゃん。イインデスカー? キャプテン」
「……っ、別に、俺だってヤツに言うことなんてねーし」
「何張り合ってン───あァ、言わないんじゃなくて言えないんですネ」
「ンだと灰崎表出ろやぶん殴る!!!」
いつもなら笑顔で制裁を加える虹村さんが鬼の形相で灰崎を追いかける。その様子にゲーム中だというのを忘れて皆壁際に避け始めてしまった。
……さて、どうしたものか。
久保田さんや関口さんと顔を見合わせて思索を重ねるも、根源である白幡さんがいないのではかなり厳しい。
灰崎の首根っこを鷲掴み、そのまま後ろに引く虹村さん。案の定襟に気管を押し付けられている灰崎がもがく間、追い討ちをかけるように彼の首に虹村さんの右肘から先が喉に到達する手前辺りまで回される。それから左腕で固定し締め上げれば、「ギブギブギブ!!!!」と灰崎が暴れた。
あれは確か、スリーパーホールド、だったかな。前に白幡さんが休憩で座っていた虹村さんを相手に俺たち一年に見せてくださった簡単なプロレス技集の一つだ。総合格闘技や柔術などでも使われるそれは不審者対策という名目で披露された。なんでも、桃井や他の女子マネだけでなく俺や緑間、黒子なんかも無駄に襲われるタイプらしい。男子中学生が? と思ったが、鏡を見て言えと真剣な顔つきで言われたのは正直刺激的だった。
っと、そんなことを考えてる場合ではない。とりあえず虹村さんをその気にさせる理由を用意し、早急に白幡さんに機嫌を取り戻して貰わなければ……。
落ちかけた虹村さんの口が尖り直すのを視認した、そのときだった。
暫く開く予定は無いと思われていた、あの重い扉が。少しだけ鈍い音を立てて開かれる。どうして姿を見せた白幡さんがひょっこり上半身だけ現し、辺りを見回した。何かを確認していたらしい。『よし』と小さく頷いて、手招きをした。
『修! ちょっと!』
「あ゙? 何だよ」
白幡さんにも怒っている虹村さんとはいえ、声に反比例した軽さで灰崎を捨て去り歩み寄る。ワインレッドの練習着が彼女を俺の視界から半分隠したとき、この空間で唯一の制服が初めて全貌を露にした。身体と共に扉の後ろに位置していた左手が現れて、その指にかかるキャップを支点に振られた底が、遠心力で虹村さんの頬にあたる。
「ぃッて!」
『なんにイライラしてんのか知らんけど落ち着けバカ。みんな怖がってるでしょーが』
顔は見えない。そして声には形が伴わない。それでも俺たちは、この一瞬で虹村さんにかけられたある種の魔法のようなものをどこかで認識できて、苦笑してしまう。
もちろん元凶が自分だとは思わないだろう彼女は、そのまま呆れたようにため息を吐いてから虹村さんの左手首を掴み寄せ、鮮やかなリストバンドと腕の間に上から逆さまにしたペットボトルを差し込もうとする。試行錯誤とは決して言えない一方通行のそれに今度は虹村さんが呆れた顔で白幡さんを軽く叩き、止めさせた。
「伸びるだろーが」
『いやほらだって、全員分無いから隠さなきゃ』
「今更すぎんだよ。っつーかこんなとこで油売ってねーで早く仕事終わらせて帰ってこい」
ベシ、とまた軽く叩かれ、挙げ句ぐしゃぐしゃと頭を弄られる白幡さんはむぅと口を尖らせる。聞く人が聞けばそれなりに甘いものではあるらしく、桃井や他のマネージャーたちが頬を染めて見つめるが。当の本人にその理解力はなく、あろうことか虹村さんの脚を蹴りつけてそれから脱兎の如く踵を返す。
『てか、せっかく抜け出してきたのにお礼すら一番に言えないなんてサイテー膝小僧から血を出すレベルで転けろバーーカ!!!』
そうしながらの捨て台詞と共に体育館から走り去っていく白幡さん。何とも言えないものを覚えるのは虹村さんだけじゃなくて。
でも彼は俺たちの想像よりも数倍幸せなんだろうなと解る。空手経験者であり、握力が黒子の上を行くあの人の蹴りの痛さは青峰たちがよく知るところであるが、その痛みに全く歪まない顔が何よりの証拠だ。
「オメーらなに突っ立ってんだ練習しろ練習!!!」
「「「ハーーイ」」」
誰のせいだよ、と灰崎が呟いたのを聞き逃さない虹村さんの怒りの矛先が完全にそちらに向いたことで、今日の一連の騒動は一度終幕となる。さぁ、次のゲームは俺の番かな。
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