ふと、額に温もりを感じて意識が浮上する。ゆっくり目を開ければ、すっかり明るくなった部屋の中でしかめっ面が見えた。それから目覚ましを一度消した記憶を思い出した私は、ああ二度寝しちゃったのかと後悔する。
未だ一緒に布団の中にいるならまだそんなにあれから時間は経っていないのだろう。寝坊にならずに良かったと安堵していると、修が額に宛てた手を滑らせて輪郭に添える。
『……ん?……おはよ……?』
「……はよ。なァ、お前これ微熱あんじゃねーの?」
『……そう、かな』
「具合は?」
『からだおもい、ダルい。でも咳とかはでない』
「まぁ季節の変わり目だし風邪かもな」
『ん……』
いつもみたいにわしゃわしゃではなく、文字通りなでなでという言葉が似合う柔らかさで額と前髪の辺りを触られる。それがすごく温かくて気持ちいい。
「今日は仕事休んで病院行けよ。さすがにここ五日続いてっからな。酷くなる前に行っといた方がいいだろ」
『……でも、』
「仕事場でぶっ倒れる方が迷惑だろーが。頼むから言うこと聞け」
家計が一緒になった今、節約の為に避けていたのだけどここまで来たら確かに修の言う通りだ。渋々頷けばホッとした顔で笑ってから、額にキスを落とす。
「朝飯とか俺がやるから起きてくんなよ。つーか腹は?」
『……空いてない。食べたらダメな気がする……』
「まじか。とりあえず粥だけ作っといてやるから、病院行く前に一口だけでも食べとけよ」
『はーい。……ぁ、会社に電話しなきゃ、けーたい取って……』
「ん。────じゃあそれ終わったらもう一回ちゃんと寝てろよ。見送りもいらねぇから、行ってくる」
『ごめんね、行ってらっしゃい』
“謝んじゃねーよ” と言って曲げた口を私の唇に軽く当ててベッドから出ていく。伝染ったらどうすんだよ……。
取ってもらった携帯を操作して、引き継ぎ相手と部長に連絡。フレンドリーな会社で本当に助かった……。
ふー、と息を吐く。携帯の日付を見て、それから私は漸くいつもと明らかに違うことに気付いた。体調ばかりに気を取られていたから忘れていたけど、……月のものが、来ていない。今日で予定日から一週間と3日。こんなに遅れてるのはだいぶ久しぶりで、高校以来な気がする。
一人きりの部屋で5秒考えてから、少し緊張を伴わせる思いで携帯を検索サーバーに繋げる。初期症状・超初期症状に当てはまるものが幾つかあって、思わず一人で首を振った。
……いやいやいや。確かに、確かにそういう行為もしてるし、わざわざ避けてはいない。だけど、……え、本当に?
一番説得力のある “味覚の変化” というページを見つめる。実は先日、修に調味料変えたか聞かれたばかりだ。私は首を振って修も「ふーん」で済ませて味噌汁を啜ってたけど……もしかして、いつもと味が違かったんじゃないか。
もぞもぞと起きてお腹に手をあてる。いる、なんて実感は勿論無くて、とりあえず知識の無さすぎる私は検査薬というものもネットに尋ねてみる。生理予定の一週間後から使用可能、なら今すぐに試しても平気だ。
買いに、行く? どうしよう、不安しかない。病院に行くにしても、内科で診断されて異常がなかったからって産婦人科に回されるものだろうか。同じような症状で行って “生理来てますか?” なんて聞かれたことない。まぁ風邪自体殆ど引かない質だけど。
だったらやっぱり、検査してから内科か産婦人科か決めるべき、なのだろうか。そもそも産婦人科って、近場がいいとしてどこにあるの? 調べるとこから始めなくちゃならないんじゃ……。
あぁ、どうしよう、色々やることありすぎて疲れてきちゃった。もう一度寝転がったそのとき、タイミング良く携帯が鳴った。メッセージアプリ経由の連絡先はさつきだ。
《凪沙せんぱーいっ、私今日仕事休みなんですけど、先輩とランチだけでもご一緒したいなって……!》
なんというジャストタイミングだろう。ここまで用意された波なら乗るしかない。
《あのね、今日実は具合が悪くて。ちょっと相談があるのと、一つ頼み事したいんだけど……》
《えっ、大丈夫ですか!? 何でしょう?》
《…………生理が、来てなくて。ネットで調べた症状にもあてはまるこの場合、やはり検査薬を使うべきかな》
スタンプ。スタンプスタンプスタンプ。どれもビックリしたもののやつで、五個目に漸く文字が出てくる。
《それは勿論! 試してみる価値はあります!》
《そっか。……あのさ、悪いんだけど、お礼するから念のために家の近所で評判のいい産婦人科調べてもらえないかな》
《了解です!! 任せてください!! お具合悪いなら、私が検査薬買っていきましょうか?》
《マジで?》
《はい。直ぐに行きますね!!》
そっから本当に、検査薬を買ってきてくれたさつきは、私にそれを握らせてトイレへと押し込んだ。検査を終了させてから一人でじっと判定の印が出るまで待つ。そうして浮き上がって来た棒線に、時間が止まったような気がした。
トイレから出てリビングに顔を出せば、タブレット端末に向けていた綺麗な瞳が私に向けられる。ソファーから立った彼女は小走りで私に近付いた。
「先輩、ど、どうでしたか?」
『…………陽性、だって……』
「っ……!! おめでとうございます!! あっ、立ってないで寝室に戻って下さいっ、今すぐ調べ終わらせますんで!」
『さ、さつき、』
「……先輩?」
『しゅ、修に、なんて言おう……』
「……先輩、避妊してたんですか?」
『え、……ううん。……してない』
「なら大丈夫です! 虹村先輩だってこうなる時を何度も想像してくれている筈です! 凪沙先輩だってそうでしょう?」
『…………うん、』
「まずは病院に行って、ちゃんと検査して、赤ちゃんがいることをしっかり確認しましょう。私思うんですけど、虹村先輩は絶対親バカになりますよ!」
『あはは、私もそう思う』
にっこりと笑ってくれたさつきに、漸く肩の力が抜けた。ベッドには寝ずに彼女の隣に座って、候補を絞り込む。結果、地下鉄の駅近にある女性クリニックにした。外装も内装もきれいで、医師は女の人が8割。口コミも星四つだ。
持ち物まで調べてくれたさつきが病院に予約してくれている間に、言われた通りのものを用意する。それから二人で家を出て、徒歩約10分の病院に向かった。足取りに重さは感じなかった。
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私がお母さんになる日が来るなんて……。
修が帰ってきても直ぐに言わず寝る前に言おうと思っていた。だけど玄関で出迎えた途端に眉を下げて具合を心配する声を聞いて、数時間の空白が惜しくなった。僅かに伸ばした手で、第五ボタンくらいの位置を軽く握る。
『あの、ごはんの前に、少しだけ話、聞いてくれま、せ、ンカ……』
首を傾げるどころか余計に追及してくる修を何とか宥めながら、ぎくしゃくとした運びでとりあえず寝室に連れ込む。ジャケットをハンガーにかけてネクタイも外した修の前で無理矢理ベッドに座らせられた私は、修にも座ってもらうよう促して向き合った。
『あの、ね、』
「お、おう……」
『……あの、───「凪沙、」
なかなか顔を合わせない私にどんな想像をしたのか、修は痺れを切らしたように突然身体を自分から寄せた。いつもみたいに腕を引いて私を動かす訳じゃないからベッドはそれより大きく鳴る。
一瞬で腕の中に入ってしまった頭を固定されながら、上を向かされ口を塞がれる。ただ、重なるだけだったそれは数秒で離れて、温かい言葉を紡いだ。
「……いつでもいい。いつでも全部受け入れてやるから、無理に話すな」
まるで泣きそうな顔をして言うから、私は慌てて首を振る。
『ち、違うよ!そんな重い病気とかじゃなくて……っ、』
「…………え?」
『……こ、ここに、いるって……』
惚けた声を出した修から目を逸らして下をみる。ゆっくりと片手をお腹に宛てた。
修は私の手が何かを指し示していることに気づいてそれを追うけど、確認してもらうより先に標識であった手で彼の右手を掴んで直接同じ場所に宛てる。私より二回りほど大きいそれが感じれるものなんて特にないだろうけど、
『………………赤ちゃん、ここにいる、よ……』
まだエコーにも映らない存在でも、ちゃんといる、らしい。修の指が、ピクリと僅かに動く。見上げれば、過去最大に開かれた瞳が衝撃を表していた。
「…………マジで?」
その言葉に一つ頷けば、私が掴んでいた修の手が文字通り手のひらを返して逆に握り返してくる。驚くのと同時に、本日二度目の抱擁を受けた。
「……やべぇ。なんか、……」
『?』
「……すげー嬉しい……」
『っ、』
その一言で、漸く私も心から喜べた気がする。修を信じてないとか避妊を甘んじていた訳ではないけれど、それでもやっぱり不安はあって、だけど今確実に萎んだのが分かった。
苗字が一緒になっただけじゃない、本当に家族なんだと実感する。私の中には修の遺伝子が、私と修からしか生まれない存在がいるんだ。
言葉に出来なくて涙腺を刺激する温かい思いを、修の背中に回した腕に込める。
「嘘じゃねーよな」
『こんな嘘つかないから! 証拠はまだないけど、次回の検診は心音も聞こえるかもって「いつ?」 ……ん? 何が?』
「次いつ行くんだよ。俺も行きてぇ」
『え、無理だと思うよ? 再来週の水曜だけど、仕事でしょ?』
「………………」
『わ、分かった、三回目は一緒に行こう。休み合わせよう』
そう進言すれば修は満足気に口角を上げてもう一度顔を私の額に寄せる。くすぐったい。
でももう、この家には二人きりじゃない。
「凪沙、その、なんつーか……、……ありがとな」
『いやいや、まだ何もしてないよ』
もう少しで、冬がくる。だけどきっと、寒さなんて感じない冬だ。