中の物が何やらバランスを崩して動いたらしく、ガサリとビニール袋特有の音が鳴る。少し買いすぎたかなと思いつつ、奈々瀬は持ち手を右から左に変えた。今日の夕飯はパスタが食べたいと言った同居人、さつきのリクエストに応えたメニューだ。
有名な赤司財閥のとある一社において社長秘書として働く彼女は、奈々瀬と違って定時制ではない。早く帰れる日もあればそれなりに遅くまでかかることもあり、今晩は後者である。
そのさつきが帰ってくるまでの3時間。仕込みには十分すぎる時間に付け合わせやサイドディッシュを電車内で検索した奈々瀬の買い物リストはいつもの倍を占めていた。
赤司財閥といえば、今回の取引先もそこの傘下である。金融からホテル経営、さらに閣僚まで名を及ぼす我が国有数の名家は、今日日本で知らぬ者も少なくないだろう。
そんなお家柄の次期当主がさつきや青峰たちと中学の同級生であったというのだから、世間は意外に狭いものなのかもしれないと思う奈々瀬。高校時代、情報収集のスペシャリストと言わしめていたらしいさつきを現職にスカウトしたのも赤司征十郎その人である。そのために秘書検定や簿記などをがむしゃらに勉強していた大学時代の姿を思い出して、奈々瀬は一人苦笑した。
自宅まであと5分ほどのところで、後ろからキキッと自転車のブレーキをかける音が聞こえる。邪魔にならぬよう端に寄ったために出来た右側の空間に、籠の無い簡素な作りのハンドルが並ぶ。
驚いたのは数秒足らずで、見覚えのあるそれに何となく予想をつけた奈々瀬は話しかけられるより先に右上を見上げた。そうして期待通りの存在に頬を緩める。
『青峰くん、お疲れさま』
「あぁ、お前もな」
白い自転車から降りて歩き出す青峰。いつも通り鬱陶しそうに警帽を外し、前輪の側にある警棒のようなものに引っ掛けた。
『今日もあったね。これで4日連続だ』
「───まーな。最近この時間帯にここら辺廻るから被ンだよ」
『そうなんだ』
奈々瀬の言うとおり、最近毎日と言って良いほどにパトロール中の青峰と遭遇していた。それは奇しくも虹村に車で送ってもらったあの不思議な日の翌日からであり、したがってここ数日奈々瀬は一人きりの帰り道もすっかりご無沙汰だ。
日の入りが早まったこの時期。深さを増す闇に心許ない街灯の光の中でも、お陰さまで特に不安なく帰宅できる。
ふと、ガサガサ音がするのを聞き付けたのか青峰が身を前に乗り出して奈々瀬の左側を覗き見た。
「やけにいつもより多くねえか?」
『やっぱりそう思う? ちょっと買いすぎちゃって』
「ったく……。オメー力あんまし無ェんだから無理すんなよ。貸せ」
『えっ、悪いよ! 青峰くん仕事中だし』
「いいから早くしろ。ホラ」
身長のある青峰はそれに比例して腕も長い。するりと後ろから回った彼の左手が無理やり取っ手を奪ってしまう。『あっ』と声を出した奈々瀬だが、青峰も自転車のハンドルにそれをかけた。
「これなら俺も持ってねェし、問題無いよな?」
ニヤリと口角を上げる色黒の表情に、奈々瀬は困ったように笑って頷くのだった。
今日の夕飯の内容、さつきの帰宅時間。明日の天気と、それから青峰の上司の話。話はそれなりに続き、流れに乗って青峰が「お前んとこは?」と問う。部署が変わって新人同様の位置になったのを知っている彼もまた、その上司が自分の中学時代の先輩だなんて思いもしないだろう。
それは奈々瀬とて同じで、頭のなかで双方よく知る顔を浮かべてから少し顔を青峰より背ける。熱が籠るような感覚に焦りを覚えながら、平常心平常心と唱えた。
『直属の方はすごくいい人だよ。歳も一つしか変わらないけど帰国子女で、噂だと出世頭のホープなんだって』
「ほーぷぅ?」
『期待されてるってことだよ』
「あァ、俺と同じか」
『ふふ、そうなの?』
「たりめーだろ。検挙率ナンバーワンだぜ」
クスクス笑いながら確認すれば胸を張られる。確かに、警察学校時代も射撃や柔道といった逮捕術に関するものは群を抜いて秀逸だったようで、いくつもトップになったと報告された。一方───ホープの意味も浮かばないことからも窺えるが───、教養系はなかなかに際どく、スポーツ推薦で大学に通った彼はかなり苦労していたが。その秀でた体術でおまけ合格をもらった可能性もあるとか無いとか。
体格も相まって、彼に追っかけられたら一種の終わりを感じることだろう。黒豹のようなイメージを抱く相手を見上げて、これほどの安心感も中々無いなと感心する。
高校1年のときはかなり取っ付きにくく笑うことも少なかった青峰。奈々瀬はさつきがいるからこそ話すこともあり悪い人間ではないと解ってはいたものの、こうして肩を並べるのは正直考え付かない頃だった。
大好きなバスケで絶対的自信を砕かれた青峰はそれから少しずつ笑ってプレーをするようになる。その笑みはだんだんと日常生活にも浸透し、2年ではクラスにもすっかり馴染んだうえ卒業時にはブレザーやネクタイといったものを女子にかっ拐われていくほどの人気者ぶりだった。元来面倒見のいい性格であるらしく、後輩からも慕われていると話すさつきの幸せそうな顔を奈々瀬は生涯忘れないだろう。
『青峰くんは警察官もすごく似合うけど、体育の先生になるのかなとも思ってたよ』
「あァ、それはダメだって赤司に言われたんだよ。人をサトすとか、ガキどもの進路を考えられるタチじゃねぇんだと」
プロバスケからのオファーがひっきりなしにあった彼がその道に進まなかったのは、身体の故障が故である。スポーツをやる者にとって明日は我が身とされる理由を突きつけられた彼は当時かなり落ち込んでいたが、慢性的なそれはプレーヤーを続けられる道を完全に遮断してしまった。逮捕術において問題のなかったことが不幸中の幸いかもしれない。
またもや出てきた赤司だけでなく、彼のバスケ仲間である奈々瀬の知り得ない幾多の友人やさつきたちからのフォローで青い制服を身に纏うことを選んだ青峰。教師とは違って警察は人生を決定する裁判にかけるところまでやらないし、体力実力勝負のスポーツ界に共通部のある世界だ。彼の持ち前の運動神経と、高校時代に磨きをかけられた他人への感情を生かすには申し分ないように思える。
赤司の言葉に何の嫌気も見せない青峰は彼の意見に納得しているようで、「だからこっちにした」と警帽に視線を下ろす。噂の赤司様は随分とはっきり、それでいて的確なことを仰る方らしい。
───面倒見がいいと言えば、奈々瀬の上司だってそうだろう。後輩の眠気をあそこまで気にしてくれる人はいない。例え後輩じゃなく友人であっても稀なことだ。
彼の場合仕事に影響が出ることを見込んでの思索であっただろうが、それでも奈々瀬の心を締め付けるには充分過ぎる気遣いで。
『その言い分だと、私の上司の方はとても教師向きだなぁ……』
親身になってくれる。頼りになる。引っ張ってくれる。時には叱って、自分のために頭を悩ませる。何よりきっと、信じてくれる。
奈々瀬がかつて必要としていたものを全て携えるその存在は、たとえ恋愛感情を抜きにしたって依りたい相手だ。彼女の場合、その時にいたのは虹村ではない歳上の男性だったけれど。
そういえば、最近会っていないなぁ。
自分を気にかけ、さつきや青峰のいる桐皇学園に誘ってくれた “彼” を思い出す。
ある意味物心つく前から傍にいてくれた彼とは、連絡こそ週1で取る仲でも顔を見たのは1年前。思い返して去年になると言うことは、その機会がまた迫っているという証でもある。
───もうそんなに経っちゃったのか。
絶対の存在だった、2人。突然のことにあのときはかなり動転して、記憶が定かじゃない。気づいたときには葬式も終わっていて、遺骨を抱える自分がいた。その隣に立つ彼が、家に泊まってまで片時も離れずにいてくれたことは良く良く思い出せる。
一番大事な瞬間を忘れてしまっているなんて───最悪だ。けれど奈々瀬はその反面、どこかでホッとしている自分も知っている。覚えていたらきっと、耐えられていなかったかもしれない。いつの間にか過ぎ去った哀しみのピークは全く分からず、奈々瀬はただ時の流れに身を任せて少しずつ少しずつ気持ちの整理をしていくだけだった。
───楽しいことだけを思い出したらえぇ。そんで感謝さえ並べとったら、あの人たちも気持ちよく逝けるんや。
仏壇の前で呆然とする奈々瀬に掛けられた言葉。ポロポロと流れたあのときの涙の熱さ。せめて覚えていることだけは忘れないようにしようと、全部全部大切にしてきた。
補完ばかりの自分はとても狡い。だからこそ、唯一覚えている “どうしようもない哀しみ” を糧にしたかった。
───ほら、笑ってみぃ、奈々瀬チャン。
自分の仕事は、笑って笑って、ひたすら幸せに過ごすことや───
嗚呼、なんて自分は…………───。
追想から黙りこんだ奈々瀬を、青峰は不審がった。聞かされたさつきの言で色々と心配なこともあるが、それとはどうも違う内容な気がした。
とりあえず自分の世界に入ってしまったらしい彼女を、背を丸めて横から覗き込む。
「オイ、どうした?」
『ぁ、ううん。……なんだか、私には勿体ない人だなぁ、って』
「はァ?」
そう言って笑った奈々瀬の表情は、青峰に全く見覚えの無いものだった。されど生じる既視感に、彼は彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫でることしか出来ない不器用者である。