『あ、あの……! 本当にその、申し訳ありませんでした……っ』
「俺が良いって言ったんだから謝んじゃねーよ。こっちが悪者になンだろ」
『!?!?!?』
「冗談だ! 冗談だからンな絶望的な顔すんな頼むから!!」
昼休憩が終わるチャイムではなく虹村に起こされた奈々瀬は数秒肩に頭を預けたまま状況を洗い直し、それから弾かれたように虹村の肩から離した。そのまま流れるように立ち上がって目の前で深く頭を下げるのだが、 虹村はそれを素直には受け取らない。
対して虹村は、茶化し言葉にすら律儀に反応してしまう素直すぎる奈々瀬に冷や汗をかいた。“冗談” と言われてホッと緊張を弛める様子に、直ぐ顔に出るんだなと苦笑いして視線を逸らす。人間、純粋すぎても困る。
戻るぞ、の意を込めて奈々瀬の肩を軽く触りながら先に屋上の扉を開けてやる虹村。中々重たい鉄製を支えるその役を自然にやってのける動作に心を締め付けられながらも、奈々瀬はぺこぺこと頭を下げて屋内に戻った。先程までとは打って変わる色みのない景色ではあるが、静けさはこちらの方が増している。
追って屋上を出た虹村は奈々瀬に見られながらきちんと鍵をかけてポケットに仕舞う。そうしながら、ふと釘を指すのを思い出して彼女を振り返った。突然目があって所在無さげに視線を右往左往する奈々瀬は、虹村がニヤリと口角を上げればますます顔を赤くさせる。
「ここに来たこと、誰にも喋るンじゃねーぞ」
『あっ、はい……!』
「俺とお前だけの秘密だ。いいな?」
『……!』
“秘密” というのは独特な響きを持つ。奈々瀬はそれを “ズルイ” と名付けていた。如何なる内容でもそこには特別さが増し、どこか背徳的だ。信頼関係に関わってくるので決して軽くなどない。だけどそれを守るために奔走する自分は嫌いでないとも思うし、他者を隔離する点において独占欲を掻き立てるには申し分ない材料である。 こんな会話をしている時点で、周りの人とは一段違う高さにいる心地がした。
日頃の自己顕示欲の低さは自覚している。元より目立ちたいとか誰かに必要とされたいとか、そういう方法で存在を確立することを未だかつて願ったことはない。人とは少しだけ違う環境にいたからか、こうして仕事をもらい、優しい人がいる家があればそれで満足だった。
そんな彼女が、久しぶりに喉から手が出るほど欲しいと思ってしまうのが虹村だ。何度畏れ多くて無謀なことだと自身を説いても、彼の隣が当たり前だと言える日々を夢見てはひとり赤面するのを止められないでいた。
典型的な日本人の代表を担げるぐらいに譲渡精神が強いだけでなく、そもそも自分の思いを他者に伝えることすら不得手だ。それ故いつもその他大勢の女子に簡単に紛れてしまう奈々瀬にとって、虹村との “共有” を作れるこの機会は千載一遇のチャンスと同義である。しかも内容は “秘密” だ。稀有さを語るまでもない。
必死にコクコクと頷く。顔に感じる熱はきっとその色も表に出ているだろうから視線は俯いたままだが、信憑性を増させるべく自分を奮い立たせて言葉を紡いだ。
『だ、誰にも言いませんっ……』
「…おう。ならまた此処で飯食わしてやるよ」
喉がカラカラだった。ランチバッグを握る手に爪が食い込んで痛い。しかし、“あ、食わせてもらったのは俺の方か” なんて、あまりにも自然に頭を撫でて、綺麗な笑みを見せるから。奈々瀬はその辛ささえ胸の痛みに置き換えてしまう。
──あぁ、やっぱり好きなんだ。
もう何度、その表情や喋り方に息の仕方を忘れそうになったことだろう。こうして触れてもらうこともこんな会話の内容も、周りの友人女子社員は疎か親友であるさつきにすら話していない秘密だ。奈々瀬の中は虹村との秘密ばかりが溢れかえっていて、それでもなお減ることは知らずウイルスのように増殖し続ける。
先に階段を降りていく虹村の背を見上げる。180センチ前半という、日本人男性にしてはかなり高い彼にはたかが2〜3段ほどの差では追い付けず、こちらが高い位置に足が着いていても目線は良くて同じ。大抵は首元の辺りだ。
そんな彼の隣を歩く女性像を思い浮かべる度に、奈々瀬はさつきを思う。あれほどのスタイルと眉目秀麗さならば不釣り合いではないなと考えてしまうのだ。彼の相手を勝手に、しかも外見で判断するのは良いことじゃないと解っていても、自分に自信のない奈々瀬はそうせずにいられない。
外見は未だしも、彼女のようにせめてもう少し積極的で快活さがあったら。彼との会話も弾むのではないかと机上に空論を投げては、遠慮がち過ぎるこの性格に嘆息するばかりだ。
そんな意が隠った息を吐こうとしたとき、くるりと虹村が首だけ回して奈々瀬を見下ろす。
「……なァ、」
『は、はい』
「お前、さっきは悪夢見なかったんか?」
それを気遣ってくれる優しさと受け取るしかない都合のいい心は、また性懲りもなく虹村を美化していく。奈々瀬は今度こそ目を見て、大きく頷いた。 『もちろんっ!!』 フロアの中間で高々と響くその音に、虹村は一度双眸を丸めてからくつくつと笑う。
「おま…、声でけーよ」
『す、すみませんっ……』
「まァ寝れたならいい。あんまり無理すんじゃねーぞ」
『───はいっ』
ふたりで部署に戻るかと思いきや、虹村は飲み物を買うから先に行ってるように言う。時間差で戻ってきた二人を怪しむものは多くない。少なくとも、わざわざ口に出して問い質すような下世話をする輩はいなかった。
奈々瀬の頭は午前中とは比べ物にならないくらいクリアーで、仕事のスピードも平生通りに回復した。タイピングの速さからそれを読んだ虹村が隣で満足そうに口角を上げたのは、彼だけが知るところであるが。
定時少し前、虹村に確認してもらう資料が付箋付きで手元に帰ってくる。それは特に珍しいことではなく、内容はいつも修正点と良点が指示されているもので。何の心の準備も無しに水色の紙に走る黒い筆記に目を通した奈々瀬は、危うく資料を手から滑らせそうになった。
“P.S.
言い忘れて悪かったけど、飯、美味かった。
ごちそーさん"
秘密がなくとも、やっぱり虹村はズルいヒトだと奈々瀬は思う。形容し難い感情が肺の辺りを圧迫する感覚。胸がどうしようもなく苦しい。痛い訳じゃなく、ただただ、苦しいのだ。もう隣どころか誰の顔も見れない。それほど顔に熱が籠るのを自覚している。
決して虹村にバレないようスーツのポケットに入れた付箋を、自宅で読み直す。さつきは今は入浴中で、だからこそこの時間に奈々瀬は追伸の部分を丁寧に切り取った。
何処に仕舞おうか考えに考えて、結局肌身離さず持っている財布のICカードを入れる部分に差し込んだ。透明なカバー状になっているそこは開けば直ぐに目に入る場所。財布もおちおち誰かに覗かせられないなと、ひとり苦笑する。
会話が増える度に増幅していくこの想いは、いつか心にしまっておけなくなる気がした。はち切れてしまうほど大きくなったらどうしようと考えるのが、その日の彼女の就寝前の思考だった。
「奈々瀬、何か良いことあった? 凄く嬉しそう」
『えっ、そ、そうかな……』
「……うん。凄く嬉しそう!」
そんな奈々瀬を見て花が咲くように笑うさつきの手元には、チャッパチュプスがあった。彼女は新作が出る度にそれを買っている。
風呂上がりのさつきに今日あったことを話すにはもう少し時間が必要に思えた。何故なら今はまだ、思い返すだけで赤面してしまうこの話をまともに説明できるとは思えないし、……もう少し、自分だけのものにしたい。
話の転換には丁度良いと、奈々瀬は飴を指す。
『それ新作? 何味?』
「えっ、あ、えっと、レアチーズタルト味!」
『美味しそう! この前はベリーベリーってやつだったよね、どうだった?』
「えっ! ええっと、美味しかったよ! うん!」
『そうなんだー。私も今度買ってみようかなぁ』
「……うん。おすすめするよ」
奈々瀬は、この時何も気付かなかった。自分の今の悩みがとても幸せだということにも、親友の心中も。毎回新作を買うくせに、今まで一度もさつき自身がそれを舐めているのを見たことがないことにさえ、意識は与えなかった。