目が覚めて見えたのは、前を行き来する黒い棒とそれに払われていく水滴だった。
車を走らせて10分。奈々瀬は意外にあっさりと意識を取り戻す。運転していた虹村は横目にそれを確認し、ホッと安堵の息をついた。
『あ、れ……。ココ、…くるま……?』
その声と言い方に、虹村は静かに深呼吸をする。先程感じた違和感を動揺による幻覚だったのだと結論付けた。
奈々瀬は覚醒しきっていない意識の中で隣の虹村を見遣り、身構えた。相手は眉間に皺が寄り、唇を尖らしている。この顔を奈々瀬は知っていた。……機嫌がヨロシク無いときの、ソレだ。
『あの、わたし、「話は、会社についてから聞く」 は、はいっ!』
有無を言わさない剣幕に背凭れに預けていた背中を伸ばした。状況が理解できないながら、とりあえず彼の怒りの矛先は自分であることだけ解った。
一体何があったのか考えるも、思い出せる最新の記憶はエレベーターを降りて直ぐのところまでだ。虹村の最後の詞は、“幸先いいな”。そのあと自分は、当たり障りなく “そうですね” と答えたはずだ、……が。
そこからこの車に乗り込みN商事を出るまでの記憶が、ない。まるですっぽりと抜け落ちているみたいに、1秒分も思い当たらない。虹村の怒りにドキドキしている心臓と寝起きのせいで上手く頭が回らないのだろうか。
とにかく何かやらかしてしまったのは間違いがないようだ。
会社に着く前に、車は駐車場つきのマジバに停まった。「具合悪くないなら降りろ」と言われ、その刺々しさに奈々瀬は思わず泣きそうになる。身に覚えの無いことが一番罪悪感を産んだ。
おずおずと車から降り、虹村の二歩後ろを歩いて店内に入る。注文内容がホットコーヒーとココアであったことに一先ず息をはいた。虹村は奈々瀬がコーヒーを飲めないのを知っているのだが、無理矢理飲まされる心配はないらしい。
そして、ふたつのアップルパイを頼みトレーを持って2階席に上がる虹村を追う。その間も終始無言で、奈々瀬は席に着くまでにすっかり肩を窄ませ切ってしまった。
トレーを置いて座り、改めてそんな奈々瀬を見て虹村はハッとした。そして自分を悔いた。考えてみればそれほど彼女は悪いことをしていない。突然走り出したり自分を無視したり……確かに勝手な行動はあったが、気を失うほど動転してたのだ。
ハアーとため息をついて、ココアを渡す。その動作にますます臨戦体制に入った奈々瀬を見て、虹村は慌てて首を振った。
「ワリぃ、今のは違って、」
『こ、こちらこそごめんなさいっ!』
「そうじゃなくて、……別に、お前に怒ってるわけじゃねェんだよ」
泣くまい泣くまいと堪えていた奈々瀬が、その弁解に顔を上げる。黒の前髪をかきあげた虹村と目が合う。彼はぎこちなく直ぐに逸らしてしまったが、小さく息を吐くように言った。
「ただ、……心配したのは確かだ」
『……っ』
キュッと、心臓が縮んだのを覚える奈々瀬はその浮き足立つ感覚に申し訳無く思い俯いてしまう。
だがそんなことを知らない虹村は反省を生かし、努めて優しい声で尋ねた。
「何があったのか、話してくんねぇか?」
『それ、は、』
奈々瀬は心臓と同じように、小さく膝の上で拳に力を入れた。どうしようと心が唸る。まだ思い出せていないのだ。
なかなか口を開かない奈々瀬に虹村は付け足した。
「……あの怯えようは、異常だったから、な」
『え……?』
怯えよう?、と心中で復唱する奈々瀬。
「何か言いづらい理由があんなら無理して訊きはしねぇけど、あそこには今後何回も顔を出すことになる。あの男とまた鉢合わせすることだって、」
そこまで口にした虹村に、奈々瀬はストップをかけた。
『す、すみません虹村先輩! あの、実は私、……覚えて、ないんです』
「……は?」
アップルパイを開けていた虹村は途中で手を止め、目を丸くする。
『その、何度も思い出そうとしたのですが、……エレベーターを降りて直ぐのところから目を覚ますまで、何も、覚えてないんです』
「覚えてないって……。いやだってオメー……! ………、本当か?」
コクリと頷く奈々瀬に、嘘をついている様子はなさそうだ。元々そういうのを隠すのがヘタな部類なのだろう。自分でも分かっているからか、奈々瀬はこれまでに虹村に嘘をつこうとしたことは一度もない。
例外として誤魔化そうとすることは女先輩からの嫌がらせ関係で何度かあったけれど、それは原因である虹村や女先輩たちのことを考えたもので。自分だけが得をするようなことは決して言わなかった。
ここで嘘をついても虹村に得はないし、例え誤魔化しであったとしても彼には絶対に見破れる自負がある。彼女は至極分かりやすい。
「オメー、さっきまで気ィ失ってたんだよ」
『えっ』
「車から出てきた男を見て逃げ出したあと、な」
『男……?』
「あぁ。まぁ俺もお前と同じように隠れてたから横顔と後ろ姿しか分かんねェが……、年齢は50代手前くらいで背はちょっと高め。俺よりは低いだろうけど」
覚えあるか、と聞かれて奈々瀬は逡巡した。もう一度、エレベーターを降りた頃まで記憶を遡ってみる。だんだんと朧気になる視界の中、うっすらと車が見えた。もっともっとと進んで、その中に人影らしきものを見た瞬間。ピシッとガラスにヒビが入ったような音の頭痛が走る。痛みを堪えて頭を押さえた奈々瀬に、虹村はギョッとした。
「っおい!」
『あ、大丈夫、です……。すみません、いきなり頭痛が、』
顔をしかめたのは虹村で、机に頬杖をついてズイっと開けたばかりのアップルパイで奈々瀬を指す。
「オメーやっぱり具合ワリぃんだろ。もう今日の仕事は終わったようなもんだし、定時まであと2時間くらいしかねェんだから帰って休め」
『いえ! そんな早退するほどじゃ……!』
「いいから言うこと聞け。家まで送ってやるから。最近遅くまで仕事してたし、疲れてんだろ」
『う……』
「これは 命 令 、だ」
『……はい』
そう言われては抵抗が出来ない。虹村はそのまま無理矢理奈々瀬にアップルパイを握らせ、手付かずのもうひとつを開ける。
奈々瀬の手元にあるものも綺麗なままだったので、虹村に開けてもらったことに僅かに頬を染ながらゆっくりと口にした。好きな甘さが広がっていくのを味わっていると、虹村の視線を感じる。
「……やっぱ気のせいだよな」
『……?』
「いや、何でもねぇ。それより今回の仕事だけど、本当にこのまま続行して平気なんだな?」
『あ、はい! やはり身に覚えはありませんので、続けさせてください』
「分かった。ま、成功させなきゃ俺はお前にずっと100円単位のものばっかしか奢ってやれねぇ先輩だからなあ」
『! そうでした、お金……!』
「俺の話聞いてたか? 大したもんじゃねェんだから大人しく奢られてろ」
『でも、』
「その代わり、成功させるぞ、絶対に。良いモン食いにいくのは俺にとってもご褒美だからな」
白い歯を見せて笑う虹村は、よっこいせと立ち上がる。いつの間にかアップルパイは食べ終わっていたようで、その笑顔に見惚れていた奈々瀬も慌てて最後の一口を口にした。ココアは残っているが、車の中で飲み干そう。
それから、虹村の言葉に甘えて(ほぼ強制的に)家まで送ってもらった奈々瀬。
カーナビに入れる住所を告げて虹村の実家の近くだということが判明し、それに驚いたのはふたりとも同じだ。中学校は電車通学までして少し離れた私立に通っていたが小学校は普通にこの辺りで通っていたと聞き、奈々瀬は新しい情報と共通点に嬉しくなった。
車から降りてお礼と挨拶をする。「ハイハイ、いいから早く入れ」と言われマンションに入るものの、発進させずに見送ってくれる虹村が気になり何度も振り返っては頭を下げる。虹村もそれを見て思わず苦笑した。
エントランスのオートロックのセキュリティドアを通ると、漸く車がエンジンをかけて消えていく。
『……好き、です』
無意識に零れ落ちた感情に、奈々瀬は一人で口を押さえて家に駆け込んだ。
ダメダメ。恋人になんて、……なれっこないんだから。
彼がどれだけ社内で高嶺の花なのかを、奈々瀬はその身を持ってよく知っている。ただの直属の部下と言うだけで小さな嫌がらせを受けるくらいなのだ。理想が高すぎる。
どんどん欲深くなる思考を振りきって、ソファーに沈み込んだ。