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今日こそ終電抜きで上がってみせなくちゃ……!

 カタカタとキーボードを叩く奈々瀬の目は、PC画面と右にあるレジュメの下書き資料を行ったり来たりさせるのに大忙しだった。故に周りの気配を察知するのは疎く、突然頭から背骨にかけて走った電流にビクリと大袈裟に体を揺らす。誰もいないはずのオフィスに、自分の驚いた声がわんわんと広がっては溶けていく。

 顔を斜めに起こして、奈々瀬は刮目した。

『にっ、虹村先輩っ!? ど、どうして……!』

「どうしてはこっちの台詞だわボケ。オメー定時で終わりそうだったじゃねぇか」

 先程頭に置かれたらしい缶が、マウスを持つ奈々瀬の手の横に立つ。ココアだ。
 奈々瀬のデスクの端に腰かけるよう寄りかかり、彼女とは反対方向の窓を向きながら自分のコーヒーを啜る虹村に、奈々瀬は心臓が口から飛び出そうだった。しかし奈々瀬の緊張は露知れず話は続く。確かに定時で上がれる予定だったのだが。

『えーっと……、その分は終わったのですが、お昼休みにとある先輩から追加分を頂いていまして……』

 名を呼ばれ振り向いた瞬間にドンと胸に押し付けられたバインダーを咄嗟に防ぐ方法など、奈々瀬は持ち合わせていなかった。相手は奈々瀬より数センチ高いヒールと紅い口紅と抜群のプロポーションを持ち、そのうえプライドもお高いお姉サマ系の先輩。なかなか人との付き合いが上手くない奈々瀬はますます唯々諾々従うしかない。それに「これ、あんたの仕事だって」と言われれば、それが本当に自分の仕事でないという証明もそこで出来なかったのだ。

 話を聞いた虹村は呆れたように息を吐いた。 “優しい” と “いい人” は違うと言い聞かせても仕方がないことは分かっている。人には得手不得手があり、奈々瀬にとって自分個人の意思を推すのは後者だ。加えてこの部に異動してきてまだ満1年も経っていないのだから “嫌なものは嫌と言え” を此処で強調したって難儀な話だ。
 それに、その女がやるよりも奈々瀬がやったほうが速さ的にも効率が良いことを虹村は知っていた。奈々瀬は決して件の先輩の名を出していないが、教育係としての責務を果たす彼にしてみれば相手を予想するなど雑作もないこと。2〜3人の顔を思い浮かべて呆れる。あの魔女のように長く鋭い爪がキーボードを上手く弾けない場面などとうに見飽きていた。



 奈々瀬と虹村は、その実歳の差はたったひとつだが部署年数が4つ違う。特に虹村はアメリカでHigh School Seniorを卒業したあとその資格で同年代よりひとつ早く日本の大学に入っているし、奈々瀬は入社後2年間別の部で働き、今年虹村のいるこの部に異動してきた。虹村の成績は頗る右肩上がりで出世頭として頭角を現す一方、大方の仕事内容がガラリと異なるために彼女は新人同様の存在である。

 虹村は奈々瀬と話す度にまだ日本にいた中学時代を思い出す。ここまで尊敬や信頼、そして年上であり先輩という意を込めて接してくれた後輩がかつて居ただろうか────。敬語は使えても、彼らは自分より秀でているから立ち位置に若干のブレが生じていた気がするのだ。
 生来の面倒見の良さや性格も相まって、どうしても(無自覚に)先輩風を吹かせてしまう虹村は肩を落とす後輩の横のデスクチェアーに腰かける。この部の定時は18時で今は22時半。虹村は上司との謁見でこんな時間まで残っていたのだが、よもやまだ人が残っていたとは思わなかった。

「腹減らね?」

『えっ、あー……そう、ですね。そろそろ空いてきました』

 喋りながらもカタカタと指は休まない。ブラインドタッチなんて御手の物で、時おり目も合わせてくるからむしろ申し訳なくなる。流石2年間PC作業専門とも言われる部員だった人材。こういうところが、彼女の得手の一つだろう。プレゼン資料でパワーポイントなどのソフトウェアをよく使うこの部にしてみれば、宝のような存在。

 奈々瀬は虹村に見られていることが滑車となり、余計な感情を抑えるべく必死に文字を打ち込む。平常心平常心と唱えながら、早くこの仕事を終わらせることよりも虹村の気が逸れるのを待っていた。
 ふと虹村が立ち上がる。

『……お帰り、ですか?』

 寂しいのが滲まないよう努めた奈々瀬に気づいているのか否か、虹村はニヤリと笑っただけで何も言わず立ち去る。その背中を名残惜しそうに追った奈々瀬は、すぐにハッとしてまた作業を進めた。この調子ならあと四半刻もかからないだろう。何とか終電に怯えることは免れそうだ。

 それから15分後。急ピッチで進めた仕事は仕上げも終え、それぞれ二箇所のフォルダに二度押しで保存する。そのうちのデータの一つを頼んできた先輩のPCに送信する最中の画面をボーッと眺めていると、虹村が戻ってきた。手にはお盆を持ち、奈々瀬の横に座る。

「あ? 何だよ、終わっちまったんか」

『す、済みません! 今しがた、……先輩? それは、』

 少し不機嫌そうに眉を寄せるから咄嗟に謝ったものの、奈々瀬は直ぐにお盆の上に意識を奪われてしまう。
 彼女の視線を追った虹村は寄せた眉の片方を軽く戻して困ったように笑った。

「ま、作っちまったから帰る前に食ってやってくれ」

 そう言った虹村は、盆の上にあった二つのうちの一つに割り箸を乗せて奈々瀬のココアの横に置く。それと麦茶も共に。

『わあっ……! ありがとうございます!』

 ぱあっと花が咲いたように喜ぶ奈々瀬に、虹村は今度はおかしそうにくつくつと笑った。カップ麺一つにどんだけだよ、と。
 そんな彼に “理由はそれだけじゃない” なんて言えるわけもなく。奈々瀬は、恥ずかしそうに頬を染めたあと、割り箸をきれいに割り食し始めた。虹村も自分の分を豪快に啜っていく。

「わりぃな、こんなんで」

『いえ! 久しぶりに食べたのですごく美味しいです』

「そうか。ま、こんな時間に連れ回す訳にはいかねーからな」

 その言葉に、ピタ、と奈々瀬の箸が止まる。それはこの時間じゃなければふたりで夕飯を食べに行っていたかもしれないという解釈で良いのか、奈々瀬は至極迷った。虹村はさほど気にしていない様子で麺を啜り、一段落着いたところでまた話し始める。

「そーいや、新しい仕事入ったぜ。次の取引先はN商事ってとこ。たぶんまたお前にはプレゼンのレジュメ頼むことになるから、宜しく頼むわ」

『あ、はい! N商事といえば、あの赤司財閥ですね』

「あぁ。子会社とはいえ、ちょっとばかしいつものより大きい山になる。上手く行ったらこんなんじゃなくてもっと良いもん食わしてやるよ」

『はい! ……はい?』

 不可思議な答えに、虹村は奈々瀬を見た。

「何だよその反応は。俺の奢りが食えないッつーのか」

『っいえ滅相もございません!! ただ、あの、予想だにしなかったので……』

 一纏めに揃えた箸を、まるで納豆を捏ねるようにグルグル器の中で回す奈々瀬にかなりの動揺が見てとれる。その意味をちゃんと分かっているのかいないのか、変わらず飄々とした具合で虹村は笑った。

「頑張ろうな」

『───はいっ』


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