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BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
- ナノ -
 

 気づいたら、朝だった。見覚えのありすぎる視界は、ここが確かに自室に置かれた寝具の上であることを物語る。しかし温かい布団を剥ぎ取って流れるのは冷や汗で、奈々瀬は大慌てで壁掛け時計を確認した。

『5時、半……、……良かったぁ……』

 アラームを設定している時刻の30分前。寝坊でないと分かれば肩の力が抜けていくのを覚える。
 それから、覚醒し切った頭で自身や周りをもう見渡した。就寝時の服装であることと、ケータイにはきちんとアラームが設定してあること、いつも通りの場所に今日着ていくであろう洋服一式が畳んで積まれていることを認識して、ため息を吐く。

……いつの間に寝ちゃったんだろう。こんなに支度した覚えもないなぁ。

 自室を出て、共同スペースであるダイニングキッチンに入る。シンクに洗い物は残っておらず、何か得たいの知れぬものが生産された様子も見当たらない。何枚かの皿や箸も水切り台に並んでいて、髪を触りながら脱衣所でバスタオルを数えてもやはり昨夜は2枚使われている。どうやら本当にしっかり家事をこなして就寝したようだった。
 事の重大さに戦慄したのは、記憶の途切れが帰宅したときでもなければ退社したときでもないと思い出した頃だ。奈々瀬が確かに脳で再生出来るのは、取引先でトラブルがあったところまで。しかも、その途中で録画は停止している。何とか引っ張りだそうとすれば頭痛が襲い、意識を手放してしまった感覚だけがざわざわと心を揺らした。

どうしよう。取引はどうなったんだっけ。私、気絶したのかな。虹村先輩に送ってもらったりしてないよね?? でも起きた記憶さえもないし……!

 大きな音は立てないように自室に戻り、ケータイを確認する。当該人物とのトーク履歴は一番上に残っていた。恐る恐る開けば、約数分の間やり取りをしていたらしい。

《具合は大丈夫か》

《はい、大丈夫ですよ。今日は申し訳ありませんでした》

《だから、あの人と関係ないならお前のせいじゃねーって。取引も商談も無くならねーし、向こうの代表が変わるだけだ》

《ありがとうございます。打ちきりにならなくて本当に良かったです。また後日、お礼をさせてください》

《なんで礼を言われる必要があんだよ。俺はなんもしてねーから。……疲れてんだろ、早く寝ろ》

《……分かりました、寝ます。虹村先輩もお疲れ様でした。また明日》

《おー、また明日。おやすみ》

《おやすみなさい》

 会話は、右側に映る吹き出しの左に “既読” という文字がついたところで終わっている。どうやら最悪な状況は免れたらしい。
 これを読んだ奈々瀬が既視感に苛まれるのも無理はなかった。同じようなやり取りを、駐車場で気絶した夜もしていたから。
 だが、それ以上の既知感はない。こんな会話をした覚えも、況してや取引が白紙にならなかったことも、奈々瀬にとって全てが初めて受けとる情報だった。

 久しぶりに眉間に皺を寄せ、寝起きとは似ても似つかない盛大な息を吐く。……まただ。また、自分のダメな癖が出てしまったらしい。
 ───いつだってそうだ。都合の悪いことは綺麗さっぱり忘れてしまう。この能力に救われたこともあれど、厭うことも少なくはなかった。身勝手で、至極自分本意で。共にいた人の痛みや苦しみは、何一つ分かち合えない。
 最も手前にある映像で手を伸ばす男は、どうして自分をあれほど恨んでいるのだろう。記憶には全くない。だけれど、……虹村もまるで男と知り合いだったのではないかと思わせることを言っていた。……気絶しなければ、すべての謎が解けたのかもしれないのに。

……進藤さん、だっけ。名刺を交換する暇もなかったから下の名前は分からないけど……。翔一くんに聞いてみようかな……。

 もしも、彼が関わっている記憶が嫌なものだったら。きっとそれも覚えていないはずだろう。それほどまでに自分の忘却能力は秀逸だと自負がある。
 だが、そういう内容の大抵は幼馴染みの翔一が把握している。たまたまそこにいることも多いし、彼曰く情報を通達するシステムがついているらしかった。それを聞いた奈々瀬が少しの恐怖を感じたのも嘘ではないが、そんなことは大した問題にならないほど彼に救われているのもまた事実である。
 しかし、彼のトーク画面を探りながら、ふとカバンの中に視線をやったときだった。

『……あれ?』

 昨日の朝、仕事に行く前さつきに貰った棒つきキャンディー。本数は確か4本だった。珍しく押し付けるように持たされたからとてもよく覚えている。

『おかしいな、1本しか無い……』

 思わずケータイを置いてカバンを探るも、やはり間違いは無い。例え記憶違いで3本無かったとしても、1本は流石に有り得ない。甘いものは好みだが、1日で2本食べるほど嗜好はないはずだ。

『虹村先輩……?』

 候補としては彼しかいないが、無断で貰っていくような人ではない。



 そこまで考えて、ぶるりと身震いが襲う。全く覚えていないところで身体が動いているとしか思えない現象に身を縮めた。

……とりあえず、ご飯、作ろう……。

 よたよたと腰をあげてキッチンに戻る。幸い、なにか別のことをしていれば思考は置き換えられ、いつも通り昼食の弁当と朝食を2人分用意し終えた頃にはルームメートも起きてきた。

「おはよう」

『あ、さつきちゃん、おはよう』

 テーブルに並べた出来立ての料理に、さつきは毎度感嘆の声をあげて席につく。それは今日とて変わりなく、「お麩の味噌汁だ〜!」とはしゃぐ声に奈々瀬の表情筋が漸く弛んだ。
 彼女の目の前に座り、息を合わせた挨拶の後で箸を動かす。

『……ねぇさつきちゃん』

「うん?」

『私、昨日……、』

「昨日?」

 口にして、俯く。味噌色に染まったお椀に鏡像が映ることはなかったが、揺らぐ水面に何か同調を感じた。

『……昨日って、何時に寝たっけ?』

「えーっと、確か11時とかだったと思うよ?」

『そっか。……お夕飯は美味しかった?』

「もちろん! ……奈々瀬、どうかした?」

 訊かれて、即座に顔をあげて首を振る。

『ううん、何でもないの! ちょっと味付け失敗しちゃってたから、今更気になって……、ごめんね!』

「……そっか。平気ならいいんだ」

 さつきは眉を寄せながらも、明るく努める奈々瀬に合わせて優しく綺麗に笑った。だが、背筋を丸めて奈々瀬の瞳を覗き込む。

「でも、もし何かあったら、」

『え、』

「ちゃんと教えてね。……約束だよ」

『……うん』

 さつきの特技は情報収集だ。現職も部活もその技能を生かしているから衰えることを知らず、それどころかより一層磨かれていることだろう。
 だからきっと不安や心配を抱いていることもお見通しなのだと、奈々瀬は想像して申し訳無さを募らせる。打ち明けられないことが苦しい。けれどもし声にして彼女に……第三者に伝えてしまえば、それこそ事実になってしまう気がした。夢物語や幻のような存在が、 “可能性” という形に変わるのが怖かった。奈々瀬はまだ、それを受け入れられる覚悟はしていない。

 洗い物はさつきの仕事だったが、早起きで時間が余っていた奈々瀬はその隣に立つ。とはいえ、さつきが料理を一任させているのに仕事を預けるのは良しとしないのを奈々瀬はよく知っている。並んだといっても正面にするのは流しでは無く調理台で、奈々瀬は小さなタッパに先程作った余りのポテトサラダや唐揚げなど、数種のおかずを詰めた。

「あれ、奈々瀬お弁当箱は?」

『あ、ううん。これ、私のじゃなくて……。その、昨日仕事でお世話になった先輩に……』

「それってもしかしてあの教育係の人!?」

『ほっ、本当にお礼なの! 許可だって貰ってないし食べてくれるか分かんないけどっ、でも毎日コンビニで買ってきてるみたいで……、』

「それなら絶対食べてくれるよ!」

『そ、そうかな』

「うん!」

 さつきが朗らかに言うから、奈々瀬は少し自信を持てた。もし以前と同じように気絶してしまったのなら多大な迷惑をかけているし、あの男が名前を呼んで接触してこようとした以上、一切の責任は自分にあるだろう。昨夜の自分もお礼をしようと考えていたようだし、辻褄は合うはずだ。

 虹村と会うことに一抹の恐怖心も在る。昨日のことを訊かれても奈々瀬は何も答えられない。むしろこっちが訊きたいくらいだ。
 それでも仕事は仕事。しっかりとやり遂げなければならない。決して、 “嫌な記憶” だと自分に認識させないように。


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