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BLコンテスト・グランプリ作品
「見えない臓器の名前は」
- ナノ -
 

────あぁ、嫌だな。

 いよいよ恐れていた日が来てしまった。上司と部下であるにも少し苦しすぎる雰囲気に、 奈々瀬はまた視線を無駄に動かす。
 避けて避けて避け続けた結果、結局仕事で必要な最低限の会話しかしていない。けれど明日は二度目の対面商談だ。こんな空気では流石に乗り切れそうにない時間のうえに、仕事に影響も出てくる。

 だからこそ奈々瀬は勇気をふり絞って、鉛の扉の前まで足を進めたのだ。いつも朝にご飯を買ってくる彼が昼食を外に摂りに行くことはないと踏み、食堂や休憩室を何個も覗きながら辿り着いた最後の候補。
 自分からこのノブを回していいのか些か不安ではあるが、前に「開いてたら入ってきて良いから」と言われたことは確かだ。
 息を吐いて、丸い取っ手に手をかける。こんなに気分が重くなるのは就活のとき以来だ。といっても、それ以前でさえあまり似たような経験はなかったが。

 まるで心持ちを代弁するかのような重さの扉を恐る恐る開く。けれど、その間に考える第一声の内容が全く纏まらず、途中まで開いたそれを奈々瀬は再度静かに引き込んだ。

いきなり謝って良いものかな……。でもベンチまでは距離あるし……、お邪魔して良いかの挨拶が先かな。でも、でも───『ぇ、ぅわっ!?』

 無意識にドアノブをくるくる回すことに気づかないまま同じように螺旋を幾つも描いていた悩みは、ある一瞬で塵と化してそのまま青空へと霧散していくこととなる。それはもちろん、第三者の影響無くしてはあり得ないことで。
 悲鳴をあげた先は鈍い鉛色から眩しい白色へと一変し、中央に走る紺色の布に視界情報が倒錯した。


───「ガチャガチャガチャガチャ……。いつになったら入ってくんだよオメーは……」

『っ、』

 まさかまさかの受け身側。想定外の展開に双眸を丸くさせた奈々瀬は体勢も取れず言葉を無くす。
 その様子にへの字口は尖った。青空の下でひたすら左右に音を立てて回るドアノブを見つつ、それが止まり視界が直線方向に開けるのを待っていた虹村は奈々瀬の腕を引き込む。そうして “秘密” の敷居を無理矢理跨がせた。

 されるがままの奈々瀬を振り返らずにベンチまで直進し、それから僅かに込めた力で持って生み出した遠心力で彼女を自分の目の前に移動させた。

「座れ」

『っ、』

「色々誤解を解きてぇのに避けられてフラストレーション溜まってンだよ」

 舌打ちこそしなかった虹村は仁王立ちで構え、見下ろす視線はまるで釘。磔にされた奈々瀬がそのまま腰を下ろせば、少しだけ虹村の肩の力が抜けた。

「───ワリぃ」

『え、』

「全然入ってこねーし、こうでもしねーとオメー絶対逃げると思って……。元はと言えば俺がやらかしたのに、悪かった」

 首の後ろに手を宛てながら言われて、奈々瀬は文字通り呆けてしまう。あの一瞬からこの一時まで逃げに逃げ続けた奈々瀬の方に非があるし、強いていうなら間が悪かった程度だろう。どう転んでも虹村が謝る理由など見つからない彼女は、それからぶんぶんと横に頭を振った。

『違います! 私がっ、』

 ───弱いから。心への衝撃に慣れていない自分がそれに耐えきれなかった故にあの場を飛び出してしまったことが、一番の起因だと思うのに。
 虹村は否定を感じとると、即座にその頭の動きを手で押さえる。それからぐらぐらと今度は彼の力で持って上下左右に揺らされた。温かくて、大きい手。だが、顔に伝わる熱はきっと彼のものではない。

「この前の電話は、その、ちょっと開放的すぎるアメリカの女で、別に疚しいモンじゃねーかんな? そもそも4人で飲んでたし、」

 つらつらと口を動かす虹村。ただ、奈々瀬にしてみればふたりきりじゃなかったという情報だけで充分誤解は解けるもので、思わずホッと安堵が押し寄せる。

『そうだったんですね。尚更、避けてしまってごめんなさい。その、気まずくて……』

「……だろーな。でもお前が謝ることじゃあるめぇし、普通にしてくれ。そろそろ避けられんのもキツイんだよ」

『ッ……、はい……っ』

 相変わらず都合良く解釈しそうになることは自覚しているが、それでもこの一瞬で喜びを無に還すこともできず。奈々瀬は強く返事をした。




 頭上を彩る蒼天に相応しい心持ちで、虹村に誘われベンチに腰掛ける。上司に置いていかれベンチにひとつぼっちだったコンビニのビニール袋を退かされ隣に座る。
 途端、隣同士でいるのは仕事中も同じだというのに、どうしてか今の状態には緊張が競り上がってきた。デスクの椅子と椅子の間にあるいつもの距離感は1メートルにも満たないが、どうやら大変重要な空間だったらしい。

 ドキドキと、少し急な階段を登った後のような心臓にまた食が進まなくなってしまう。しかし虹村はその様子に一抹の心配を抱いたらしい。

「まだ悪夢見んのか?」

『えっ! あ、えっと、そんなに見ませんよ!』

 寝不足だと感じることも少なくなった日々を思い返し、奈々瀬は笑顔を見せる。そこにもちろん嘘は無いことを読んだ虹村だったが、 “それは良かった” では済まされない。

「そんなにって、まだ見んのか」

『ぁ、……そう、ですね……時々少し。でも本当に、あの日からは驚くほど減っていて、全然大丈夫です。相変わらず夢の内容も覚えてませんし、怖くもありません』

「……まぁ、平気ならいいけどよ」

 明日はまたN商事に出向くことになる。そうすれば必然、奈々瀬が怯えたあの男と会う可能性も出てくる。
 虹村は一緒に隠れた為に人相をしっかり記憶できている訳ではない。それに比べて奈々瀬は確実に反応していた。常に隣にいたとして、目の前の部下より先に察知して回避するなどは無謀だろう。
 願うのは、社員ではなく自分達と同じようにN商事の取引先であること。最悪社員だとしてもどうにか会わないよう運に味方してもらいたいところだ。

 ふと、西の方に見える雲の色が少し灰色がかっているのを確認する。けれど虹村は見なかったことにして、左下でお弁当を広げる部下に意識を向けた。

「お前、それいつも自分で作ってんのか?」

『はい。ルームメート───親友の女の子とルームシェアしているんですが、その子はからきし料理が駄目なので』

 苦笑いする奈々瀬。それを聞いた元帝光中バスケ部主将も、キッチン前ではダークマター製造機と化す同中の後輩とアメリカの友人経由で知り合った同級生の顔を思い浮かべる。アレックスもお世辞に上手いとは言えないところを踏まえれば、バスケ関係の女子は全員その手の者かと思ってしまう彼。よもやその想像した人物が一部同じだとは知る由もなく、奈々瀬の友人はまだマシなレベルだろうと結論付ける。
 それから自分の手元を見下ろし、いつもの色味ない昼食に少しの不満を覚えた。幾つも串に刺さっている唐揚げを一つ、無理やり奈々瀬のお弁当箱に入れる。きょとんとする彼女に、虹村は「卵焼きと交換してくんね?」と口角を上げた。


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