コンコースや改札が賑わう会社の最寄り駅。多数のオフィスビルが集うこの場所は、いつも通りの時間でも他の駅より喧騒だ。
人の軽い波に押し出されるようにホームへ流れ降り、そのまま脚をせっせと動かして改札も通り抜ける。さかさか歩かなければ迷惑になるのは承知済みだ。今でさえ付いていけるようになったが、入社時は後ろからぶつかられるその回数、実に週1と言っても過言ではないだろう。
ここから会社までは徒歩10分弱。駅チカで何とも嬉しい限りだ。イヤホンから流れる曲がちょうど良い具合の歩拍に合ったアップテンポのものに変わる。ささいな運に内心嬉しくなりながら、奈々瀬はホームから改札口までより緩めた調子で歩き始めた。
だが、その曲のCメロが終わる直前。奈々瀬の耳からイヤホンが突然抜け落ちる。驚きつつもそこら辺に垂れているであろうソレを探すが、見当たらない。同時にコードから辿ろうと耳の後ろに持っていっていた手が、不意に大きな感触と温もりを感じる。
『っ!?』
その瞬間。背筋の凍てつく感覚と同時に一瞬意識が飛びかけた。─── “一瞬” で済んだのは、直後に聞き覚えのある声が聞こえて不信感が緩和したから、だろう。
「バカ野郎、声が聞こえねぇ音量で聴いてンじゃねーよ」
『ぇ、』
慌てて緊張を解いて振り向く。奈々瀬の手の中にイヤホンが転がり、丸く覆っていた手が離れていくのを寸でで視覚が拾う。まさか、と思っていた相手はそのまさかで、自身も同様に耳からイヤホンを取り去った。
『に、虹村先輩……!?』
「おーおー虹村先輩だわ。で? そんな先輩の優しいお忠言はちゃんと聴いてたんだろうなァ?」
『っは、はい! ごめんなさい!』
「ったく。危ねーから気を付けろよ」
『き、気を付けます』
バクバク鳴る心臓を抑えて、イヤホンを仕舞う。手の指が熱いのは血流が良いことが理由だ。その根元はきっと、驚きだけではないけれど。
自然と右に並ぶ虹村に、奈々瀬はカバンを左掛けにしていた幸運を噛み締めた。たかが数十センチの厚みなんてちっぽけな話だが、少しでも詰められる距離感はどうしたって嬉しくなる。喜びを何とか隠して虹村をそろりと見上げた。朝からこんな幸せが舞い降りてくるとは……、吉日に違いない。
折角だから何か話がしたいと、奈々瀬は頭を今日初めてフル回転させる。それからおずおずと口を開いてみた。視線がしっかり絡むのは堪えられそうにないので基本は前方を向きながら───それでもたまに欲張りでありつつ、言葉を選ぶ。
『あの、朝に会うのは初めてですね……』
「んあ? まぁそうだな。ちょっと昨日終電逃しちまって……。泊まらせてくれたヤツん家からそのまま来た」
いつもより20分くらい早い時間帯を時計で確認した虹村。
面目無さそうな顔を浮かべる彼の昨晩は長かった。アメリカで知り合ったふたりの友人にその師匠、義弟とで集まることとなり、飲みで始まって飲みで終わる。宅飲みの結果、4人とも年下の家に泊まるという何とも大人げない姿を見せた夜だった。
終始飛び交う言葉は今でこそ懐かしい英語だったが、スラング過ぎて際どいものも多かったと思う。奈々瀬みたいな人間には決して聞かせられないなと、虹村は苦笑いを浮かべた。
こんな残念な話を長続きさせまいと、彼は左下を見下おろす。彼女に合わせて普段より幾分か遅い歩みではあるが、疲れや怠さは不思議と感じない。
「オメーはいつもこんな早いんだな」
『この時間じゃないと人がもっとスゴいので……』
「確かに」
経験があるのか、奈々瀬の答えには二度目の苦笑が返ってくる。片眉を上げるその笑みは、彼女の心臓をギュッと締め付けるもののひとつだ。
それから虹村が何か言おうとした刹那、びくりと突然肩を揺らす。どうやらスマホの通知に反応したらしく、鳴りやまない通知に奈々瀬はLINKでもメールでも無いことを察した。目線が向けられるのと同時に頷いておく。
虹村は「ワリィな」と詫びてスマホを耳に宛てる前に画面をフリックする。しかし通話モードになったその瞬間、まだ端末が首の高さにある段階で結構な音が飛び出した。
《シュウ!! お前何でワタシに一言も言わず出て「っせーな! こちとら仕事だっつっただろーが声でけーんだよ自重しろ!」
慌てて身を奈々瀬と反対側方向に捩り応答する虹村。
その横で、奈々瀬はスン……と心の中で何か温度が下がっていくのを感じていた。
《ジチョウ? 難しい日本語は分からないんだが?》
「声のボリュームを下げろっつってんだよ!」
遠ざかってまでもなお聞こえる音。虹村も直接耳に宛てていられず、端末と思わず距離をとって顔を顰め、話すときにだけ近づける戦法だ。
おんなの、ひと───。
そう認知した瞬間、虹村の朝帰りが途端看過出来なくなる。人数の話をされていない奈々瀬。他にも人はいた、と思いたかった。けれど、
《Oh, Sorry. ところで私の下着を知らないか?》
「オメーの下着ィ? ンなん───……、…………」
虹村は、自身の声こそ怒気を孕ませても大きさには気を付けていたが、さすがに隣の奈々瀬に一言も漏れない、なんてことは不可能だった。
はたと隣の存在に気づいて言葉を切り、口を呆けさせたまま左を見る虹村。相手にとっても自分にとっても百害にしかならない内容を聞いて、それなのに右上を見上げてしまった奈々瀬。
しっかり目が合うふたりは、数秒の沈黙の間にひとつのことしか思い浮かばなかった。
虹村が復唱しなければ良かったと後悔するのはもう少し後の話であるし、祭りでもある。そんなことより早く弁明を謀ろうとした。
だが奈々瀬は居心地の悪さと自身の淡い恋心が砕ける感覚に耐えきれそうかどうか、だった。
「いや、今のは違、『っあ、の先、行ってます、ね』っ神前! 」
自分を止めようとしていることも気づかず、奈々瀬はその場でアスファルトを蹴り人混みに紛れる。
どうして。考えなかったんだろう。
高嶺の花だと思っていたけど、それ以前の問題だ。
あんなにステキなのに、……他の
女性だってステキだと思うのに、彼女がいないわけ、ない。
難しい日本語が分からない、と言っていた。そして少しだけその発音に違和感があった。彼が帰国子女であることは女社員周知の事実である。そこから推測できる、彼の隣に並ぶ女性は外国人だ。
遺伝子のレベルからして、正直日本人と外国人では容姿端麗さの平均値に溝がある。あくまで平均値の話で、もちろん個々や系統で見れば日本人だってボロ負けではないとは思うが、それは親友さつきのような美少女でないと話にならない。
───勝ち目がないと、思った。それに、あんなハキハキと自分の意見を言えるならば性格ですら彼のタイプではないだろう。
奪略愛なんてもってのほかだ。そんな度胸も、忍耐もない。無垢で、世間知らずで、それでいて自分に自信や度胸など全くない奈々瀬にしてみれば、むしろ諦めることしか道が分からなかった。 “好きだ” と想いを寄せることさえも許されないだろう、と。彼女の単純すぎる思考回路が行き着く先など、それしかなかった。
追いつかれてないことを確認できぬまま、会社に入ってから早歩きで女子トイレに駆け込む。洗面台に両手をついて息を整えた。
傷を広げず即座に癒そうと、脳みそが様々な理由で瘡蓋を繕う。
───大丈夫。私は傷ついたりしない。だってまだ、何も努力していない。そう、努力すらできていない人間だもの。こんな自分に想われるんじゃ、虹村先輩の方に迷惑もかかることだろう。
───大丈夫。何も、失ってなんかない。ムダになったこともない。……むしろ得たものはたくさんあって、小さなことが幸せに思えた日々で……、だからこれからは、少しずつそれを返していくんだ。
───大丈夫、大丈夫。
そう、大丈夫。……本当にダメなら、またきっと、……忘れられる。忘却は得意だもの。どうしてだか、昔から、……嫌なことは何ひとつ、覚えてないくらいに得意なんだから。
──── “バカ……。できないよ、
今回ばかりは” ────
そんな自分の声が、頭の中から小さく聞こえた気がして。奈々瀬は独り、『そんなことない』と呟いた。