こちらから誘おうと思っていた矢先のメッセージに、やっぱり彼は千里眼かなにかを有しているのではないかと数秒本気で考えた。ふたつ返事で了承し、スケジュール帳に待ち合わせ時刻と場所を新たに書き加えたのは1週間前。
けれどそれは昨日のことのようで、待ちに待ったその予定は体感的にも早く訪れた。
朝一番。待ち合わせよりも5分早くLINKの通知をもらった奈々瀬がさつきに声をかける。桃色の髪を揺らした彼女も、久しぶりに元主将である先輩に会えると頬を緩ませて隣に並んだ。
『お待たせしました、おはようございます』
「おはようございます今吉先輩!」
「奈々瀬チャンに桃井、おはようさん。ふたりにお出迎えしてもらえるなんて最高の朝やわー」
くつくつ笑ってお世辞を言う糸目の彼に、女子勢は顔を見合わせて笑う。
『さつきちゃん、ご飯はさっき言った通り用意してるけど、明日に回すから食べられなくてもいいからね』
「わかった、ありがとう。奈々瀬もゆっくりしてきてね」
『うん』
「ほな行こか」
車の助手席を開けてくれる彼にも頷き、礼を述べながら奈々瀬だけが車内に乗り込む。さつきはドアが閉まるその様子を確認してから、運転席に回り込む前に、と先輩を小さく呼び止めた。
決して奈々瀬には聞こえたりしないよう、少し身を寄せる。
「……あの、お話ししてある通り、やっぱり最近寝不足みたいなんです。…………お渡しした封筒も、お願いしますね……」
「……わかっとる。こっちも気ぃつけとくわ、任せとき」
不安。心配。恐れ。暗い色を隠せずにいるさつきを、少し大きく開けた目で見た彼はすぐにそれをまた細めて笑いかける。
「桃井、いつもありがとーな。助かっとるで」
「いえ、私は、……何も……」
「そないなことない。奈々瀬チャンのことはワシより桃井のほうが分かっとるのが事実や。これからもよろしゅうな」
「……はい。こちらこそ、宜しくお願いします……!」
深く深く下げた頭を軽く二度撫でるように叩かれたさつきは、少し心が軽くなった気がした。
頭をあげ、ポケットから溜め込んでいた数本のチャッパチュプスを渡す。男はそれを嬉しそうに笑って受け取り、反対側に回り込んだ。
それからすぐに発進していく車を、さつきは見えなくなるまで見送る。
「……無理はしないでね、ふたりとも……」
そんな呟きは、冬の冷たい空気にぶつかって地面に落ちた。
「N商事っちゅーとことの取引は順調なん?」
『うん、恐らく。まだ一度しか対面してないんだけど、メールや電話でのやり取りは上手く行ってるの。また来週面談するよ』
「そんなら良かった。翔一兄ちゃんも安心やわ」
『ふふ、いつもありがとう』
慣れた手つきでハンドルを回す男───今吉翔一に、奈々瀬は素直にお礼を伝える。
高校や大学の入学時、入社直後、それから新しい部署に移動になったときも、いつも気にかけてくれる彼は血こそ繋がっていないが本当の兄のような存在だ。奈々瀬にとって絶対を占める、大きな依り所。
11月27日。今年は休日だったが、たとえ平日でも肩を並べていただろう。こうしてふたりで過ごすのは今年で3回目になる。
目的地についた彼らは駐車場に車を停め、途中で買った仏花を奈々瀬が抱えて石畳を登った。僧侶に挨拶をし、線香を奈々瀬が買う。仏花は翔一、線香は奈々瀬が支払うのが何となくお約束だった。その間に翔一は手桶に水を汲み、柄杓と共に奈々瀬と合流する。
墓前に立ち、まず目を閉じてお盆以来の挨拶をする。それから墓石を洗い、献花をして線香を供えた。
あの凄惨な日々からもう5年も過ぎたのかと奈々瀬は嘆息を溢す。全く慣れなくて、酷く長く感じた2年間。だが、落ち着いてくれば今度はあっという間に過ぎ去ってしまう。不変なはずの時の流れはこうして稀に残酷さを痛感させるから、奈々瀬はその度に自分を責めるしかない。
そんな思いを湛えながら、夏以来のお話を心の中で伝える奈々瀬。さつきや翔一との変わらない生活のこと。最近は帰り道で青峰によく会い、家まで送ってもらうこと。N商事との取引の話とその願掛け。それから───虹村のこと。
恋人の存在を察した日はつい一昨日のことだ。金曜日の出来事であって良かったと心から思う。一日中、それとなく仕事以外の話をしないように立ち回った。何かを言いたそうなのは分かっているけれど、あの手の話を面と向かって受け入れる準備は出来ていなかった。
彼への想いを、いつか断ち切れますようにと願った。育った環境に恵まれた奈々瀬は、傷つくのに全く慣れていない。その痛みさえもほとんど知らない彼女は本当に筋金入りの臆病者だった。だからこそ、理想や幻想でしかない彼との未来をふと考えることだって苦しくなる。
どうか応援して欲しいと祈って、今回は終わらせた。欲張りで身勝手だ。弔いを締める内容でないと分かってはいる。……それでもそうせずに居られないほど奈々瀬にとって大きな問題であることを、きっと彼らは分かってくれるだろう。
奈々瀬は最後に心の中で謝ってから、翔一を見上げる。
「話し終わったん?」
『うん。翔一くんは?』
「ワシも終わったで。…………さて、奈々瀬チャン。今年も寝に行こか?」
ニヤリと笑う翔一に、気恥ずかしい奈々瀬はぶんぶんと頭を横に振る。
『ええっ、いいよ、本当に寝ちゃうもん!』
「せやかて、行かんとあのかりんとう貰えんで?」
『う、』
「毎回のことやから疲れとるんやて。あとでぶっ倒れられても困るさかい、今お昼寝させてもらい?」
『何だか本当に不甲斐ない……』
「可愛いから問題あらへんでー」
『可愛くないよこんなの!』
翔一に背中を押され、半ば無理やり寺の本堂へ向かわされる。随分と顔見知りになった僧侶は奈々瀬を見て事を悟り、いつも通りの朗らかな微笑で中へ通す。
いつも宛がわれる部屋に入る手前、毎度翔一は僧侶と共に奈々瀬を残してどこかに行ってしまうのが常だ。今年もそれは変わらず、彼女は独り出されたかりんとうと瓦煎餅を摘まむ。この時間話している内容は一文字も知らないが、自身に聞かせたくないものであることくらいの判断はつく。となれば、奈々瀬は大人しく翔一が戻ってくるのを待つしかない。
数分後、ひとりで部屋に入ってきた翔一は一言詫びて奈々瀬の隣に座った。奈々瀬は然り気無く腕時計を見遣り、時刻を確認しておく。
「まだ眠くあらへん?」
『眠くないよ』
意地悪に問う翔一に奈々瀬も可愛げなく返す。───そう、眠くなるのは、いつもここからだ。翔一が部屋に戻ってきて隣に座り、奈々瀬の頭を数度撫でるまでは、一切眠気なんて感じないのに。
「ほな、一旦休んでもらおか、奈々瀬チャン」
『……でも、翔一くん、』
「大丈夫。ちゃんと起こしたるから。────奈々瀬、」
いつもそうだ。心地よい声で諭すように呟かれながら、翔一の手が頭から額、そして目へと段々に下がる。普段はしない呼び方で、名前を紡ぐ。
彼女は視界が真っ暗になったら最後、次に目が覚めるまで夢さえ見ない完全な睡眠へと落ちていく。
そうして奈々瀬は、いつか座布団を枕にして目線に畳の目を確認し、また寝てしまったのかと眉を寄せるのだ。そこには普段と変わらない微笑を浮かべる翔一がいて、「おはようさん」と言う。
寝てしまうだけでなく、寝かされてる。そう思うのは勿論だが、事実睡魔に勝てないのだから言い分はあまりない。加えて最近は寝不足気味だったのだ、安心するあの声に誘われては抵抗など絶対に出来ない。
『……寝かせないでほしいなぁ』
「───堪忍な、奈々瀬チャン」
謝る翔一を詰って起き上がる。時計はあれから40分後の世界を指している。
口の中には、未だかりんとうの香りが残っていた。