事の発端は、五分前。お昼ご飯の一つとして家から茹で玉子を持ってきた私を笑ったこいつが、そのまま塩をつけた時にいちゃもんを付けてきたことだ。
彼曰はく、茹で玉子にはマヨネーズだという。正直、後から考えれば『あーさいですかそれも美味しいですよね』で片付ければ良かった。でもこのときの私は何の気まぐれか沸点が低かったんだ。
『は? 私が何つけようと勝手じゃん。てかマヨネーズって。たまごにたまごかけてどうすんのバカなの?』
全力で全国のマヨラー並びに茹で玉子にはマヨネーズ派の皆様に深くお詫び申し上げます。でもムキになっていたこのときの私の言い分はこうなのです。
これまでもお互いちょいちょい意見が合わないことはあった。好きなアーティストとか、教科とか、女優さんとか、かき氷の味とか。
これまで一緒に友として過ごしてきた日々で見つけたその留意点は、ここに来て漸く火種としての能力を発揮することとなるのだ。
「じゃあお前親子丼はどうやって説明すんだよ。鶏に鶏にかけてんだろーが。日本の文化は既にこういうもんなんだよそっちこそバカか?」
『…………、あれはあれこれはこれ』
「説明できてねーじゃねぇか。ハイお前の負け」
『っ、てかそもそも人の好きなもんにケチつけるお前の人間性が負けてんじゃん』
「あ? んだとゴラ。表出ろよ」
『もう始業まで5分しかないから私は行きません一人で行けよ人間ダメ男』
「てめぇなあ……。毎度毎度数学を教えてもらってどの口が言うんだ?」
『そのままそっくり英語の予習に変換して送り返しますねアヒル口さん?』
「っ、もうお前になんかぜってぇ教えねえからな糖尿病予備軍!!」
『甘いもの食べてる全国の女子を敵に回したよコイツ。チャーハン喉に詰まらせて召されればいいのに。てかそんなしょっぱいもんばっか食ってっから高血圧なんだよ。もっと塩分控えたら?しゅ、う、ぞ、う、くん』
「正式名称で呼ぶなっつってんだろーがよこの単細胞!!!」
ゴゴゴゴゴというマグマを彷彿させる空気にも関わらず、クラス内は至って平生だ。「月夜〜、玉子食べる時間無くなるよ〜」という友達の声が聞こえる。傍観者は「また?」「まただよ」と口々に呟いて授業の準備を始めた。解せぬ。
「つーかお前!! 昨日やっぱり俺がとっておいたプリン食べたんじゃねーか!」
『それは一昨日あんたが私のマドレーヌ食べたからじゃん!』
「はあ!? 俺の金で買ったんだから別にいいだろ!」
『奢ってやるって虹村が言ったじゃん!! それなのに……! 私一口しか食べてなかったんだよ!?』
ここに来て先日のことを引っ張り出される。確かに虹村が持ってきてた焼きプリン、あいつが飲み物買いに行ってる間に食べたけどさ。そのあと食べてないよって嘘ついたけどさ。あれは復讐というものであるからして、元を辿れば虹村が悪いんだよ。
遡れば一昨日。古典単語の小テストで点数を競った結果私の方が虹村より6点も上だった。それで約束通り食堂のマドレーヌを奢ってもらった。
なのに奴は、私が一口しか口にしていないそれを奪って全てイートインマウスしてしまったのだ。嘘つきにもほどがある。
それで一昨日も口論になったけど、なんかいつの間にかイライラがお互いに収まってその日は普通に放課後も二人で帰った。
だけど昨日、主人に置いていかれた机の焼きプリンを見て賞品でも何でもなかったマドレーヌの無念を思いだした私は、彼女の怨みを晴らさんとそのデザートを食べたのだ。
虹村は首に手を当てて顔をしかめたあと、吐き捨てるように言う。
「……お前がずっと片山と喋ってたから、腐っちゃいけねぇと思ったんだよ」
『腐らねぇよ!! やっぱり虹村が悪いんじゃん!』
何言ってんのこいつ。マドレーヌがたかが数分でお陀仏になるわけがない。
思えば最近、虹村は理不尽に私に喧嘩を売ってくるのだ。半ば八つ当たりなんじゃねぇかって思ってる。
「ってめ、人の気持ちも知らねぇで……!」
『何それ。そんなの分かったら苦労しないじゃん。片山と何があったか知らないけど、何で私まで片山と話してちゃいけないのさ』
「…………」
言い返す言葉が見つからないのか、への字に口を曲げた虹村は明後日の方向を見遣る。それを見てため息しか出てこなかった。
『もういい。最近の虹村すぐに怒るし心狭いからめんどくさい』
「なっ!」
「ちょっと月夜それは……、」
『謝ってくんないし。勝手にすれば』
「っ、おい、」
女子の友達の制止の声も、数センチ先の慌てた声も聞かずに私は、茹で玉子を手に虹村から離れた。
かくしてこれが。私たちの学年で今年の珍名物となった第一次一言じゃ終われま戦の勃発である。
位置につけ!
そんな戦が故の試練ないし悪影響は、早くも1時間後にやってきた。今日に限って6時間目は教室移動の時間割で、立ち上がった瞬間お互いに視線を合わせる。
これはいつものことだけれど、さっきの腹わたが煮終わっていない私は瞼を数ミリ下ろして睨みつける。そしたらなんか向こうもし返ししてきたのでそのまま数秒鎬を削り。結局互いに違う人に声をかけた。私は体育の時によく一緒にいる2人組の仲に入るし、向こうも同じだ。
他クラスには未だ私と虹村を友達以上だとかなんとか噂する奴もいるけどそんな関係じゃないし、それをこのクラスの全員がよく熟知してくれている。私とあいつはただ互いの部活が終わる時間も乗る電車も降りる駅も同じだから普段一緒に行動することが多いだけの話だ。
つまり何が言いたいって、他にも友達はいる。
今日の移動先は生物室で、そこは自由席。友達は多ければ多いほど良しとは言わないものだけど、少なくて良いとも言えないわけで。今日は前者を有り難く感じた。
それでも、電子顕微鏡を覗いて調節していると、「早く謝りなさいよ」と怒られた。なぜ私が先に謝らねばならない。最初に喧嘩を売ってきたのは向こうなのに。
『参考までに聞くけど花菜は塩だよね』
「何の参考か知らないけど私はマヨネーズ」
『えっ、……と、とも子は塩だよね』
「え? えっと、その……。で、でも! 塩も美味しいよねっ」
ジーザス。なんということだ。目の前の2人に言われて誰も味方がいないこの班に蒼白の色を浮かべる。塩派いないの? 嘘でしょ。
すぐ後ろから鼻で笑われた。顔は見なくとも分かる。その顔だって想像できる。それを見たあとのイライラさえも測り終えれば振り向くわけもない。振り向かないからな絶対に振り「清水ー、俺塩派」『えっ!!』
ぐるんと首を回して仲間を捉えると、私と目があったのは隣の脳筋チャーハン野郎と同じ部に所属の男子で、小麦色の肌に白い歯がよく映える。
「あのしょっぱさが卵の旨味すべてを引き出すよなー」って良く分かってるぅ!
私は興奮して空席になっている自分の隣の椅子をバシバシ叩いた。
『ちょ、佐伯くん! ここ! ここおいで!!』
「えー?」「っは!?」
『もっと語り合おうここおいで!! そんなヤツの隣なんて止めなさい』
椅子は少しバランスが悪くて、私が叩く度にグラグラと揺れる。少し眉を困らせて笑う佐伯はチラと左を見た。視線の先のチャーハンマンは作業の手を止めて私に背を向けている。
と思いきや、ガタッと椅子を膝裏で押し込んで立ち上がった。周りの班が思わず180前後の男を見上げる。もちろん私もその一人で、顕微鏡と荷物を持ったコイツは私の顔を見ずに方向転換をすれば、カタンとバランスの悪い椅子の足を鳴らした。
……いや、待てよ。
『何で虹村が座んの!?』
「べ、別にお前には関係ないだろ!! 窓の景色が見たかったんだよ!!」
『ふざけんなお前はお呼びじゃねぇんだよ!!』
「無理。お前の意見を聞く義理はねぇし、それにお前が勝手にしろって言ったんだろ」
『あーもうじゃあいいよここ座ってろ! 私が佐伯の隣にいく』
「は!? それじゃあ……っ!」
荷物を適当に重ねて立ち上がろうとすると、想像以上の反応を返された。『え、なに?』と聞くと、ムッと眉を寄せて目の前の黒瞳は右へ左へ動く。おーい唇が定位置に動いてますよ。
何やら言いにくそうに暫しの沈黙を置いた虹村のために、この場全体が閑散とする。
「そ、……それじゃあ俺がこの班で男一人になっちまうだろ」
響いた台詞は、私の癇癪にも皹を入れた。
『ホントなんなの虹村。それ言うためにここ座ったわけ?』
「違ぇよ! 景色見に来たっつってんだろ!」
『そんなセンチメンタル似合わないんだよ!! 顕微鏡覗けっつーの! 授業中だよ!?』
「んなこと知って───「本当に?」……『「あ、」』
いつの間に後ろにおられたのか、白衣とメガネを眩しく光らせた先生はにこりと笑う。その手にあるただの指差し棒は凶器にしか見えない。
「本当に君たちは今が授業中だという自覚があるのかい?」
たんったんっと先生の左掌で弾む棒から眼が逸らせない私たちは、静かに席を立った。今時こういうのも教師による暴力だとかでPTAから騒がれるらしいけど、うちの学校にはそんな世間話通用しません。
しかもこの人、クラス担任であり私の所属する卓球部の顧問である。罰し方は様々だから怖い。
「虹村は放課後部活だからしばらく椅子なし。あと明日の昼に俺の雑用な」
「ッス……」
「清水は今日の部活に死ぬ覚悟で励めよ」
『えっ、いや、私も椅子なしと雑用で……』
「お前ら二人だとくっちゃべってばっかで効率悪いんだよ。あと席離れろ」
『「ウス」』