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Readiness
救急箱を取ってきた火神は、俯いたままの月夜を見下ろした。── “憔悴” ──、漢字は書けないが、以前黒子が使っていたそんな熟語が頭に浮かぶ。正に月夜を表すに相応しいものだと思った。

そんな彼女の右手は膝の上で広げられ、真っ白に染まっている。対して、左手はその細い親指と人差し指で何かを摘まむように挟んでいた。それが、月夜の白い右手にリングの影を映す。影の形通り、指輪、なのだろう。
火神は、俯いた月夜が目を閉じているか開いているかは確認なかったが、どちらにせよ視ているモノは同じだと悟った。例え視界を黒に染めていたって、瞼の裏にはきっとその指輪を描き想いを馳せているのだと。


まさか、完全な別離に発展するとは思わなかった。当事者でない火神でさえ、心にぽっかりと穴が開いているような心地だ。
こう云うときに使えるような語彙を、日本語が不自由な火神が持ち合わせる訳もない。あまり使わない大脳皮質の言語野を働かせながらも、結論を出せぬまま火神は月夜の目の前に腰を下ろした。

「……ツクヨ、どっか痛いところあるか?」

すると月夜は、フルフルと首だけを横に振った。彼女が意思表示に言葉を用いない場面を、火神は既視感を覚える。小さい頃から今までは必ず口が働いていたことを、このとき初めて気付いた。何時から変わってしまったのか、なんて……愚問でしかない。

月夜にバレないよう嘆息した火神は、強引に、けれど努めて優しい力で、月夜の顎を掬い目を合わせる。

「足も捻ってないか?」

『うん、大丈夫だよ』

驚いたことに瞳は潤みも無く、目元も腫れていなかった。泣かないのか、泣けないのか。火神は眉を歪めながら、「そーか」と歯を見せて笑ってやる。


すっかり忘れていた夕飯は作り途中のままで、火神は話題をそっちに逸らした。幸いメインディッシュのパスタはまだ水に晒してもいないし、ソースは温め直せば何の問題もない。まな板の上に半分だけ刻まれた野菜たちに最後まで包丁を通してサーモンの刺身と共に盛り付け、作ってあったドレッシングをかければサラダも完成だ。
その行程を脳内で追った月夜も、素直に料理再開を受け入れた。

座り込んだままの月夜の右手を手に取り、引き上げるように立ち上がらせる。
その際、月夜は指輪を手元も見ずにニットカーディガンのポケットに突っ込もうとした。───が、上手く入らず、カコンッとフローリングを鳴らして蛇行する。月夜も火神も反射的にその音と指輪を追ってしまった。
暫しの重い沈黙。耐えきれずに、月夜が笑顔と声音を繕いかけた時、先に喋ったのは火神だった。

「それ、持っとけよ」

『え、』

目を丸くする月夜を余所に、火神は転がった指輪を拾う。数秒、自身の小指にすら填まらないソレを眺めたあと、月夜の正面に戻った。

「タツヤが戻ってくるまで、持ってろよ」

そう言って彼女の掌に返そうとしたのだが、月夜はサッと腕ごと背中に回して拒否した。そして、言葉より先にまた首を振る。

「ツクヨ?」

『ぃや、もう、要らない……』

「いらねぇって、何で、」

『だって、わたし、……私もう、タツヤとは一緒になれないのっ』

苦しそうに、月夜はまた俯く。

『もし前の、……本物のタツヤになっていたとしても。私は、きっともう、恐怖なしではいられない』

「……ツクヨ」

月夜が恐怖を自覚したことは、今回の問題の一番の打開策になったが。それは同時に、彼女の心に決して消えないモノを刻み付けてしまった。見ないフリをしてきたが、こうなってしまっては見えないフリが出来なくなる。

月夜にとって、氷室からの愛の証のひとつであったソレは、今ではフラッシュバックのスイッチでしかない。月夜はその小さな輪っかが魅せる愛情に託つけて、痛みと恐怖を流してリングに沈めてきたのだ。
この指輪を見るだけで、あの大好きな温もりも幸せしかなかった楽しい日々も容易に取り出せるけれど、同時に恐ろしい感情まで飛び出て来るのは明白だった。

『忘れなきゃ、もうタツヤは愛せないから、こんな気持ち、忘れなきゃ……っ』

ぼそぼそと自分に言い聞かせる月夜を見下ろした火神は二の句を失った。やはり月夜はまだ好きなのだ、氷室を。それも、今まで火神がずっと見てきた、既に時の人格となりつつある彼を。

再度決心を固めたらしい月夜は、潔く火神を見上げる。そうして、至極明瞭に言い放った。

『その指輪は、捨てるつもりなの』

そもそも月夜は、ポケットに入れたまま家に持ち帰り、そこで捨てる予定をとっくに作っていた。拒絶してしまったのは、火神が頼を戻すという体の発言をしたことに動揺してしまったが故の行動だ。

『拾ってくれてありがとう、タイガ。ご飯作ろうか』

今度は自分から指輪を受け取りに行く月夜。しかし、次に拒んだのは火神だった。
サッと指輪を包んだ拳を上に上げる。その動作に肩を揺らした月夜に、暴力を奮うつもりなど毛頭無いことを伝えようとした火神。次は咄嗟に彼女を引き寄せる。すっぽりと火神の腕に入った月夜は、目を白黒させた。

「……本当に、捨てていいんだな」

『えっ』

「本当に良いなら、俺と捨ててくれ。ちゃんとお前がアイツを忘れられるように、証拠人になりてぇんだ」

彼女が家に帰ったとき、独りではせめぎ合う気持ちに負けてしまう可能性を考慮したものだった。もし指輪を捨てられなかった場合、見る度に傷つく月夜を思えば火神とて捨てておきたい。
そこには友情以外の感情が一枚噛んでいることに、月夜は疎か火神自身も気づいてはいなかった。けれどこのときの言葉は、確かに月夜の心に火種を落とし今後燻ることになる。

月夜は火神の意図を読み取って、『うん』と一つ、力強く頷く。そのまま二人でキッチンに入り、ゴミ箱の前に並んだ。

「……タツヤとは、友達になら、戻れるか?」

指輪を月夜の手中に返しながら、火神は訊いた。否、訊くと言うよりは寧ろ、頼み事に近かった。
月夜に暴力を振った氷室にこそ幻滅を隠せなかったが。それでも氷室を邪見にできるほど彼を慕う気持ちは弱くない。
悪いことを善いことの数倍にして周りを測り考察・判断する人間が多いが、この二人はそうではなかった。月夜が幾度の痛みを覚えても氷室を手離せなかったように、火神もまた、彼の善いところを知りすぎていて、そしてそんな彼が大好きだったのだ。
だから火神としては、月夜が氷室と今後一切の接触を無くすことはとても避けたかった。

『私は、もう二人きりは無理かもしれない。逃げ場や痛みの無い幸せを知ってしまったから、きっともう耐えられない』

その台詞に、火神は焦って月夜を引き留めようともがいた。

「こんなこと言っちゃ悪いけどよ……! 指輪があってもなくても、結局お前は思い出すぜ!? アメリカでの生活も、日本での日々も! タツヤがツクヨにあげた幸せはきっと忘れられねぇと思う。だから……!」

───だから、お前はタツヤを嫌いになんてなれねぇ。
それを口にするのは躊躇われて、火神は末尾を飲み込んだ。

月夜は数秒火神を見詰めたあと、困ったように微笑んだ。

『そうだね。だからタツヤのことは、一生嫌いにはなれないと思うの』

続いた言葉が火神のソレと一致したので、彼は安堵を漏らす。

それでもこうして指輪を捨てるのは一種のけじめだと月夜は言った。もちろんフラッシュバックを防ぐ為でもあるのは確かだが、それだけで人は変われはしない。恋情に終止符を打つための策だ。

『……タツヤと友達に戻りたいな』

苦笑する月夜の横顔が、どうしようもなく綺麗で。火神は目を奪われた。

『……でもね、タイガ、』

緩く八の字を描く眉のせいで少しだけ伏せられた瞳が、僅かに震えながら火神の赤を捉える。カチリとピースが填まったみたいに視線が交われば最後、逸らす術なんて見つからない。
ドク、と血液が勢いよく心臓から飛び出て体内の熱をあげるのに、何故か背筋には冷たいものが流れ落ちる。

『私は今日、タツヤを傷つけた。それに彼に怯える顔を見せれば、もっと傷つけてしまう。そうしなければ良いって分かってるけど、タツヤを見たらどうしても身体が固まってしまう気がしてならないの……!』

ギュッと、指輪を握った拳で胸元を握る。ここでどんなに力を込めたって、ヒトは決して震える心を掴むことなど出来ないのだが。

火神は横に立つ月夜の肩を掴んで、身体ごと向き合わせた。
こんな表情をさせたくて、月夜と氷室の恋愛に口を挟んだ訳じゃない。火神は火神なりに、月夜を笑顔にしたかった。幸せに、したかったのだ。
驚く彼女に焦点を合わして、火神は訴えるように言う。

「それなら! それなら俺が一緒にいてやる! 今度は俺がお前を守るから! だから、タツヤを、……いつかタツヤを、許してやってくれ……」

月夜は氷室に恨みを持つ訳ではないが、それでも火神には大切なことだった。もう一度三人で笑える日々が欲しかった。至極自分勝手だとは分かっているが、何年も紡いできた絆がここで切れてしまうのは是が非でも避けたかったし、その思いは三人に共通していると信じていた。

「お前がもう、誰かに怯えることなんてさせねぇから。タツヤ以外の奴を好きになって、タツヤとまた友達になれるまで、俺がツクヨを絶対幸せにするから……!」

告白紛いなのだが、この台詞において火神にその気は無い。別れるまで事態が発展したり、氷室を過度に怒らせてしまったことに責任を感じているからこその言葉に過ぎない。
そして月夜もそれを分かってるから、あまりの必死さと優しさに破顔した。

『……うん。じゃあタツヤと仲直りするまで、手伝ってね』

「! おう…!」


喜びを隠さない表情で「任せろ!」と胸を張った火神は、月夜の身体の向きを戻した。ゆっくりと開かれた手の中にある銀は、照明の光を一つ映してキラキラと光る。
ゴミ箱に落ちていくソレを見送った二人は、どちらからともなく踵を返して手を洗い料理を再開させることにした。

次に自分の指に輪がかかる時には隣の存在が当たり前になっているのだと思うと、頼もしくもあり少し恥ずかしかった。しかし、火神は嘘がつけない男だ。これは確実に事実となるに違いない。
むしろ、そんな火神からその時に離れられるのかが懸念材料になりそうで苦笑すら込み上げる。月夜の口角がゆるりと上がるのを見た火神は不思議そうに眉を上げたが、月夜は『何でもない』と誤魔化した。

#2016.01.22 完結#

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