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Readiness

頬の腫れは1日経っても引かなかった。酷いものではないけれど、目立たない訳でもない。使い捨てマスクを耳にかけて、家を出る。ふと心を掠めた、一人暮らしを親に頼み込んで正解だったという気持ちに月夜はマスクの下で口を曲げた。
今日は火神と一緒のファミレスではなく、自宅近くの大型スーパーでのバイトだ。レジ担当で接客はあるが、マスクをしていても許される。
風邪を引いたのだとまた小さな嘘をついてレジについた。周りの店員も常連もその声が塩になるなど思うわけもなく心配してくれて、頬の痛みが増した気がした。



重たくなる身体に鞭打ちながら、休憩も挟んで何とか7時間の勤務を終えた月夜。時刻は22時を過ぎていて、夕飯にする惣菜を入れた袋を手首に下げて外に出た。今から料理をする余力は無い。帰って早く寝よう。ファミレスのバイトは運が良いことに3連休。頬は明明後日までに何とか治したい。こういうときは気力も大事だ。そして休息も同じく。

夏は例年より早く終わった今年、秋の景色がぐっと深まり虫の音が車の音を掻い潜って微かに聞こえる。そろそろ衣替えをしなきゃなと押し入れの中を思い起こしながら角を曲がったその時。
突然誰かにグイと肘の辺りを掴まれて月夜の身体は強く強張った。降り切ろうにも力は入らず、鼓動が響く体内に脳が警報を出す。相手の顔は怖くて見れない。ただ俯いてか細く拒否の応を首で出すだけ。こういうとき言葉にしてはならないのを、月夜の唇は知っていた。

「───俺だって! ツクヨ!!」

そんな月夜の耳に漸く届いた音は、一瞬で彼女の怖れという怖れを取り除いた。

『ぁ、タイガ……?』

「驚かせて悪かった。ただちょっと、……俺、お前を待ってたんだ」

『えっ……』

月夜のバイト先のレジ担当は、会計だけでなくフロア掃除や籠を2階に上げる作業など他にも仕事がある。どうやら火神はその間に買い物に来たようで、月夜の姿だけを確認した彼は彼女のバイトが終わる時間を聞いて待っていたらしい。
誰も教えてくれなかったことに月夜だけでなく火神も驚いていた。てっきり連絡された上でここを通ると思ったのだ。

「なんか、その、ストーカーみてぇな真似して悪かったな」

『ううん。正直一人で帰るのは不安だったから、良かった。ありがとう』

氷室が迎えに来ていない理由を、火神は訊かなかった。色々思うことはあるが、氷室に今回だけは嘘をついてでも月夜と二人で話すことを懇願する予定だったので彼にとってはある意味好都合だ。
一方月夜は、氷室にも風邪を引いたのでバイトを休むと伝えている。見舞いに来ようとした氷室を何とか制止したのは記憶に新しい。

隣に並んで歩き出す月夜の手から、火神は何気無くレジ袋を奪った。それを追う頃には既に自分とは逆側の手に握られていて。速業に口を開けていると、レジ袋の中身が見えたのか火神が問うた。

「惣菜ばっかだな。マスクもしてるし、具合悪いのか?」

『ぁ、うん……、ちょっと風邪引いちゃって。あっ、あのね! 今日どうしても休めなくてバイトに出たんだけど、タツヤには秘密にしててくれない?』

「はあ? お前はまた……。無理すんなよな! ったく……」

『あはは、ありがとう。タツヤにバレたら怒られちゃうから、お願いね』

「分かった。……その代わり、」

『え?』

予想もしなかった見返りに、月夜はいつもより数センチ高いところを見上げる。濃紺の背景は、火神のワインレッドを少し侵食し始めていた。

「俺んちで飯食ってけ。白飯は炊いたやつ余ってるし、惣菜だけなんて味気無い夕飯よりちゃんとしたの食おうぜ」

『い、いや、でも……っ、』

月夜は滑り出そうとした否定の言葉を慌てて止めた。突きつけようとしていた、彼氏がいる女を夜に連れ込むという意識は、火神にはなかったからだ。その証拠に「ちゃんと飯食わねぇと風邪治せねぇだろ。作るの怠いなら俺がやってやるから」と尤も且つ御人好しを顕にしてさっさと歩き出してしまう。

拒もうとした月夜だが、火神の親切を無下にするのはどうしてかとても躊躇われた。この前の階段でのお礼もしていないからだろうか。
この親友は如何せん小さな嘘もつけないような馬鹿正直な奴で、そんな性格に月夜は過去何度も助けられている。きっと今回も、そんな幸運の道だと判断した愚かな娘は、結局断りきらずに大きな背中を追いかけた。
マスクの存在も、頬の痛みも全て都合良く忘れ去って。


だから、そう。(どうしよう)、そう思ったときには後の祭りだったのだ。
用意された夕飯を食べるべく。耳にかかったマスクの紐を指で絡めて漸くハッとし、顔をあげた月夜の首を。射るような瞳がまた締めていく。

「……? どうした?」

火神の意識は決して月夜を責めるものではなかった。ただ単純に、動きを止めたことに疑問を抱いただけ。
問題なのは火神の目力ではなく、月夜の予備知識で。それ故に発動してしまった被害妄想が彼女を窮地に追いやった。

「ツクヨ?」

赤い赤いそれは全く別物なのに。そう頭では分かってるはずなのに。俯く月夜の様子を確認しようと火神が手を伸ばした瞬間、身体が示した “拒絶” を、抑えられなかった。彼の細い目が、僅かな隙間しかない眉間が、低い声が、どうしたって重なるのだから。

弾かれた手と寄せられた眉にどこか既視感を覚えた火神は立ち上がる。長い足の膝が机の足に当たってガタンと音を立てたが、月夜の肩が揺れたのはそのせいじゃない。
明らかな “怯え” を見せて座ったまま後ずさる月夜は、そのままベランダに背をぶつけた。逃げ場はもう横にしかないのに、火神の手がそこを塞いでしまった。

「お前、もしかして、」

『っひ、ごめ、なさっ、』


火神は最初、また誰かに暴力を奮われたのかと思った。しかし、両腕で頭を挟むように防御の形を取る月夜に、火神の背中を別の所以で冷や汗が伝う。普段はアホ峰と並んでバ火神と冷やかされる知能の持ち主でも、今回ばかりはよく頭が動いた。

────(……違う。誰かに奮われたとか、そんな単純な話じゃねぇ)

だってこっちは、ただ手を伸ばしただけ、ただ近づいただけ。それでここまでの反応は可笑しい。
しかも相手は幼少をよく知るこの自分だ。火神だからか? 否、そんなわけがない。火神でこんな状態じゃ、他の人間にだってそうなるに決まってる。氷室と同じくらい信頼を得ていると自負する火神は、例えそれが彼氏でも───、同じことだと思った。

互いにそこそこ忙しい学生生活を送る恋人たち。普段の授業に加え、氷室はバスケとの合間に、月夜はバイトとの合間に、恋人との時間を入れている。因みに火神は二人でいう恋人との時間にバイトを入れているわけだが、一日一日の内容はかなり濃い。だから月夜が一人になって他の男と会う時間など、今日みたいに氷室の自宅までの送りを断ったりそういう何か特例がない限りほぼゼロといっても過言ではないのだ。
それなのに、先日の傷もこの怯えようも氷室は全く知らないでいるなんてそんなこと有り得るのか?ただでさえ勘が鋭いのに加えて月夜に関するとその能力を何倍も研ぎ澄ます男だ。絶対に氷室なら気づく。そしてこんなことを知れば、奴は必ず動くだろう。

「大丈夫だ、ツクヨ。俺は何もしねぇから、ホラ」

『……っ、』

月夜の手を、最大限の優しさを込めて包み込んでやる。すれば彼女はそのなかで拳を握り、おずおずと火神を見上げた。

月夜が階段から落ちかけたあの日、氷室が彼女の腕の痣に気付いていれば。今日のそのマスクに隠された腫れなんて存在しないはずだ。

「なあツクヨ。タツヤは、この前の痣に気づいたか?」

ギクリと分かりやすく全身の筋肉を強張らせた月夜に、火神は胸が苦しくなった。道が消えてしまって真っ暗闇に落とされた気分だ。

気付かれなくて何も対処が無かった為にまた誰かに手を出されたなら、氷室のやり過ぎ制裁に罪悪感を感じているほどの余裕なんてなくても良い。そんなことより大事にすべきは身の安全で、バイト帰りに一人になるのを優先するほど彼女は強くはない。
もし不安があったとしても月夜が手加減しろと言えば氷室は素直に聞くだろうし、それも懸念するなら火神に護衛を頼むくらいするだろう。
月夜は他人に迷惑をかけたくない嫌いがあるが、それでも重要な事なら必ず、下手に出てまで頼んできてくれた。

親友二人の不可解な行動を辿っていけば、全てが解れた先にあるのはたった一つの可能性だけで。
そんなこと信じたくないと前にも同じようなことを思ったが、もう見て見ぬふりも四の五の言ってもいられない。大事な妹であり姉であり友である女が、身体にも心にも傷を追っている。(それをどうやって見過ごせというんだ!) 火神はあの日の月夜の可笑しな笑い方と違和感に気づいていながら触れなかったことを酷く悔やんだ。


ジクリと心臓を刺す痛みは耐えがたくて、情けないこの後悔も表情も見られたくなくて。それ以上に、眼下の傷ついた存在にも目を当てられなくて。
全てから逃れる方法は、たった一つしか見つからなかった。コンパスを持たない火神は、見える道を進むしかなかった。

月夜の全身に力が入るのも怯えた顔に目を向けるのも薙ぎ払って、火神はその胸に一つ抱いた。腕の中にすっぽりと収まってしまうことが、とても気に食わない。こんなにも弱くて儚いのに、なんですぐに助けてやれなかったんだろう。

「……ごめん、」

溢れ落ちた言葉に、月夜が瞠目したのを知る由もなく。火神はゆっくりと、だが着実に、腕に力を加えていく。自身の額を月夜の肩に押し当てて、沸き上がる抑えようのない感情を必死に堪えた。

「俺、気づいてたかもしれねぇのに、何もしてやれなくて、……ごめんな」

皮肉にも、月夜を包む温かさは氷室の “最後にある贖罪” にそっくりで。胸の辺りから紡がれるものに瞼が重くなる。

(何でタイガが……) そんな問いは言葉になる前に身体を起こした火神の行動に吸い込まれた。不意打ちで取られたマスク。顕になる腫れを痛々しそうに撫でる手が熱い。
真っ白になる月夜の頭は、目の前の “憐れみ” に対抗する術が全く思い付かない。

「これ、アイツだろ」

ドクリと、心臓がまた気持ち悪い音で全身に血を流す。なのに、足りない。血液も、酸素も、何もかも、足りない。
嫌だ嫌だと拒む脳。ならばこの頷きたがるのは一体何だろう。身体か、心か。

「タツヤに、やられてるんだな?」


ああ、もうおしまいだ。
世界は残酷で、それでいて甘くて。容赦がない逃げ道ばかりで。

『……ごめ、ごめんなさ、』

許しを請う為に謝ることしか出来ない自分が、月夜には一番憎い。

 

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