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Readiness

その日は───その瞬間は、唐突だった。何日も何日もかけて考えた彼を傷つけずそれでいて己の傷痕を知ってもらう言葉は、その幾重の層に似合わず月夜の喉奥へと溶けた。

いつも隠されている右目の存在が、今とても有り難い。月夜の喉を突き刺すその矢を放つ穴が一つで良かったと心底思う。冷徹な両目だったらきっと、立ってすらいられなかっただろう。

「どうしてだい?」

月夜は何も言えなかった。前に進むどころか、一歩退いて火神の体に身の3分の1を重ねてしまうくらいに、ただただ恐怖が身を支配していたから。
月夜は知っている。嘲笑の笑みすら浮かべなくなった氷室が、どれ程残酷か。そして、本能によるこの逃避も彼の逆鱗を撫でることも。


「ツクヨがどうして、タイガの家にいるんだって聞いてるんだけど」

氷室に話にいく日取りを決めていたところだった。どうせ二人とも自炊の身ならば、ご飯を一緒に作ろうというのも理由だ。
氷室は丁度彼自身の用事で出掛けており、月夜が一人という都合のいい時間だった。
話すなら早い方が良いと火神が提案した瞬間、インターホンが鳴る。隠れる時間も、言い訳を考える暇もなかった。

悪かったのはタイミングだという人間は、どれくらいいるだろうか。例えばこれが3割だとして、ならば残りの7割を考えてみたとき。彼氏がいるのに親友の男の家を訪ねていた月夜が悪いのか。それとも、そんな月夜を呼んだ火神が悪いのか。こんな状況の根本にいる氷室が悪いのか。
何処かに捨てては許されないという前提であったとき、仮に3人に2割ずつ平等に分けたとしても、余りの1割は誰に上乗せする?どんなにギリギリまで3等分したところで、完全には割り切ることなど出来ない。

氷室を有罪にすることは簡単だ。だが、月夜と火神を無罪にすることはそれほど易いものではないだろう。


「そこを退いてくれないか、タイガ」

二人で氷室を見る。からだの横に下げられた掌は拳を作っていて、それを見てしまった月夜はギュッと火神の服の裾を掴む。
こんな行動が、やはり氷室の沸点を下げる理由だと知っている状況はあの日と同じだ。違うのは、月夜にとっての火神という人間だけ。だがたったそれだけで、彼女が “恐怖を第三者に伝える” という行動を起こすには十分であった。

「……退けねぇよ」

そしてその “変化” の存在も、火神はちゃんと見つけていた。左手で月夜を背中に押し込み、氷室と彼女の間にきちんと入り込む形を作ってやる。

「全部、聞いちまったんだ。だから、退かねぇ」

「聞いたって、何を?」

「……タツヤが、ツクヨを傷つけてること、だ」

「……傷つけてる?」

繰り返したのは、無論氷室だ。だがその疑問符の意味を問うことなど、火神は出来なかった。否、したくなかった。

何故ならその言い方は────、

「だけどそれは、……言葉は悪いけれど、ツクヨが受け入れたことだろう?」

「……は?」 『ッ…………』

まるで、確信犯だと言わんばかりのものだったから。

確かに、氷室の言うことは一理ある。月夜は苦しみを分かち合うと言ったのだ。氷室の暴力がその方法なのだから、月夜も、そして火神も真っ向から否定することは出来ない。

それでも、氷室が認めたら、終わりだった。

「辛いのを分け合おうと言ってくれたのは、ツクヨだよ」

「な、んだよ、それ、」

『(やめて、)』

「本気で言ってんのか? ッふざけんなよ!!」

『ぁ、タイガ……っ、まっ「お前……!
今までツクヨがどんだけ辛ェ思いしてたか分かってんのかよ!!」

今にも飛びかかりそうな火神を、背中の服を掴むことで抑えた月夜。その視界はすでに薄く滲み始めている。
背中越しの儚い力を感じながら、火神はどうにか言葉で氷室を責めるようにした。

「そんなことは俺だって分かってる! だけど止められないんだよ……。けど、そんな俺の苦しみを、ツクヨは分かってくれているんだろう?」

火神の服を掴んだまま、月夜は首を横に振った。もう、声なんて出せない。口を開ければ漏れるのは泣けない嗚咽だと分かっていて、そんな態度を見せるのは是が非でも避けたかった。

『(そんな言い方、しないで、)』

心の中で、必死に叫ぶ。だけど伝わるわけもなく、火神と氷室の行き交う声には月夜の思いなど含まれていない。
氷室を理解していたことについて答えるよりも、言いたいことがあるのだ。実際、解っていたつもりだった。本来なら、直ぐに肯けた。なのに、そんな言い方をされてしまえば、

『────ぅ……、して…の?』

思わずには、いられなかった。訊かずにはいられないから、恐る恐る口を開く。

『タツヤは、私を、……りよう、してたの……?』

火神が自分の前から退くのと同時に、月夜も身体をずらして氷室を見上げた。氷室は驚いたような顔をして、「違う」と零す。

「そんなわけないだろツクヨ!」

『けど、けど……っ、あんな風に言うって、そう思ってたんでしょう……!』

「違うんだ……! 聞いてくれツクヨ!」

『っひ、やっ……!』

そう言って一歩近づく氷室に、月夜はフラッシュバックで動けなくなる。が、久しぶりに声で拒絶した。それが暫く声にしなかったものだということを、氷室もこのとき気づいた。しかしその知覚でさえも、もはや遅い。

月夜を先にその手に掴んだのは、変化の中でも今度は変わらないものを視た火神だった。トン。フローリングの床の上を、黒い足が僅かに滑る。

「ツクヨ、思ってること全部吐けよ」

『で、も、』

火神が月夜に触れているからか。それとも、先程月夜が身の程を弁えずに拒絶したからか。氷室の怒りは恐らく募っていて、それを雰囲気で感じとる月夜にこれ以上の抵抗は躊躇われた。それでも火神は、

「俺がいるし、大丈夫だろ。それに、今しかねェと思うぞ、こんなチャンス」

こんなときでも笑って細い肩に手を置き、子どもを諭すようにあやすように月夜の背を押した。
気持ち的にまた一歩踏み出した月夜は、背中にある温もりと、平生なら恐怖しか得ようのなかったこの状況下に於ける支えを身に覚える。その瞬間、流れてくる火神の言葉。辛さは未だしも、こんなに身体を痛めないでも幸せになれる人間は。確かにこの世に圧倒的に多いのだろう。

漸く今までの我慢がどれ程実の無いものだったのかを痛感した。
彼氏だとしても、それが氷室の唯一とも言える弱味であって仕方ないとしても、やはり身体に傷を負うのは可笑しいのだと、初めて本当の意味で認めることができた。それは別に他人と自分の不幸や辛さを天秤にかけたのではなく、受け皿に “身体の傷” を乗せること自体が間違っていると気づいたのだ。

『もう、止めて、欲しいんです、』

カラカラの喉で、ゆっくりと告げる。

『タツヤだって、辛いの、分かってる……! でも私も、辛かったよ……!
 やってないって言ってるのにっ、信じてもらえないことも…! 痛いって言っても貴方に聞こえなくなってしまうことも……! 分かってるけど、分かってるけどそれでも嫌だった!
 抱き締めてくれることだって、ほんとは、尚更もう……っ』

氷室の、確信犯を思わせたあの言葉は、最後の儀式のようなあの抱擁と謝罪を、本当に “儀式” としてやられていたのではないかと。そう考えさせた。月夜が辛いことも何もかも分かって、それでいて全てあれだけの行動で終わらせてしまうなんて。少し冷静に見つめれば、なんてお安いものだったのだろう。
その時その時が精一杯だから気づけなかった。否、むしろ、気づくのに必要な知識や視点さえも持ち合わせていなかった。


『私は、タツヤが好きです……、』

そう切り出した月夜は、やはり優しかった。誠実で、御人好しで、氷室を想っていた。

「そんなのは、俺だって一緒だよ」

『でも、……ごめんな、さい……っ』

火神という味方がいて、この問題の核心をほぼほぼ理解した上でも、やはりその罪を氷室に被せることだけはしなかった。
火神にしてみれば、月夜はもう充分に傷ついたしこれ以上何かを背負うなんてさせたくなかった。全ての荷を下ろさせてやりたかった。なのに月夜は自分からまた一つそれを拾う。

『あの言葉、いつもいつも、嘘じゃなかった』

“辛いことは半分こしよう” 、そう言ったのは、一回ではない。

『でも、ごめんなさいっ……、』

心のキズなら、上手く隠せるけれど。身体の傷はそれほど簡単ではなく。今後、火神でもない誰かにバレた時を想像すると酷く恐ろしかった。
それだけではなく、やはり物理的な痛みと精神的な痛みは使う神経も感覚も違うのだが、月夜が一番嫌うのは前者の方である。

『痛いのも嫌なのっ、……私、タツヤが怖い……っ』

この傷を負わなくても幸せになれるのだと、知ってしまった。あの温もりは、傷をつけなくたって与えてもらえるのだと、教えてもらった。

『ごめんなさい、私は、タツヤを支えたかった、支えていくつもりだった……! でもっ、もう無理……っ』

「ちょっと、待って、」

『弱くてごめんなさい、強くなれなくてごめんなさいっ我慢できなくてごめんなさい…!!』

「ツクヨ……! 俺を、見捨てるのか……?」

『……ッ!』

幸せは、たくさんあった。彼にとってはそれも同じだろう。ただ、不幸せだって確かにあった。けれどそれは氷室を頷かせなどしない。

氷室の言葉は月夜の中の正義を氷らせて火神の中の正義を灼いた。

「ふざけんな!! 何だよその言い方! 苦しんでるツクヨを先に見捨てたのはタツヤだろッ!」

「っうるさい! タイガには関係ないだろ!」

「抑えきれないからって手ェ出して、それを続けるだけの道を選んでいいのかよ!! 距離を置くとか、冷静なうちに離れるとか、幾らでも方法はあったろーが!!」

「……黙れよ、」

「こんなんじゃ、ツクヨばっかが苦しんでんだよ! もうこれ以上しらばっくれんな! 悪いのは全部テメェだろタツヤ!」

「煩いっつってんだろ!」

『! ───ダメッ!!』

「邪魔だ!!」

ドンッ!
骨に響くのはそんな音で。『っぐ、』と競り上がる痛みを堪える。氷室の拳は火神の顔を狙っていたが、咄嗟に月夜が氷室自身に飛び付いて防いだ。しかし代わりに、月夜を振り払おうとした氷室は脚を使って彼女を床に倒す。

「ツクヨ!」

覗き込む火神の悲痛な顔と、後悔をしているお馴染みの氷室の顔が同時に視界に入った時。月夜は、決めた。
皮肉にも、何故か涙は出ない。クリアーな被写体はどちらも眉間に皺を刻んで口を閉じている。

『タツヤは、大切な人にばかり、手をあげるの……?』

男は拳で語るものだとか言うけれど、それは喧嘩の中での話だ。だがこれは喧嘩なんかでも、友情や兄弟の衝突でもない。
殴る理由が余りにも自己中心的で、月夜にとってはとても大きな衝撃だった。

『いつか、いつか子供が出来たりしたら、変わるんじゃないかって思ってた。でもきっと、タツヤは変われないね』

「っ、そんなことは……!」

『─────氷室辰也さん。わたしと、……私と別れてください』

ギョッと目を開くのは、氷室だけじゃなく火神も然りだった。まさか別れ話にまで発展するとは思っていなかったのだ。月夜も氷室も互いに互いを想い合ってるのは、今さっきまでちゃんと伝わっていたのに。暴力をやめさせる約束を交わさせたあとは、二人をこの家から笑顔で見送るつもりだったのに。

「待って、ツクヨ、」

『ごめん、なさい。タツヤを支えられるほど、強くなれなかった』

「俺は強くなくたって構わな、」

どうにか月夜を繋ぎ止めようとする氷室の手を、火神は素早く叩いた。

「違ェ、ツクヨが構うんだよ。強くなきゃ、こうやって押し倒されたり、蹴られたり、信じてもらえなかったりってのに耐えられないって話だろ」

「じゃあ、じゃあもう……!」

「いい加減にしろよタツヤ! “じゃあ” ってなんだよ、もう殴らないってのか? そんなことができんなら何で今までそうしなかったんだよ!」

「それ、は、」

「俺は、お前がどんなに自制が利かなくてもツクヨが優しくて強くても、……女を殴るなんてのは絶対ェにおかしいと思う」

『タイガ、』

「なぁタツヤ。これ以上幻滅させないでくれよ」

「っ、」

シン……と静まり返る一室。泣き声も、怒声も無い。在るのはやるせなさだけ。

「今日は帰ってくれ。頼む、タツヤ」

氷室は何も言わずに立ち去った。床に脚を投げ出して座ったままだった月夜からは、庇うように立った火神で彼の表情すら見えなくて、だからどんな思いで此処を出ていったのか分からない。それが憎悪でないことを願うばかりだ。

ガシガシと頭を掻く火神は月夜を見ずに「救急箱取ってくるわ」と洗面所の方に消えていく。

一人残された月夜は、ふと中指にはめていた指輪に気付く。まだ氷室が暴力を奮うようになる前に貰った、小さなリング。それを取ろうと力を込めた刹那、一粒だけ泪が落ちた。

 

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