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Readiness

それは、もうかれこれ3年ほど前からの話だそうだ。付き合って、初めてのケンカをした時。その日はお互い飲み会の後で、酒が入っていたらしい。その席で月夜の隣、氷室のもう片側を埋めた男に嫉妬した氷室の方が、家に帰った後で怒ってきた。勢い余って突飛ばされた月夜の悲鳴で、当時は我に帰った氷室だが。罪悪感と力を奮う爽快感で、想像以上に怒りが発散された味を占めた。この感覚が、元凶だった。

『スッキリするっていってた。本当に申し訳ないけど、口論よりもケンカが早く治まる気がするって、いってた』

“口論よりもケンカが早く治まる” 。
“終わったら謝ってくれる、愛してくれる” 。
ショックと、それこそ彼への愛で思考が常人を逸していた月夜は、その愚かすぎる言い訳を正義として掲げた氷室にそれでもしがみついた。

『でも、でも……っ、違うの、タイガ!』

「違う?」

『タツヤは悪くないのっ』

傷は、回を増すごとに増えた。平行して怒りの沸点さえも降下した。身に覚えのない謂れや、ただの噂話を真に受けて怒ることも少なくなかった。火神や他の人といる時に売りにしている冷静さなんて、月夜の前では影すら見せなかった。
自分の傷を見る度に、途端に足元が真っ暗になる感覚に陥った。もうやめてと、何度も叫んだし何度も泣いた。だが、彼女に勝る物理的な痛みなんて何一つ負っていないのに「済まない」と繰り返し苦しそうに言うことで示される氷室の精神的な痛みの方が、月夜の中で彼女の痛みを越えてしまう。

『だって、タツヤも辛いんだよっ……』

「ツクヨ、」

『辛いことも、幸せなことも、半分こするって決めたの……! だから、わたしは、』

────「なら、お前のは?」




“え?” と。聞き返す言葉すら、出てこなかった。涙が溜まる目を見開いて、そこに映る火神は朧気に揺れる。

月夜の持論は。とても優しくて、温かくて、綺麗で、それでいてとても彼女らしいものだった。自分の気持ちを表に出すことが苦手だからこそ、他人の気持ちを理解するのに長けていた。
だけどそれは、所詮清水月夜という人間の持つ物差しで測ったものに過ぎない。先程の言葉を訂正すれば、 “その道具を使って測ることに長けていた。その道具が示す数値がどんなにゼロから遠くても、マイナスに行っても、値を解読することに、長けていた” 。

つまりは自分なりの解釈でしかないのだ。どんなに正確に読み取ったって、一般論と等しいとは限らない。
例えば収穫したりんごの大きさ。例年より大きく立派なものであることをプラスで正確に表せても。その農園の平均値が全国のそれよりマイナスであれば、実際問題世間を圧倒させられるモノではないだろう。

「タツヤが辛くて大変なのは分かった。それを半分こしてぇのも分かった。……じゃあ、お前の分は?」

りんごの話ならまだマシな方だろう。その問題を解決する方法がどんなに難しくても、 “問題の存在” 自体を知覚することは容易い。その業界で広い視野を習得するのはそう難しくないから。
だが、月夜の方は違う。問題を解決する方法はりんごよりも複雑じゃない可能性はある。だが、 “問題の存在” 自体を見出だす機会は多くないのだ。こういう類いには、転機が必要で。且つ、自らを省みる強さが無ければ視野すら持てない。


そしてその物差しは、経験によって数値が微動する。

『私の?』

ここまで言ってキョトンとする月夜に火神は熱がさぁーっと冷めていく感覚を覚える。怖かったのだ、純粋に。

月夜の暴行を受ける恐怖が、氷室の苦しみを示す数値に近付くなんてことはなく。むしろ “慣れ” や “免疫” として、負の方向に平均値を下げた。結果として、彼女はますます氷室の苦しみを自分のソレより高く高く上に持ち上げてしまった。
月夜はそういう意味で、世間とは違う物差しで氷室の感情を測っていたのだ。自分の思いは改めて外部と測る機会なんてない故に、その間違った道具で、ずっと。

「っ、お前の辛いことはどうなんだって聞いてんだよ!」

このままでは、月夜が幸せになれる道なんて見えやしない。そうと解れば、もう火神には彼女の “転機” になるしかなかった。

「ツクヨのソイツは、タツヤと半分こしてんのかよ!」

『それは、』

「お前の痛みも何もかもが辛くない訳ないだろっ、タツヤだって辛いかもしんねぇけど、ツクヨだって十分辛い立場にいんだよ!」

もっと、もっと早く気づいてやるべきだった。もっと早く、教えてやるべきだった。
後悔の文字では言い表せない黒い感情が火神の心を埋めて行く。

だけどその言葉は、決して遅くはなかった。
この瞬間初めて月夜は、自分の負担を重く感じる。

「そんなんじゃ、お前他の奴より半分多く苦しんでるだろーが」

『っ、ちが、』

ボキャブラリーが少ないバ火神の単純な言い回しは、月夜の脳内で即座に分析される。
(……違わない。タイガの言っていることは、間違ってない)
確かに人より気づくのは遅かったし、自覚することすらも厭った月夜は感情を自ら抑えた点もある。だが、分かってきているのだ。もう、さすがに。

この関係が、世間には良く思われないということも。親や火神、周りに隠そうとして、氷室のご機嫌を取ろうとして、挙げ句彼に怯える瞬間があることが、可笑しくて。気付かぬ振りをしていたことも。

「あのさ、ツクヨ。人間ってのは、幸せより不幸なことの方が何倍も大きく感じんだよ」

その台詞は、どっかのドラマや映画の受け売りだったかもしれない。
だけど、事実なのは確かだ。人間はたくさんの幸せをたった一つの不幸でなかったことにしてしまう生き物で。都合良く作られ他を支配する生物の欠点は、 “幸せ” の実感を維持し続けることが難しいことなのかもしれない。否、むしろ “幸・不幸” といった感覚を持っていることすら、そもそもの欠点と言ってもおかしくはない。

「それにな、幸せは分けなくてもいいぜ。そりゃあ分け合えたらいいけどよ、でもそうしなくても自分に害なんてねぇだろう」

だけど、と火神は続ける。

「不幸は違ェ。誰からも貰ってないならいいし、そんな関係じゃないならいい。だけど、どっちか片方がやるんなら、もう片方も返さなきゃなんねぇと思う」

『タイガ、』

「じゃなきゃ、全然fairじゃねぇし。あげてるやつだけズリぃだろ、そんなん」

一通り言いたいことを言い終えた火神は、口を閉じて月夜を見下ろす。この言葉は、届いただろうか。感情を司る心や、これまでの自分を否定できる感覚はきっと月夜の奥深くまで落ちていそうで。だから、彼女の理解を得るのに時間が必要なのかもしれないと思った。

月夜は数秒黙考する。ダメな関係だとはどこかで悟っていたし、火神に言われてほぼほぼ認め始めている。ただ、彼女は自分の苦しみが他人以上であり氷室以上でもあることは、これまで全く感じて来なかった。

ぼそりと問う。

『……タツヤは、狡いの?』

「えっ? ……あー、まァ。うん、ズリぃ!」

余りにも火神が自信満々に認めるから、月夜は毒気を抜かれたように涙を拭う。

『私は、不幸かな?』

「そ、れはわかんねぇ。……けど、痛い思いしなくても幸せになれるヤツなんて世の中にはいっぱい居るし、」

視線を左右に一度ずつさ迷わせた後、火神は優しく月夜の頬に掌を這わせた。温もりがじんわりと腫れに流れて、ぴりぴりと小さな痛みを帯びる。
だけど、振り払おうとは思わなかった。

「そもそも痛いのに幸せだ、なんてMしかあり得ねェだろ。ツクヨにはそんな趣味ねェだろ」

『え、』

「えっ? ……え!? あんのか!?」

『あ、いや、うん、ないよ』

「だ、だよな。焦った……」

まさかこの真剣な会話のなかでマゾという聞きなれない言葉が出てくるとは。またまた急にシリアスを吹き飛ばす展開をいれてくるから、少し頭がクラクラする。
安堵の息をついた火神は、手を当てていた月夜の頬をもう一度見直した。赤いどころか少々蒼気味の痕。口の中も切れたんかな、と親指で擦りながら眉を顰めた。

「それによ、殴ったりすんのも結構痛ェし、タツヤとツクヨがどっちも辛いのは俺もヤダ」

『……うん、そうだね……』

「だから、


 ───だからもう、……終わりにしねぇか」


その言葉に、ピクリと反応する。
終わりにする。その終着点に何があるのかを考えれば、それでもやはり安易に頷けない。
だが、どう言えばいい? 拒絶の態度は何度も示してきたつもりなのに。別れると言えばそれが原因でも暴走してしまうんじゃないか。考えれば考えるほど花は実を結び、苦味を蓄えていく。

「……ツクヨ、」

妄想による恐怖で固まってしまった月夜は、相変わらず優しい火神の声に焦点を合わせるのが躊躇われた。
けれど、グイと指で顎を救われる。

「こんな風に痛い思いしなくていいように言うことが、別れることと直結するわけじゃねぇよ」

『ぁ、』

「とりあえず、ケンカしても口だけで終わるようにしようぜ。俺も一応ついてく。別れるかそうしないかはそのあと決めりゃあいいだろ」

『でも、』

「何に “でも” ッつってんのか分かんねぇけどよ、お前まだタツヤのこと好きなんだろ」

火神が眉をあげて笑いながら言ったことに、月夜は。なんと反応したらいいのか、分からなかった。
頷くべきことだと分かっている。月夜は、例え何をされても氷室が好きだった。愛されていることに喜びもあるし、愛そうと思える。現にさっきまではこう思っていたのだ。

だけど。

「そんなことされても、信じてもらえなくても、やっぱりお前はタツヤが好きなんだろ?」

だけど、その想いの先にある未来は、────本当に幸せなのか。

『…………うん』

頷く首に、変に力が入った気がして。なかなか正面に顔を戻せない。
そんな彼女の表情を読み違える火神は、言うのだ。

「好きなヤツがさ、辛そうな顔してんの見るのは誰だって辛いからよ」

“だからきっと、タツヤも分かってくれるぜ”

自身がどんな顔をして言ってるのかも。月夜にどう映っているのかも。その声に、視線に、他人事とは思えない熱が籠っていることも、月夜の心に一点の染みを落としたことも、何も知らないまま。

 

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