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Readiness

忘れ物である携帯をロッカーから取る火神の横で、同じものを手にした月夜の顔から血の気が引いた。点滅する、薄紫のLED。それが示すのはただ一つ。月夜の頭の中は、まるで半紙のように墨を吸い取って瞬く間に暗黒に染まる。

震える手が巻き付けられたこの小さな鎖を決して落とさぬよう、月夜は胸に抱いた。深呼吸を二つ。閉じた瞼の裏に浮かべるのは、 “本当の彼” の笑顔。
バイトが長引いたと説明をしよう。今から走って降りれば、急いでいた風に装えるはずだ。

『じゃあ、お疲れさま。タイガ』

心配してくれた心優しき友の顔も碌に見ず、吐き捨てるように呟いて月夜は更衣室を飛び出す。急かす足を懸命に叱咤しながら、両手で握る携帯の画面をタップした。着信履歴の時刻は、5分前。その画面から通話を開くけば、聞こえたコールはたったの一回だ。息を吸う間も無く、世界が繋がる。

「もしも『ごめんなさい!! ちょっと長引いちゃってて、今終わったの! 電話出れなくてごめん、ごめんなさいっ』

「……分かった」

『今ダッシュで着替えて、降りてるから!』

「うん、いいよ。ゆっくりで」

『本当に、ごめんなさい……』

普段通りの声色に、月夜は人知れず安堵を漏らす。
何も……、何も無ければ、優しいのだ。彼の機嫌が悪いときだけ、あの悪魔は暴走する。だけどそれ以外なら、あの大きな手のひらで月夜の頬を包み込んで、やんわりと微笑んでくれる。割合にすれば9:1の比率だろう。

通話を切って、階段を降りる。3階建てのこの建物の2階に位置するファミレスの店員は、客の邪魔にならないようなるべく階段を使うよう求められているので自発的に動いていれば何かに時間を奪われることはない。───そう、自発的に動いていれば。

「待てよツクヨ!」

上から響く声、月夜は反射的に引き留められた。振り向けば、燃えるような赤い髪。

「一応、タツヤのとこまで送る」

その親切すら、痛かった。悪いが、余計なことはしないでほしい。月夜はバイトが長引いた設定だし、のんびり火神と階段を下る余裕なんて持っていないのだ。
もし、もしこの事で彼の眉を顰めさせたら。それが引き金で、自分にだけでなく火神にまで何かあったら。それこそ月夜は客観的現実を受け入れなければならなくなる。

『ううん、大丈夫だよ。タツヤを待たせてるから急ぐの、ごめんね、ありがとう』

「あ、おい!」

返事を聞く前に後ろに回した首を戻して、次の段差に足をかけ始める。もういっそ、振り切れなくても構わない。自分が慌てていれば……、彼のために頑張っていれば、それでいいのだ。

踊り場を左迴し、残すはあと半分。外を捉えた視線の先には待ち人が見えた。(嗚呼、良かった。怒ってない。必死な私に苦笑してる)、そんな幸せを、小さく噛み締めた時だった。
急がば回れとは、良くいったもので。残り6、7段のそれを、4センチのヒールブーツを鳴らして一段飛ばしで降りていた月夜は唐突な浮遊感に襲われた。重心が背中に傾き、視界は一色に染まる。後悔も、恐怖も、それら人間らしいものを感じる暇など一瞬も無く。

「「ツクヨ!!!」」

その割に、二つの大切な声が鼓膜に届いたことに喜びと運の良さを覚えた月夜の身体は、衝撃を背中で吸収した。



「「『──────っ…………、』」」




脇下から腹に回る、一本の腕。この人の腕の長さなら、自分の胴体周りなど片方で充分なんだと、どこか冷静な頭が計算した。
ドクリドクリと身体を圧す振動は内側からではなく、後頭部を刺激している。

「……っぶねェ……、」

頭上がやけに暗くて少しだけ首を上げれば、その人の顔を初めての角度から見た。眉間に寄せられた皺が、額にうっすら滲んでいる汗が、どうしてか痛々しい。

『……タイガ……、』

「…に、何してんだこのバカ!!!」

目の前で吼えるように怒鳴られ、ビクリと月夜の肩が揺れた。尖った犬歯が、トラではなくライオンを想像させる。

投げ出された両足はどこの段差にも着いていないのに、自分の身体は地面と平行してもいなかった。腹に回された手だけでこの不可思議な体勢を維持しているらしく、日常生活ではまず有り得ない。

「お前ほんと! っとに、〜〜〜っ!! バカ野郎!! 何でそんな靴履いてんのに階段飛ばして降りんだよ! 死ぬかもしれなかったじゃねぇか!!」

『っ、』

そう言われて、事の重大さに気付く。すれば途端に身体中から冷や汗が流れて、心臓が全身に血を流し始めた。
感じなかった恐怖が今さら月夜を襲うから、だらりと垂らしていた手で無意識に火神の腕を握る。指の長さも、手の大きさも何一つ足りなくて、それに縋るには、月夜はただ力を込めるしかなかった。

ジェットコースター等とは訳が違う。感覚は一緒でも、その先にある可能性は桁外れだ。後ろに倒れかけたということは、頭に段差が直撃したかもしれない。トランポリンのように何度か腰で弾みながらこの坂を滑っていたかもしれない。足を変な方向に曲げていたかもしれない。想定できる被害を考え出せば、キリがなかった。

『ごめ、なさ……、』

涙は出ないが、ショックは大きい。そんな月夜には、自分に起きた出来事を対処するので精一杯で。身体から抜けていくのと反対にますます手に加えていく力を制御できなかったし、すぐ下で手を伸ばしかけていた一人の男の存在も、況してやその険しい表情や心を覆う闇さへも、全く気にしていられなかった。

だから、ハッとしたのは声を聞いたときだった。

「ツクヨ」

弾かれたように顔をあげる。そこにあるのは、……仮面だ。

嫌だ、と。拒否反応を現す身体が、またも月夜の意識を破って火神の腕を自身に引き付けるように押し付けた。
このとき、月夜に触れていない火神の右手は手摺を掴んでいたが、その右手にすらも彼女のそれが重なっていた。

『……タツヤ?』

「タイガの言う通り、本当に危なかったじゃないか。全く、俺もヒヤヒヤしたよ」

『……っ、』

伸ばされた手が向かう先は、残念ながら月夜のものではなかった。彼女の手中と、その体に纏う縄。目的を感知した月夜は、咄嗟に火神の腕を離し自分から彼の手を取った。

驚いた顔をした彼────氷室は、一瞬でその双眸の大きさを戻して、妖艶に微笑む。

「良い子だね。ほら、おいで」

ゾクリと背中をかけ上がる何かには目を閉じて、月夜は、足を地に着けて力を入れた。
引き寄せられる力には抗わない。スルリと、火神の右手が撫でられていく。


「助かったよタイガ。ありがとう」


(まるで、お前のモノのような言い方だな)なんて。月夜を抱く氷室に、そんなことは言えない火神は下唇を噛んだ。事実、もう月夜は二人のモノではない。そもそもそんな言い方も間違ってはいるが、それでも火神が好きに声をかけてやれて良いように出来る相手では無く、それを出来るのは氷室だけである。

「ツクヨ、タイガにもう一回お礼を。そしたら帰ろう」

氷室の胸にしがみついていた月夜は、恐る恐る火神を振り向いた。その表情に、 “アイ” なんて存在していない。
ただ人形のように、月夜は口を開いていく。

『本当にありがとう。またね、タイガ』

最後に浮かべた笑みは、火神が知っているソレじゃなかった。(何だよ、その顔、)そんな苦い味は、喉を行き来して終わる。

月夜の背に手を添える氷室と、その隣にくっついて歩く月夜の後ろ姿を見送った火神の右手は宙を掴む。そしてその上を左手で摩った。














ガチャンと音を鳴らした扉に、月夜は身体を自身の手で抱いた。
(何で、どうして?) 疑問が生まれては、後退りをする。
鍵を閉めてリビングに入ってくる氷室の顔には、笑みなど一つもない。

『ね、え、』

届かない叫びは、何度この部屋に飲み込まれただろう。ここの空気は、確実に酸素が少ない気がしてならない。
震える月夜の声を、一体氷室はどうやって処理しているのか。この目に浮かぶ涙は、蒸発するばかりで雲になんかなってはくれない。……雨なんか、降ってくれない。塵も積もればなんとやら、そんなのはハッタリだ。

『何で、怒ってるの?』

月夜は言葉通り、何故氷室が怒っているのか理解できなかった。とは言え、理解ができないだけで見当はついている。ただ、氷室の怒点は明らかに常人のものではないだろう。何で、そんなことで怒ってしまうのかが分からないのだ。

あのまま、火神に助けてもらえてなかったら、本当にどうなっていたか分からない。絶対に死が無かったとは限らないのだ。氷室では、距離がありすぎた。火神が追っ掛けて来ていなかったら、……火神が居なかったら、間に合わなかった。
月夜にしてみれば、助けてもらっただけで。本来なら、自分が何もなかったことに対する喜びと、火神のように危険を省みない行動に注意をするものであろう。……そうでなくちゃ困るのだ。

「何でって、決まってるじゃないか」

前髪をかきあげた氷室の目は、恐らく月夜を見てはいなかった。見えているのは、嫉妬の靄だけ。

「タイガに抱き締められてしがみついていたのは、誰だい?」

その問いに、月夜は絶望するより先に瞠目した。予想はしていたが、信じてはいなかったのだ。裏切られたような痛みと絶望は、そのあとにやって来る。

氷室ではどう考えても月夜を助けることなど不可能だったあの状況で、それでも月夜に第三者が触れることが許せないと言う理由では、あまりにも理不尽で、残酷すぎる。仕方がなかっただろう、あれは。当たり前の結果だろう、あれは。
そんなことを言われれば、もう胸が詰まって苦しい。月夜が怪我しても仕方がなかったと言う結論になるから。


解釈が誤っていることを告げたくて首を横に振った月夜の頬に、電流が流れた。いつもは見えないとこにやるのに、顔だったことにまた落胆を覚える。今回は、それだけ氷室の気に触ったということだ。グーを使われたことはない。彼の手に痕が残るから。

次に訪れる傷みに構えて、身体を縮める。蹴りが得意な彼は、やり易いように月夜の身体を横に倒した。
さあ、地獄の始まりだ。この心地が、天国に変わるまで。今日は一体どれ程かかるだろう。


熱が収まった後、呆然と月夜を見下ろす氷室は、必ず涙を流すのだ。その頃には乾ききっている月夜の水分も、叫びも、全てそれで潤してしまうから都合が良い。

「……ッごめん、ごめんな、ツクヨ……!」

『……大丈夫、大丈夫だよタツヤ、』

そうして、彼より芯が通った声で月夜は肩に埋められた頭を右手で撫でるのだ。

『辛いことは、半分こしようね……』


 

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