ドタン!! 激しい音が聞こえた。まさかと思って入れ終えた空気のピンをボールから抜き、危なくないようにしてから倉庫を開ける。
見えたのは、上半身を起こそうとする修の姿だった。
『ぁんのバカ……!!』
倉庫の脇にあるベンチから修のボトルとタオル、ジャージを掴む。こんなことになるんじゃないかって思ってた。手に持ったものを落とさぬよう、人だかりへ走る。
『修!』
「げっ、凪紗、」
「凪紗先輩! 虹村キャプテンが! キャプテンがドーンって倒れてっ!!」
『ああハイハイ、大丈夫だよさつき落ち着いて。ただの風邪だから』
「えっ」
目を丸くするのは既に涙を浮かべるさつきだけでなく、しゃがんで虹村を介抱していた赤司と緑間もだった。
『バカ村。だから止めとけって言ったのに』
「……うっせ」
唇を尖らせるその口に開けたボトルを突っ込み無理矢理飲ませる。スポーツドリンクにしといて良かった。思った通り大量の汗をかいていて、顔も赤い。朝より熱が上がっているのは間違いなさそうだ。
ため息をつきながらフェイスタオルを首に巻き付ければ、修自身でボトルを側におき汗を拭う。
季節は冬が頭角を現す頃。監督もコーチもいない今日の練習に関する責任は3ヶ月前に主将に選ばれた修にあるのだが、私や赤司の独断でくぼやんに一任させた。勿論傍で喚く唯一のガラガラ声異論は無視して別の話を振る。
『転んだときに怪我は? 帰れる?』
「してねえ、ってか俺は帰んねぇよ!?」
『話にならん。』
無視してバッシュを脱がせ足首を回す。「……っ!! 何すんだ!?」の反応だけ、痛みによるものはなさそうだ。よし、とりあえず大丈夫そうなので保健室にも寄らないでおこう。
『ほら立って。「平気ッつってんだゲホッゴホッ、っ離『うるせぇなさっき私の言うこと聞かなかったんだから今聞けよ物理的に眠らせるぞァア゙!?』
ドン! と拳を作って床を叩けば、肩を揺らしたあとに渋々とジャージを羽織る修。
緑間と赤司に支えられベンチへフラフラ歩くその背中を見送った。ぐっちーがため息をつきながら言う。
「やっぱり無理だったな」
『本当だよもう。くぼやんどうにかしてあのバスケバカ』
「それこそ無理だろう」
それほどでもなかった修の風邪が昼頃から “気味” を通り越したとき、この3人で帰るよう促したのだけど聞き入れてくれなかったのだ。全くもって人騒がせな奴である。
他の人は練習に戻した後、くぼやんは最後に私にも指示をした。
「白幡、悪いがアイツ家まで送ってって」
『え、』
「あんなフラフラで安全に帰れるか不安だからな。白幡の仕事は俺たちで分けるし、最悪他の軍からマネージャーヘルプ呼べば済む。虹村を頼んだ」
『まじかよ……。…了解です。あ、さつき。荷物とってくる間あのバカ見張っといてくれる? 暴れるなら、さつきが栄養満点のお粥作って食べさせてから出させればいいよ』
「分かりました!」
というわけで隣にある部室棟に入り、部室の鍵を開けて修のロッカーもオープン。ごちゃごちゃしてないので助かった。カバンと制服を確認して、自分のも回収し体育館に戻る。
ちょうど、さつきがあの殺し文句を食らわせているとこだった。
「もー! どうしても行くなら私がお粥作ってきますのでそれ食べてから行ってください!」
「え゙、」
「ってわけで作ってきますね!」
「いやいい!! 大丈夫だ!! 具合悪くなってきたし大人しくしてっから!!」
「えー! じゃあやっぱり尚更食べた方が……」
『さつき。ただいま』
「あっ凪紗先輩! なんか具合悪くなってきたって……」
『よーしじゃー帰るかー。ごめんみんな、あと宜しく』
「……あー…済まねぇ」
「いえ、御大事に」
赤司が先に言った言葉に、他のみんなもそれに続く。私は修と自分のエナメルを肩にかけた右腕で手を振りながら、左手で修の体を支えつつ体育館を出た。
道中にある自分の家に一旦寄って荷物を置き、それから修の家へ。修のバックから鍵を拝借して開ければ、中から小さい子が2人出てくる。
「「お帰りなさい! あ、凪紗お姉ちゃんだ!」」
『ただいま。お兄ちゃん風邪引いちゃったからちょっとだけお邪魔するね?』
心配して修にしがみつく弟妹を心痛めながら離させ、2階の部屋へ。上に羽織っていたジャージだけ脱がせてそのままベッドへ促せば直ぐに寝息を立て始めてしまった。……てかコイツ、枕のピラピラタグ指でよじよじしてたな……。
修のお母さんとお父さんは共働きで、2人とも帰りが遅いという事情は知っている。そして何かあったときも宜しくと直々にお願いされた身だ。修にとってお節介だとしてもやらずにはいられない。
修の弟と妹はまだ小学生の低学年だ。『お兄ちゃんは大丈夫だから宿題をして待ってて!』と告げ、修の自転車を借りてコンビニとスーパーへ。
買い物を終えて帰るとちゃんと宿題をしていたので、ご褒美にゼリーがあると伝えればすごく喜んだ。可愛すぎか。
勝手だけど台所をお借りしてお粥を作る。バスケ部に入ってから料理をするようになったのだが、こんなに役立つとは。
いつもは修が温めたりしているチビーズのご飯を同じように用意してあげてから2階に上がる。扉を開けると、音で起こしてしまったのか修も目を開けた。顔はリンゴみたいに赤い。体温計を使うまでもないだろう。
「凪紗……?」
『はいまずは冷えピタの刑!』
「つっめた!?」
汗で湿った額にかかる前髪を払ってやり、冷えピタをとりあえず貼り付ける。
『はい、次。薬飲めないから食べたくなくても食えよ。あーんしてあげよか?』
「ふざけんな。」
頭を叩かれたので余力はあるようだ。律儀に「頂きます」と手を合わせてから、もぐもぐと粥を食べる修。ゼリーもあることを思い出して伝えれば、嬉しそうにちょっとだけ笑った。弟妹にそっくりだ。
『あのね、さっきチビーズの様子を聞きにお母さんから連絡来たんだけど、私も出ちゃった。ゴメンね』
「いや、……何か言われたか?」
鋭くなった視線には気づかないフリをして、私は真実だけを告げる。
『えっと、頼まれたからチビーズたちにはいつもより早いかもしれないけどご飯も食べさせちゃった。風呂も沸かしてあるから入らせちゃうわ』
「……それだけか?」
『……? うん』
「……まじか、…助かった」
相変わらずのガラガラ声で咳払いをしながらお粥を食べる修を、家族への連絡のために携帯を触りながら盗み見る。赤いし目がとろんとしているのは風邪の立派な証拠だ。
だけど、私には修がこの時期に風邪を引いたことにどうしてか違和感がある。それは別に珍しいとかいうだけじゃなく、風邪を引いた理由が俗に言う“過労”じゃないか、と思うからだ。
『……ねぇ。……最近なんかあった?』
近頃の修は、少し違っていた。
朝、いつもの時間に私が家のドアを開けてもいないことが増えたし、小さな忘れ物も多い気がする。授業中や授業の休み時間、部活の休憩時間だって携帯を開いていることも私は知っている。そしてその度に、眉を顰めて静かに息を吐くことを。
誰か他人がいるときは基本的にそんなの見せないように振る舞うけど、独りのときは決まって疲れた顔をする。
答えはイエスだろうと、ほぼ確信を持った私の質問に修は目を丸くした。そして、視線をちらりと窓の外に向けたあと残りのお粥を口にかき込んで、少しの咀嚼と共に飲み込む。
「……なンもねーよ。ちょっと疲れてただけだ」
風邪で辛いはずなのに、今さら無理矢理笑顔を作る。引き攣ってることに気づいてないんだろう。
─────嘘つき。
心ではじとりと詰りながらも、私は『そう』と返す。ああどうして、教えてくれないことがこんなに嫌なんだろう。それはとても自分勝手なものだと分かっているのに、胸が詰まったように苦しかった。
『修、一つさ頼みがあるんだけど』
だから、そうこれは。“今” 思えば、私のためのもので。
「何だよ」
器を貰う代わりに薬を渡し、それを飲んだ修と目を合わせる。
『……何かあったら、頼ってね』
「は?」
『いや、その、何でもいいよ!? 今日はチビーズの面倒一緒に見てほしいとか! 朝起こしてとか、何でも良いから!』
「…………」
『な、んでもいいから、……独りで、抱え込まないでよ……』
「……おう。分かった」
『ほんと? 約束してくれる?』
「ハイハイ。約束、な」
どちらともなく出した小指を、絡める。ちゃんと、どっちも笑顔だったのを、覚えている。
だけどやっぱりそれは、私贔屓だから。修が守らなくても何ら損は無いものだったのだ。
修が布団に潜るのを見守ってから時計を見る。まだ18時半だ。一旦下に降り、修が食べてないゼリーを冷蔵庫にしまってからもう1度修の部屋へ。どうやらもう夢の中に入ってしまったようで、話しかけても返事がない。
ベッドに両肘を乗せて、意味もなく寝顔を眺める。チビーズがお風呂から上がったら此処に来るよう言ってあって、そしたらガスを消す。だからそれまで、ちょっとだけ……。そうして私は意識を手放した。
───「ホント、何やってんだよオメーは」 | |
───「ホント、何やってんだよオメーは」 |
あの看病のときの夢で聞こえた気がした誰かの声が、今もする。私の髪を触る感覚が、すごく心地いい。
お父さんにしては少し高い声だけど、お母さんにしては声が小さいし、口が悪くても “お前” なんて言わない。誰だろう、絶対に知っているはずなのに、どうしても思い出せない。喉まで出かかっているのに…何でだろう。2度も夢に出てくるなんて、一体誰なんだろうか。
ぼわぼわする意識のなかで、必死に答えを探す。手を伸ばせば、この前と同じで結構呆気なくモノを掴んだ。……それは人の手で、やっぱり温かい。
何となく、だけど。いつも試合前に合わせるあの一瞬の温度に思えた。否、そう思いたかったのかもしれない。
『(……修、だったらいいな)』
声になっているのかそれとも完全に心の中の音なのか分からないけれど。どうせ夢だからと何処かで割りきった自分は、感情を表に出すことを厭わなかった。
「質悪過ぎんだっつーの」 | |
「質悪過ぎんだっつーの」 |
苦い舌打ちと共に、次に拾ったのは。前髪を上に上げられる感覚と、その直後に額に触れた何かで。右手が感じるものよりは温度が高い。
でもそれは一瞬で、点を打ったように熱が離れると同時に右手からも温もりが消える。それどころか、足音が聞こえて去っていく。
その瞬間、ぞっと背筋が冷えて、重たい体を思いきり起き上がらせた。
『───行かな…っ、……っあれ?』
そうして目に入ったのは、私とアレックスさんが借りている部屋で。他には誰もいない。左手で額を触る。熱いかどうかは分からなかった。
『夢か……。うっわ今の恥っず……、何手ぇ伸ばしてんだ』
宙に伸ばした右手をボスッと布団に落とす。黒歴史だ黒歴史。無かったことにしようと決めた時、ガチャリと扉が開いた。入ってきたのはリコだ。
「あら、起きたの。具合は?」
『大丈夫だけど…待って今何時!?』
「18時半よ」
『嘘!! ゆ、夕飯……!』
慌てて布団から出るけど、リコがそれを制した。どうやら、暇潰しに書いていたメニューリストが功をなし、火神くんたちが用意してくれているらしい。
選手の練習時間減らすなんて申し訳なさすぎる。あとでお詫びの品を作らなければ。
それからリコの命令で私はこのまま部屋に閉じ込められることになった。ご飯も持ってきてくれるらしい。そういえば味見で済ませてたからちゃんと食べるの久しぶりだ。これも熱中症の原因か、ダメダメだな私。
大人しくしろと再三注意されて私は頷くしかない。静かにリコが退室していくのを見送る。
しかし扉を閉める寸前で何かを思い出したようで、顔だけ廊下から出した。
「ああそうだ。一応伝えておくわね」
『ん?』
「ここに来るとき、彼とすれ違ったのよ」
『彼? まさか、まこっちが落書きの仕返しを……!』
「違うわよ! 虹村くん! たぶん暫く貴女の様子見ていたんだと思うから、お礼言っておきなさいよね」
『────……は、』
「じゃ。またあとで」
バタン。日常に溢れるはずのその音は、至極無情に心に響いた気がした。