リコとさつきや、短い休憩時間に来てくれるようになった火神くんとか桜井の手伝いもあるからなんとかやっていける仕事だ。因みに女子2人は握るだけの作業をするなら形は悪いが問題はない。余計なことをしないよう常に目を光らせていれば充分な戦力だ。
私のおにぎりにはカサ増しの為にみじん切りのキャベツが含んである。味付けは塩昆布だったり、梅干しだったりと比較的無難なものだ。同時に速効性のある果物系つまみも付け合わせるからおにぎりは1人2つずつ用意する。
9時55分。今日もよく頑張った。大皿を両手に1つずつ持ち、地下の階段を上る。上まで上がればさつきが長机に運ぶのを手伝ってくれるので、そのあと彼女と共にもう1往復ずつすればこの作業も終わりだ。
よっこいせ、と体育館に出て、私は度肝を抜かれた。見慣れない人がみんなの輪の中にいる。ていうか、
『……外国人だ……』
私の呟きはその名のごとく決して大きいものではなかったのだが。ふとこちらを見た彼女が私に向かって、にこやかに手をあげる。
「Hey! Come on ナギサ!」
『!?』
まさか話しかけられるとは思っておらず、その場で固まってしまう。しかも名前知られてるし。オイオイ、勘弁してくれ。私は英語なんてほとんど話せないんだよ。
近づくことはせずに愛想笑いを浮かべてお辞儀し、とりあえず仕事に戻る。
スミマセン、あとで氷室を通訳に挨拶させてください。
心の中で謝りながら机に大皿を置くと、体に影がかかった。ギョッとする私に、キューティクル溢れる金髪美女は、赤い眼鏡の奥でくつくつ笑う。
「ハハハ、そんなに身構えなくても喰ったりはしないさ」
日本語喋れるんかい!! 肩透かしを喰らった気分である。
外国人らしく、シェイクハンドを求めながらの挨拶が始まる。綺麗な翡翠色の瞳に私が映るのが少し恥ずかしかった。
「驚かしてすまないな。私はアレ……、アレ、ン───アレン・ガルシアだ。えっとー……まあ好きなように呼んでくれ」
『アレン、さん、……白幡凪紗と言います。1ヶ月ほど前からマネージャーになりました。宜しくお願い致します』
「おう、ヨロシクな、ナギサ!」
カラリと笑うアレンさんは豪傑な方で、次の大きな大会に合わせ、コーチの為にアメリカから帰国してきたそうだ。
そこまで話を聞いたところで、リコが近づいてきてグイグイとアレンさんの腕を引っ張りながら言う。
「ア、アレンさん。凪紗はまだ仕事があるから、お話はまたあとで! 凪紗、ごめん続きお願いね」
『ああ、はい』
さつきと共に再度下に降りつつ、彼女に明日の天気予報が雨だと聞く。ならば早めに洗濯物を済ませなければと、おやつを全て運び終えてもアレンさんと会話する暇なく洗濯物に身を費やした。
しかし、アレンさんは初対面の私によっぽど興味があるらしい。洗濯が終わる合間に頼まれていたビブスのカゴを持って体育館に入ると、リコを振り払って私の元に来た。
それから、みんなが練習を続ける横でアレンさんと5分くらいお話ししているなう。スポーツは何かやってたのか、とか。何学部なんだ、とか。挙げ句の果てには、恋人はいるのか、とか。流石に最後の質問には傍に寄ってきたリコの喝が入ったけれど。やはり女性は万国共通で恋ばなが好きなのかもしれない。
リコのハリセン一太刀を浴びた背中を擦りながら、漸く大人しくなったアレンさんが私をじっと見下ろした。「うーん」と唸ったアレンさんはガシッと私の肩を掴む。
「うむ! やっぱり我慢できない!! 恨むなら自分を恨めってんだヘタレチキン野郎!」
『は、』
突然暴言を吐いた、と、思いきや。みるみる近づくアレンさんの顔。─────え、は? いや、ちょ、待っ……!!!! 何とか離れようとするもガッチリ体を固定されて身動きが取れない。リコとさつきの慌てる声が聞こえて、これはもはや受け入れるしかないのかと腹を括った時だった。
ドンッ、と強い音が聞こえたかと思うと、目の前でアレンさんが跳んできたボールをキャッチする。どうやらさっきのはリバウンドの音だったらしい。……え、強すぎね?
「っあぶねぇな! ナギサに当たったらどうするんだよタツヤ!!」
アレンさんの言葉通りの方向を見れば、いつもと同じ綺麗な笑みで私たちの前に立つ。
「危ないのはそっちだろう “アレン” 。その癖をやめろと何回言ったら分かるんだい?」
だけど心なしか冷ややかな怒りも纏っているようだ。
「別にいいだろ減るもんじゃないし!」
「減るわよ!! 私もさつきもファーストキスあんたに持ってかれてるんだからね!!」
「あぁ、それは失敬。だが下手な男よりは上手いぞ?」
「そ、そんなのは関係ないでしょぉおお!!」
全く悪びれる様子もなく、ケラケラ笑いながら答えるアレンさん。これが大人の余裕ってやつか(違う)。デリカシーの欠片もない会話に、皆が練習の手を止めてしまった。ここの人たちはどうも集中力が足りないよな、ウン。
そして、2人の乙女の唇を奪ったアレンさんに若干の尊敬の眼差しを送ってみる。すればアレンさんはリコをあしらいながら、楽しそうに私に訊ねた。
「リコとサツキのをもらったからナギサのファーストキスも欲しかったなぁ。そういやまだ健在か?」
『は、』
ガコンッ。手から滑り落ちたビブスのカゴが、静寂のゴングだった。その問いにより、刹那脳を掠めたモノがあって。私は誤魔化すことも忘れ馬鹿みたいに停止する。
脳内で勝手に再生される、一番捨てられない記憶が音もなく私に魅せた。
橙に染まる視界。
降って沸いたように、突然視界を覆う黒。
手首を掴む鮮やかな虹色。
そして──────、
『─────ッ!!』
急激に上昇する体温と動悸を隠したくて、バッと咄嗟に唇を手の甲で覆い、後ずさる。キョトンとするリコとアレンさんの2人が、羞恥を掻き立てた。
バクバクと、心臓が脈打つ。うるさい。ウルサイ、煩い。今更。何でまた、今更……!
「ちょっと、凪紗?」
「おっ、その反応はまさか……!?」
『しっ、知らない!!!』
「Oh my God!! マジか!」
『だからっ、知らないですってばっ!!!』
このときの私はかなり動転していたから、その答えがもはや肯定であることに気づいていなかった。それどころか、あらゆるものから目を背けまくってて他の人たちの表情すらも確認できていない。
そして、あろうことか相手まで聞いてこようとするアレンさんにカゴの中のビブスを投げつける始末に発展したこの騒動を静めたのは、意外にも青峰だった。
「てかよー、別に今更隠すことじゃなくね?」
『はあ!? おま、おまえ何言って……!』
「だってお前花宮とヤッてるってこの前全員に言ってんだし、キスぐらい当たり前だろ」
シン、と静まる体育館。アレンさんは「ハナミヤ!? ハナミヤっていうのか!? くそやっぱりあの野郎ヘタレチキンじゃねぇか!!」と1人地団駄を踏んでいるが、生憎重要なのはそこじゃない。
『……ん? 今、な、なん、て、』
「だからお前もう花宮とデキてんだろ? キス以上のことしてんだから隠さなくて良いって言ってんだよ」
かったるそうに言ってボールをゴールに投げ入れる青峰に私は絶句した。
誰が、誰と、どうなってるって?
『何それ初耳』
「はあ!? いやだってお前この前のラウンドツーのときに……!」
『え、いやいや!? あの日はグラタン食いながら映画観て終電逃して泊めてもらった挙げ句朝ごはん作ってまこっちの寝顔に落書きしただけだよ!?』
「「「えええぇええ!?!?」」」
驚きの全員合唱。叫んでないのは赤司とアレンさん、原、木吉、ムラサキくらいで、他は声に出すなり双眸を見開いたりと大忙しである。
そして私も例に漏れず。
『えええ!? 何!? まさか皆そう思ってたの!? 嫌だよあんなゲス! どんなプレ「チェストォオオオ!!」っがはッ!』
ダッシュしてきた影に思いっきり頭を叩かれた。この野郎、くそ日向……! 二十歳にしてこの手の話題で顔色染めてンじゃねぇよ。私が言えたことじゃないって? 煩いそれとこれとは話が別だ!
ともかく、私とまこっちの日々の誠実な過ごし方とかをこれでもかというくらい説明しておく。あれ以降も何回かまこっちの家に行ってるけど、そんなふしだらなモノは一切ない! 例え見ていた映画にそれなりのシーンがあったって2人して真顔で送るんだから情緒も糞もない。
何とか誤解を解ききると、この前卒倒したメンバーが感涙に走った。何故そこまで。まこっちってそんなにダメなの? 実はあれでいてヒモなの? 性格は確かにゲスいけどさ、嫌なヤツではないんだよなぁ。
私とみんなとではまこっちという人物の認識に大きな壁があるようだけど、それを無理矢理こちらから崩すことはしなくてもいいか。
さて、一方でこのやり取りは恐れていたことを風解させていた。1人じゃ中々時間が経っても箱にしまえなかった記憶が片付いたのを、このときの私は気づいていない。
物理的な物の次に、一番の足枷となっている
日常的な手のぬくもりや細かな声すら、もう思い出せなくなってきてるのに。
チリと胸を焦がす、傷口の熱も。あの刹那のものは、未だ全て、覚えてるらしい。ああやって、リアルに、まるで昨日のことのように脳内で再現するのは容易い。
しかも、一番リアリティーに欠けるのに、映画やテレビで良く目にするシチュエーション故に引き金は至るところに転がっていて。問答無用で直ぐにそれを復活させる記憶を、どうやって、……どんな風に、忘れろと言うんだ。
──────どうでもいいことや、本当に失いたくないことは忘れるくせに。どうしてアイツは消えてくれないの。
中途半端な人間の機能には、つくづくうんざりさせられる。
もう、森山先輩の後ろ姿も笠松先輩の熱血漢も、宮地先輩の暴言も全て黒く染め上げた。まこっちと話すときの首の角度だって、何も思わなくなったのは、本当だ。私は彼に、アイツを重ねたりなんてもうしない。
ここまでやっとこれたんだから、これ以上かき乱さないでと。私はワタシを奈落の底へと突き落とす。
「帰って、くっから……、」
嘘つき。
「っ、悪ィ……」
謝るようなこと、するなよ。
突き落とされたワタシがそう言って悔しそうに唇を噛むのを、遠いところで見ていた。