午前4時。目が覚めて、ココが自宅じゃないことよりもソレを先に考えたのは事実だ。カレンダーを見なくてもやはり思い出した。今日は、7月10日。
だけどこれまでとは明らかに違う夏の日だ。だって全然身体が重くないし、憂鬱な気分もない。私の中でまたもまこっちの株が上がったことに思わず笑みが漏れた。さて、そんな彼のために朝御飯を作ってから家に帰って二度寝をしよう。
今日のサークルが午後からで心底助かった。自宅にて、二度寝を終え出掛ける準備も済ませた私は1人自室の机の前に座る。4年以上開けていなかった鍵つきの引き出し。中にあるのは、たった3つだけだ。
中2から卒業手前まで着けていた、赤く細いレザーの腕時計。学校や部活は未だしも私用な用事の時間にルーズだからと選ばれた、14歳のプレゼント。時間は午前だか午後だか分からないけれど、5時半近くで止まっている。
中1はくまのぬいぐるみで中2は腕時計で、着実に値段が上がってるような気さえしてたのに……中3の時は受験応援も兼ねての文房具セットだった。単語帳に赤シートセット、消しゴム、シャーペン鉛筆蛍光ペン。これまでの人生で一番幻滅したときだったと思う。完全に裏切られた。それらはほとんど使いきったので、ここに入っているのはシャーペンだ。
手前にあったその2つを一度強く握ってから、側にあるゴミ箱に静かに落とした。腕時計はかなりお気に入りだったけれど、もうつけることはできない。勿体ないななんて理由で取っておけば、それこそ甘えになる。断捨離って大事だよね。
そして、引き出しの一番奥に手を伸ばした。指を掠めるその感触は思ったより質が落ちていない。滑らせるように闇から引きずり出して、久しぶりにビビッドな虹を視界に捉えた。
これだけは、貰い物ではない、むしろ私から丁度7年前にアイツにあげたものだったのに。何の因果か、今はココにある。
このリストバンドは、一番見ていて心が痛くなる。あげたものを返されるっていうのは、つまりそういうことなんじゃないかって思うから。しかも人伝に回ってきたモノで、ますます突然の拒絶を感じ得るしかない。
なのにこんなのを守って事故ったこともあるんだから、どうしようもないなと苦笑する。
私の中にはリストバンドを厭うアイツなんて居なくて、思い出せるのはあげたときの笑顔ばっかりで。余計に被害妄想が増したものだ。
だからいつか。
─────いつか、帰ってきたときに、拳と共に返してやろうって。
またそうやって、誰かに言い訳するような理由を作って、私は4年前ココに仕舞い込んだのだ。言い訳する相手なんて誰もいないくせに。帰ってくるかどうかなんて、分からなかったくせに。
『バカだなぁ、ホント』
そんな風に愚痴って、同じように強く一度、片手で包み込む。見えなくなる鮮やかな色。隠しきれてないのは、赤と、紫と青だ。皮肉にもあの日の事故の責任を、抱いてしまっている彼らの色。
カラフルズから逃げていた2ヶ月間、あのなかに足りないものを何時だって探してた。無意識でやる癖に、黒がそこにないだけで私は周りにいた氷室たちの黒がとても悔しかった。こんなにたくさんある色なのにどうしてって、思ってた。最低だ。
中2になってカラフルズが入ってきたときも、このリストバンドに桃色と灰色が入ってないのを嘆いた気がするけれど、それをどうやって飲み込んだのか覚えてない。たぶん、アイツがなんか無駄に良いことを言って納得したんだろうけど、どうしてか思い出せない。
だけどその時と違って今ココにアイツはいないから、今の景色に足りないものをどうやって飲み込めばいいのか分からなかった。ガムのようなそれはどんどん無味無臭になって、不味くて、でも吐くのは躊躇われて。ずっと、あのときみたいに上手く飲み込める方法を知るのを待っていたけれど。
もうそれも終わりだ。美味しくないんだから、捨てればいい。包み紙は準備できた。ゴミ箱だってある。嚥下する必要なんて、何処にもない。
『全然使ってやれなくて、ごめんね』
手の甲を上にして、ゴミ箱の上で指をほどく。ちゃんと捨てられたかどうかは音でしか判断できないけれど、終着点なんて一つなんだから心配もいらないだろう。
その上に丁度捨てようとしていたレポート資料の紙をバサバサ落として、ビニール袋の口をきつく絞った。これは明後日のごみ収集の日に外に出すから、それまでは家の中の指定場所に置いておくことになる。
肩の荷が一気に降りた気がして、椅子の上で伸びをする。タイミングよく、インターホンが鳴った。下から、近所の4才児の名前を呼ぶ母の声が聞こえる。
立ち上がった私はクローゼットから出したくまのぬいぐるみに良い匂いのする消臭剤を軽くかけて腕に抱き、それから部活の荷物を肩に、ごみ袋をもう片手に取って部屋を出た。
****
地べたに這いつくばる愚民共を見下ろして、開口一番に笑顔を咲かせると、青みが増した。
『あれっ? どうしたのみんな』
「「「「「え゛、」」」」」
『まさか飲めない、なんてことはないよな?』
「い、いや、白幡チャンこれはちょっと、」
『君たちだけ特別メニューなんだよ。ブレンドにどんだけ時間かけたと思ってるんだ? あ?』
「の、飲めるさ! It's amazing!」
「こんなの人間が飲めるものじゃないア「劉! これ以上怒らすなよ!!」
「カントクのやつよりヒドイ……」
「あのー……、白幡さん、今日はどんなこだわりが……?」
『特選青汁に加えて、我らが偉大なトレーナー様厳選のプロテインをふんだんに使用しております』
「うふ(ハート)」
「「どうりで!!!」」
横に立つリコを丁寧に手のひらで紹介しながら会釈すれば、拳で床を叩く日向と伊月に介抱していた小金井と水戸部が合掌する。やはりトレーナーの味覚と才能、半端ネェ。
本日の練習時間は午後12時半から5時まで。4時間半しかないが2時間に一度長めの休憩時間を取る。約20分ないしのこの時間に懐で温めておいた特製のドリンクで見事に鉄槌を打った。始まった直後から気にしてないよ的な素振りと態度を徹底し、これ以外のドリンクも全て普通のものである。そして段々と疲労が溜まるにつれて大きくなる油断につけこんだ完璧なシナリオだ。
何も無く、しかも物理抜きで終わるわけないだろうがバカめ。
「リコのあのドリンクに青汁かぁ……。気が遠くなるな、火神」
「ッス……」
「何があっても絶対にお世話になりたくないですね」
「えげつねぇな……」
木吉の遠い目に、あからさまな怯えを見せる火神くんが頷く。隣の黒子も同意して、少し離れたところで福井先輩が同情しながら呟いた。うむ、中々の反応である。
満足気になる私に、日向が地面から目線で詫びた。
「き、昨日は本当にすまなかったって……」
『だからぁ、そのことはもう気にしてないってばぁ』
すかさず「いやいやいや!! 気にしてなかったらこんな殺人未遂犯さないよね!」と大変失礼なツッコミをする伊月にこちらも吠える。
『うるせぇなぁ中村と氷室見習って黙って飲めよ飲み干せよ!! ほらイッキイッキ!! イケメンでバスケしててしかもザルナンテチョーカッコイーヒュー』
「最後棒読みィ! やっぱり根に持ってるじゃん!」
「ワタシはこんなの無理アル。昨日あれだけ褒めてやったのにこんな仕打ちおかしいアル」
『おめぇのおつむのほうがおかしいわ。だいたいそのアイデンティティーは昨日捨ててきたんだろーが何拾い食いしてんだよ』
「捨ててないアル。“これはあくまで社交用スタイルです” 、アル」
こいつ……!! ふざけて謝罪もしない挙げ句女を弄んでやがった!!! 「お前はちょっと黙ってろ!」「怖いものなさすぎか!」とかなんとか中村と日向に無理矢理土下座させられてる劉を今すぐに殴りたい。
そんな殺意に身を任せ、んぐぐ…と力を拳に溜めていると───「凪紗〜」───原に呼ばれた。
『なに』
「ちょっと俺にまで殺気とかやめて。いや、そういえば凪紗に訊きたいことがあったんだよねん」
少し静かになった体育館。そこに、原の質問がやけに大きく響いた。
「ねぇ凪紗、……昨日ちゃんと寝れた?」
は、と声になっていない息のようなものが落ちる。相変わらず鬱陶しい前髪の裏で、こいつ一体どんな目をしてるんだろう。口はムカつくほど綺麗な三日月型だがな。
『まあぼちぼちだけど……何で?』
「だって朝帰りだったっしょ?」
「「「は!?!?!?」」」
ギョッとしたのは、周りの反応についてだ。原の質問にはむしろ全然驚かない。朝一どころか丁度今から8時間くらい前に送った画像からそう推測したんだろう。大当たりである。
『まあ。場所も場所だったから身体痛かったけど、帰ってから寝たし……』
「「「「ブッ!!!!」」」」
「ちょ、お前ら!! 吹くなよ!!」
「い、いやだって福井サン……!」
「凪紗! あんたっ……、あれだけ花宮はダメっていったのに! ちょっとこっち来なさい!!」
「そうです凪紗先輩!」
『は?』
「いや、ナギサ。俺とまず話そう。ここに座って」
『何で!?』
「あーらら、自分から誤解を招く言い方してんじゃんウケる」
『ウケねぇよ!』
「因みに、昨日はナニしてたの?」
『何って……、TSURUYAで映画借りに行って私が作ってやったグラタン食べながらそれ見て……、』
出前を取ろうとしたけどまこっちがグラタン食べたいって言うから、作る代わりに映画借りに行こうと条件をとりつけて2人で買い出し。
3本も見た映画の内容の1つは洋画ミステリーで、伏線ばっかで心が慌ただしくなる作品だった。これはまこっちが選んだやつ。私は日本のコメディと、予告で面白そうだったノンフィクションの洋画(泣けるやつ)をチョイスして、6時間くらいぶっ続けでテレビの前に並んでた。
気づいたら2人とも寝てて、起きた頃には終電もなく。仕方なくお泊まりさせてもらったのだ。まこっちの両親が出張中で助かったなぁ。
原の質問に答えるため昨日の出来事を反芻していると、急にザキが慌てた声を出して携帯を耳に当てた。
「も、もしもし……、……え、ああ、いるけど……。わ、分かったちょっと待て。───オイ白幡」
ズイ、とつき出されるザキの携帯。通話中の画面から視線をザキへあげると、「花宮が、代われって……」ととんでも発言。あー最悪だ。
『も、もしもーし……』
《てめぇ……凪紗……》
『おはようございまーす。今起きたんですかー? お寝坊さんですねぇ』
《……どう落とし前つけんだ?》
『あー、鏡見ちゃった? でもほら、愛だよ愛』
《残念なことに今日がお前の命日だな》
『とりあえず会話のキャッチボールから始めようかダーリン?』