それを踏まえて、うちの部は最後に1時間ほど全体で自主練の時間を取る。この時間は用事がある人なら帰っても良くて、それはマネージャーも例外ではない。朝練とは違った、強制でないものだ。
珍しく自主練に入る前の休憩時間に地下へ向かう宮地先輩と目があって、あの捨て台詞がガチだったと気づいた。
私もロッカーの中にある2本目の水筒を取りに行く風を装い、一度地下室へ降りる。とりあえず家族から急な用事が入ったと言って帰ろうと思う。
計画通りに数時間ぶりに携帯を手に取ると、LEDのランプが点滅していた。1件のメッセージ。友達登録をまだしていなかった送り主の名は、宮地清志。マジか。
≪支度終わったら門に集合≫
既読の通知をつけてしまったので、私はスタンプで返事をする。馴れ馴れしいやつだと思われてしまえばいいのに、なんて最低なことを考える私に、先輩は何をしようというのだろう。
ため息を一つついて、一旦上に戻る。
『さつき、リコ、ごめん。なんか従兄弟が急に家に来たみたいで、家族でご飯食べに行くらしいから先帰るね』
「あ、そう。分かったわ。後片付けは任せて!」
『ありがとう。ミーティングで何かあったら教えてくれる?』
「了解です!」
もう一度ごめんね、と頭を下げると、話を聞いていたらしい高男が「えーっ」と声をあげた。
「凪紗サンも帰っちゃうんですか? 宮地サンも今日は用事があるっていうし、帰りの電車1人じゃーん」
『何言ってんの普通に青峰とかもいるじゃん。済みません、お先に失礼します』
申し訳程度に会釈して、地下へ戻る。着替え終えて荷物を持ちながら廊下をまた歩いたときには男子更衣室の電気は消えていて、少し早歩きを心掛けた。
体育館を出るときにもう一度みんなに挨拶して、体育館にもお礼を言う。この動作も、一度は体から消え失せたはずなのにまた習慣になってしまった。慣れって恐ろしい。
体育館から門までは10分と掛からない道を7分で賄うと、塀の辺りに何やら女子が控えている。いつも駅までは大体みんなで帰るからあんまり気にしなかったけど出待ちもいたんだなと呑気に考えながら近づいて見えた蜂蜜色の頭。(話しかけちゃう?)(誰か待ってるのかな)(でも今しか無くない?)というアイコンタクトは女子だから解るものなのか。当の本人は言わずもがな私の目的格なわけですがどこ吹く風でございます。
うわ、近寄りたくねぇ。てかあれみたい。ほら、蛍光灯に集る夜のむ……いえ、なんでもありません。
集合場所変えてもらおうかな。と思いながら足を止めて見ていると、如何せん相手は190超えです。私を目敏く見つけるとギンッと睨んできた。そして唸るスマホ。
≪何してんだよ早く来い≫
≪いやいや! その中を突っ切れと!? え、先輩私が嫌がらせ受けてたの知りましたよね? 今日見てましたよね?≫
≪お前なら平気。良いから早くしろ踏むぞ≫
≪火の無いとこに煙は立ちません。集合場所を変えましょう≫
≪は? こんだけ待っといて今更1人で歩き辛ぇんだよ≫
≪いや、だって「っあ ゙ー!いつまで待たせんだよ焼くぞ!!」『ひぃ!?』
いつの間に近づかれていたのだろう。スマホを叩いていた腕をぐいっと引っ張られて、じりじりと臨戦体制だった女子の中をずかずかと割って通る。
ゥオオオイ何してくれてんだ!! スマホで会話した意味!! って言おうと口を開けば振り返ってまたギンッと睨まれる。私は蛙か。
口を結ばなければこのまま井戸のなかに落とされそうなので黙るしかない。だってこれ以上世界を狭くするわけにいかないでしょうに。
そういうわけでずっと無言で先輩の少し後ろを歩いたまま駅に着いたが、改札は通らずに反対側の出口からまた大通りへ出る。そこから徒歩3分のファミレスに入り、宮地先輩はウェイトレスにピースサインをした。
そのまま4人が座れるソファー席に誘導され、向かい合わせになる。そして「ごゆっくりどうぞ」と頭を下げたお姉さんを呆然と見送った。え、何これ、
『……あれ? 何これ』
「何これってメニューに決まってんだろ。好きなもん選べって」
宮地先輩の手でずいっとこちら向きに置かれた薄い冊子。グランドメニューと書かれたその背景にはサラダやステーキがバランス良く美味しそうに並ぶ。
『いや、え、何これ』
「何回言わせんだよ! さっさとしろ挽くぞ!」
バンっと机を叩く先輩。すぐに物に力を奮うのはやめましょうよってか、もしかしなくてもここで夕飯?? ってことは待って。これから始まるのは今日のお説教? あんなところで帰してんじゃねぇ! ってこと? 確かに、あそこで帰した為にさつきとリコへの謝罪が貰えなかったからそこを突かれると痛いけれど……、でもなぁ。
いやいや、それより今日に限って大学内の本屋で文具のついでにお試し版でまんまと釣られてマンガ買っちゃったので……。
『私、恥ずかしながら今日そんな手持ちが……』
「あー……、いや、今日は財布出さなくていい」
『はい?』
「っ、だから! 無理矢理連れてきたしっ、奢ってやるって言ってんだよ!」
『おご、───えぇぇ!?』
まこっちが東大だったりバスケ部だったりって事実を知ったときよりも、日向たちが1軍だったときよりも驚いている。
この人、ケチそうなのに、……奢る、だと? 何だよドルオタなんだろ残念なんだろ? こんなのただのイケメンじゃん! 童顔万歳なんですけど!
というか無理矢理だったことは自覚済みなのか。赤司とは違うさすが先輩! ───じゃなくて!
『でも、いや、なんで? 私何もしてな、「うっせぇな黙って奢られてろ刺すぞ!!」ええぇ……』
先輩、顔真っ赤なんですけど。そっぽを向いて大きな手で隠しているつもりなのかもしれないけど、耳とか頬とか、見えてますよ。可愛すぎかよ何だこの人。
てか奢るだけで照れるのか、不思議。胸張ってればいいのに。
たぶん奢られないと帰れないシステムのようなので大人しく『良くわかりませんが……、じゃあ頂きます』とメニューを開く。まあ貰えるものは貰っとけってのが家の家訓なもんで。スミマセン。
久しぶりのファミレスメニューを視線でなぞりながら考える。果たして彼の目的は何なんだろう。ご飯が来て、そのまま会話もなく食べるなんて有り得ないっつーかお互いにキツイだろそれ。
あ、オムライスうまそー。このオムライス頼むだけで同時にビーフシチューも楽しめるのか。ソースだけじゃなくて普通にシチューの具材も入ってるし、これは一石二鳥の品だ。これにしよ。
「決まったか?」
『あ、はい。オムライスにします!』
「げ、それも美味そうだな。やべぇ悩んできた。クソ、何でここカキフライ無ェんだよ! 一発で決められねぇ! あー、俺はとんかつのつもりだったのに……」
何だろう。急に先輩に親近感。カキフライ好きなのか。しかも私の指したビーフシチューがけのオムライスを見て唸ってる。同じ経験あるわ。その気持ち分かります。他人のって美味しそうに見えますよね。だって私も先輩の拳の下のそれすげぇ食べたくなってきました。これはもう、アレしかないでしょ。
『先輩、とんかつ頼んでください』
「あ?」
『私もとんかつ食べたくなりました。だから半分こしましょう。これで万事解決!! どうですか!?』
「お前……。────そうするしかねぇだろそんなの!」
先輩が呼び鈴ボタンを押せば、私たちの心は繋がった。この感じやノリさえもアイツと似ていて、確実に私の瘡蓋を抉る。
けれど、それは同時に付き合いやすさも同じだということも意味している。私がアイツと仲良かったのは、波長や趣味や感性が見事にフィーリングしたから。お互いに同性の友達もいたけれど、それでも隣を求め合ったのは居心地のよさを感じていたからだと思う。
宮地先輩の切り返しや行動は、本当に彼と重なった。重ねて、しまった。
理性は拒もうとするけれど、甘ったれた自分がこの頃には既に音をあげていて、あの感覚を取り戻そうと動いていた。
精神は、自分のことを貫くのが如何せん下手くそだ。弱い。身体と心の影響を強く受けて、直ぐに彼らの意見に流される。どんなに一部の精神が頑張っても、周りが感じる歓喜や苦楽に言いくるめられて、そうして身を委ねてしまうのだ。
「おいお前グリンピース残してんじゃねぇよ」
『そういう先輩こそニンジンよけてるじゃないですか』
だから時間も忘れて。
「は?違うから。お前のオムライスだから残してやってんだよ。わざとだから」
『じゃあニンジンいらないんで肉とたまご残してくださいよ!』
谷になった傷を埋めるように、
そしてそれが開いたりしないように、
そしてそれが開いたりしないように、
「嫌に決まってんだろ埋めるぞグリンピース」
『あああ!? ちょっと何やって……!! あーもー! せっかく端によけたのにぃぃ!!』
ただ、
ただただ、
私は先輩の髪色だけを視界から退けて浸る。
ただただ、
私は先輩の髪色だけを視界から退けて浸る。
そんな事実に気づかずに、先輩はまたぶっきらぼうに言うのだ。
「今日はその、助かった。俺だけだったらたぶんあんなに丸く収まんねぇし、桃井や相田を傷つけてたかもしれねぇ」
先輩が食べ終わったお皿に視線を落としながら言うのは、目を合わせ難い私の為なんかじゃ決してないのに。都合いい解釈で、何かを補って。
「お前がいて、良かった、と思う、から……。……だからこれはその礼だ」
支払いを本当に1人で終わらせてしまって困る私の頭を撫でる、その仕草が。アイツの照れ隠しで、精一杯のお礼の形だなんて、貴方は知らないのに。
「サンキューな、白幡」
勝手に嬉しくなって、勝手に傷ついて、勝手に切なくなってしまうのは、彼の何気ない行動を利用しているのと同じで。
「けどお前、アレと同じことはもう言うんじゃねぞ。 “新人の私なら未だしも” ってふざてんのか殴るぞ。良くねぇよ全然! ……何黙ってんだ返事しろ!」
似たような言葉を知っている脳は勝手に余計な棚を引き開けて、その中にある音を失いかけた台詞だけをうっとり撫で上げる。
分かっているのに揺らぐ心を、鎖でがんじがらめにしたくなる。
そんな必要ない、と言えないのは何処かで自分を可愛がってるからだ。どうしようもない、腐った自分を。
今さら、彼女たちの嫌がらせに傷つく感覚なんて持ってないのに。そんなのどうってことないのに。
ああ、拝啓、宮地先輩。
『……私は、卑怯なんですよ』
大きな背中を見ながら、その科白を呟きにしたのは聞いてもらいたくないからだ。届かないんじゃない、届けたくなかった。
今更になって、嘘をついて早めに帰ってきたのを後悔している。
どこまでも卑怯な人間。残念なのは、私の方だ。