───「俺はナギサが帝光でマネージャーをやっていたこと、最初から知ってたよ」───
『え、』
「君と初めて会ったとき、何処かで見たことがある顔だと思った。考えているうちに、アツシたちを調べたときの画像にシュウと載ってた子だって思い出して、ナギサが名乗る前に気づいたよ。 “噂の白幡凪紗だ!” って」
初対面の時、私はたぶん必死で氷室とアイツの違いを探していた。この日はいつもより早い段階で見つけられたけれど、それでも氷室が私のことを考えている間はコチラも必死だったようだ。だってその時の氷室の表情が思い出せないから。
氷室が楽しそうに笑う反面、私は驚きしかなかった。私が載った画像がネットに出回ってることもだけど、それより “噂の” って言葉が気になる。私の名前が書いてある記事は恐らくないはずだ。許可をした覚えがないから。
じゃあなんで氷室は名前を知ってたの? 顔だけなら未だしも、名前は明らかにおかしい。
悶々と思考する私に、このタイミングでケーキが来る。勿論手をつける余裕はない。
『それどういうこと?』
恐る恐る氷室を見れば、彼は一層笑みを深める。それは慈しむって言葉がつくような、そんなもので、私は口を閉じて返事を待った。
「ネットでシュウの隣に映るナギサを見たときにも同じことを思ったんだよ。だって君の名前は、シュウがよく溢していたから」
どくりと、心臓が大きく脈打った。全身の血流が加速して、指先が熱をもつ。思わず冷たいグラスに手を伸ばした。
名前は、シュウが溢していたから……? 何それ。つまり────。自分で答えを出すより先に氷室がまた喋り出す。
「シュウは中学のことは名前を伏せて話すんだよ。でも熱くなると時々ボロが出てね。いつも言っちゃうんだ。あのときもナギサが、それをナギサが、って」
やめてよ。記憶の中にかろうじて残っていたもので、脳が勝手に音声変換をする。だからそういうスペックは要らないんだってば。
ぞわりと背筋を駆け巡った何かが、このまま固めていた氷塊を刺激して解かす。これが溶ければ、目から零れるから嫌なんだ。じわりと熱くなる目を隠す。止まれ、止まれ。
「ねぇ、ナギサ。君がシュウとどういう風に別れたのかは知らない。だけど、シュウは後悔してるように見えたんだ。君の話をするときは左手を触る癖だってあった。きっとナギサはシュウにとって『やめて』
店の雰囲気を崩さないためにも、小声を張って被せた。この声が震えるのを隠してしゃべる。息が熱い。
『やめて、それ以上、言わないで……』
「ナギサ、」
『修は、私のことなんか忘れてるって、そう思って来たんだよ! そんなもの聞いたって、私は進めなくなるだけだ……っ』
何一つ、何一つ無いのだ。死んだわけじゃなくて、ただ遠くに行ってしまっただけなのに。彼がまだ確かに存在していることを実感できるものが、何一つなかった。手元にあるものは全部過去のもので、それは思い出でしかない。
携帯番号だってあの頃と変わってない。その機種だって国際電話対応にしてきた。いつか、いつか掛かってくるんじゃないかって。だって私は訊きたいことがたくさんある。言いたいことだってたくさんあるの。電話や手紙があれば、まだ繋ぎ止められていたかもしれない。同じ空の下にいるんだとか、そんな似合わない科白を呟く日があったかもしれない。
なのに、何もないまま4年間が過ぎてしまった。
本当は1度だけ、高校1年生の初めに仲良かった友人らを見ようとバスケ部の試合を観戦しに行った。その時に気付いてしまったんだ。 “ココにいられない” って。アイツがもう居ないことをただただ実感するしか無いこの場所には、もういられないって。
それから大切な記憶は、 “アイツの存在を確かめるもの” から “アイツの存在を思い出してしまうもの” にいつの間にかコンバートされていた。だから私は慌てて遠ざけた。思い出は、奥に仕舞われるにつれどんどん削られて鋭利な刃物に変わる。机の鍵をかけた引き出しはここ3年くらい開けていない。
突然、顔を覆っていた私の手を氷室が剥がした。明るくなった視界にビックリしていれば、氷室が真剣な顔で覗き込む。
「じゃあどうしてナギサはオレンジジュースを拒まないんだ?」
ああ、やっぱり彼は知っていたのだ。私の弱さを。そう悟った。呆然と氷室の綺麗な顔を見上げることしか出来ない。
傷つくのを怖れて遠ざけてきたものもあれば、本当に忘れてしまうのを恐がる臆病な自分がたった1つだけ残しておいたもの。甘酸っぱいそれは、今度は “アイツが居たこと” を確かに自覚させるものになった。
我ながら物凄く面倒くさい質だと思うけれど、それぐらい色んな感情が入り混じっていた。何が正解で、何が本音なのかも分からぬまま、すべてをうやむやにする形で、ただの自己満足に過ぎないこの身勝手で浅はかで愚かな縛りで、私はどうにか哀しみを忘れたかった。
『…………ッ、』
「やっぱり、ナギサは似ているね。シュウに」
“2人とも、互いの存在を引き摺るのに必死だ” って笑われた。全然おかしくないよ。と、ボロボロと氷室の伸ばしてきた手首に涙を落とす。
何一つ解決してないのに、肩の力が抜けてしまった。嗚咽を堪えて、氷室が私の頬に添える手に自分の手を重ねて瞼を下ろす。
「苦しかったかい?」
そんな優しい声音で問われれば、弱い私は縋るしかないのだ。頷く代わりに手に力を加えれば、氷室は「頑張ったね」と頭を撫でてくれた。その感覚は彼のソレと似ていて、ますます涙腺は崩壊していく。
氷室はカフェに入るべきじゃなかったと苦笑いして、私が落ち着くまでずっと手を握ってくれた。何だこのイケメン。もう中身がイケメン過ぎて辛い。柄にもなく彼女が心底羨ましいわ。
数分かけて涙腺に防波堤を築き上げた私は、『ごめん』と謝るしかなかった。
「別に謝ることじゃないだろう。ほら、ケーキ全然食べてないじゃないか。あ、俺も一口貰っていいかい?」
『いいよ。氷室のお金だから』
「大人しく奢られるところがナギサだよね」
そんな返しに2人で笑って、どこぞのカップルみたいに1つのケーキをつつきあう。いや、後から考えてみれば凄い光景だった。翌日の私と氷室が付き合ってるんじゃねスクープの元凶は正しくこれなのだ。でも確かに今日の氷室には惚れるしかなかった。
結局ちゃっかりご馳走になった私は氷室とカフェを出る。なんと氷室は講義をおじゃんにしてまで私に付き合ってくれたらしい。やりすぎだ。
『何で言わなかったのさ!』
「講義よりナギサの方が大事だからね」
『そう言うのは彼女に言えってば!!』
こっちの責任感による怒りを余所に、氷室はこれまた楽しそうに笑う。何が可笑しいんだ。
呆れる私は時計を確認する。あと少しで4限が始まるから、そろそろ行かなくては。
行く先の方角を確認していると、氷室が私の手を掴んだ。
「で、ナギサはこれからどうするの?」
『は?』
「俺の話を聞いて、少しは変わったんじゃないかなと思って。俺の携帯にはシュウのアドレスだってあるし、なんなら今電話する?」
『な、しないよバカ!!!』
「別に良いと思うけどなぁ」
『良くない! それに、……ちょっと考えたい。頭整理しないと……』
「そっか。今日は色々ごめんね」
『いや、別に……。でもなんで氷室はこの話をしたの? 私が嫌がってること知ってたでしょ』
「だからゴメンねって謝るんだよ。ただ、伝えなくちゃって思った。君が今傷ついても仕方ないって思うほどに、……───後戻りできなくなる前に」
『……? 後戻り?』
「いや、そこは気にしないで。こっちの話さ。じゃあ俺は次こっちの棟だから。またね、ナギサ」
『あ、うん』
いつもの氷室スマイルを見せるくせに、珍しく先に踵を返してしまった氷室。平生は私が先に行くよう促して最後まで見送ってくれるんだけど。……まぁいっか。特に意味はないよね。
さて、考えなければ。今日の話で浮き上がってしまったこの心と思い出への対処法を。氷室の言葉を嘘にするための方法を。バスケ部とどう決着をつけるかを。
既に疲弊した私は、きっともう待つことなんて出来ないんだから。