「今日こそ逃がさないよ、ナギサ」
『まさかの壁ドン』
ここ2週間、そこそこ上手くできていた。講義開始の3分前。後ろから2列目の最も扉側。それがベストだ。
彼らは既に着席していてその周りはキラーで埋め尽くされている。席は出来るだけ詰めて座るのが暗黙の了解だし、待ち伏せされることもない。講義が終わったあとは即座に席を立って、駆け足で降り、奴らに目撃される前に女子トイレに駆け込んだり近くの棟の女子トイレに駆け込んだりする。
そんなこんなで、充実なぼっちライフを満喫してます目から汗が出るくらいのね!
だけど、やっぱり人生はそう甘くはないらしい。
斜め45度上にある美顔はここまでのクラスになるともう視界の暴力だ。どうしてこうなった。
何時も通りに女子トイレに籠ったら、「えっと、白幡凪紗さんですか?」と名も知らない女の子たちに話しかけられ舞い上がったのも束の間。次の瞬間には不意を突かれてトイレから引きずり出され、そこにあるエレヤンスマイルの「ありがとう君たち。今度なにかお礼をさせてもらうよ」という賄賂的な発言の下でガッチリ私の腕はホールドされていた。
そしてまたもや引きずられ、講義が始まって人気の無くなった休憩所でまさかの壁ドンに遭遇してるなう。
「君は本当にすばしっこいな。ジャパニーズはみんな忍者の末裔だって言うけど、本当かい?」
『なわけ』
「それじゃあ、最近俺たちを避ける理由を教えてくれる?」
『だが断───ひっ、』
ドンッと、視界の端でパーがグーになって壁を鳴らす。怖っ!! こいつもしかしてヤンデレの気があるんじゃないか!? 誰か助けて。
だらだらと流れる冷や汗。とりあえず視線だけ逃がせばますます近づく氷室の顔に息をするのも躊躇われた。
「フフ。いつもは目をみてくれるのに、今日は俯いてばかりだねナギサ」
『っ、近いんだよこのフェロモン野郎!!』
「照れてるのかい?」
『鳩尾に入れっぞ』
「そうならないように抱き締めた方が早いかな」
『お前誰だよ!!!』
何そのプレイボーイ発言! 非常に対応に困るんですけど!! とか叫んでる間にも、氷室は一層背を曲げる。必然的に顔の距離が近くなって、目眩がした。待って本当に何これ死ぬの私死ぬのか。
「こうでもしなきゃ、逃げられそうだからね」
『に、逃げないから離れて……っ』
「本当に逃げない? 話があるんだけど、最後まで聞いてくれる?」
『逃げない!』
「あぁよかった。話は虹村修造についてなんだけど」
『逃げたいィんむぐ!!!!』
「フフフ、講義中だよ静かにね」
こいつゥゥッ!!!! 私にこういう免疫が無いのを知ってか知らずか手で口を覆われて耳元で囁かれる。私は乙ゲーを始めたつもりはないし初っ端からこんなルートだったらゲーム叩き割るわ。
つーか本当にバスケ部はズカズカと人の心の闇に土足で入ってきおる。お前ら全員広苑辞で “遠慮” と “思いやり” を調べてこいよ。鏡見たって分かんないものがそこにあるから。
「ちゃんと、話さなきゃいけないと思うんだ」
『
「いや、話すべきだ。きっとナギサの為になる。アイスだってオレンジジュースだって奢るから、聞いてくれ」
どうして、そんな顔で頼むんだろう。私とアイツの話なんて、あんたにはどうでもいいはずでしょう。なのに何で氷室は今にも泣きそうなんだよ。わけ解んないよ。
今更何を聞かされるというの。もう私は待ちくたびれた。待っててって言われた訳じゃないのに、そう思っては独りで傷つく痛い子なんだよ。そんな子に話す咄なんて無いでしょう。それに聞いたところでどうしろって言うの。また被害妄想に浸れと? そんなのってあんまりだ。
混乱に困惑を絡めて、それでも嫌だと首を振れないのは私の落ち度だ。知りたいって叫ぶ深奥の声が理性ではなく本能を支配する。
葛藤に大人しくなった私の口から離した手で今度は私のソレを取って、氷室は歩き出した。
大学を出た先にあるお洒落なカフェ。この時間はケーキセットがお得だと売りにしているだけあって女性客が多い。なのにケーキ目当てに来たはずの彼女たちが二度見する相手は私を人目につき難い席に誘導して、優しく笑うのだ。
「ほら。ケーキ選んで」
『……いらない』
「それは寂しいなあ」
『ゔ……』
シュンと睚を下げる彼は急に仔犬っぽくなるからズルい。あの時の私の脅し文句にノっているのかなんて思えば反抗虚しく、指はフォンダンショコラを指すから私も大概コイツに弱い。
店員さんはすぐにファーストドリンクを持ってきてくれた。薄切りのオレンジが縁に刺さった果肉入りのオレンジジュースとアイスコーヒーが私たちの前に並ぶ。
ひんやりと涼しいグラスは既に汗をかいていて、一口含むと懐かしい味が何時も通りに広がった。この飲み物だって私が弱い証拠だということを、目の前の彼は知っているのだろうか。
「前にもちらっと話したけど、俺は日本に来るまでロスにいたんだ。両親はどちらも日本人だけど、彼らの仕事でね。産まれたのも向こうで、そこでストリートバスケを学んだんだよ」
『え、日本に居た時期の方が少ないの?』
「そうなるね。親の計らいで家では日本語を話すってルールがあったから、転校の時もそれほど困らなかったけど」
見た目これでバスケの1軍で英語ペラペラってどんなHSK。世界は往々にして不平等である。
「それで、俺が高校1年生のときに初めてシュウにあったんだ」
普通にぶっ混んでくるから吹きそうになったオレンジジュースを何とか飲み込んだ。噎せそう。胸部を叩いて涙目になる私に、氷室は一瞬驚いてから苦笑いをしてお手拭きを差し出してくれる。優男かよ。
ああ、とうとうこの話になるのか。展開早いよ巻きすぎだよ。口元をお手拭きで押さえながらげんなりするも、氷室の回想は止まらない。
「彼は、お父さんの治療でアメリカに来たばかりだった。近所の子供たちとストバスのコートでバスケをしていてね、ダンクやダブルクラッチで彼らを喜ばせてた」
想像できてしまった。日本人にしてはおおよそ大きい背丈で、リングにぶら下がったりその身長からは想像しがたい身軽さでボールを放ったり。きっと着地するときには口角をあげて、大人げないどや顔を噛ましているんだろう。……アイツは、何時だって楽しそうだった。
「そしたら俺らより年下の3人組の男がシュウに近づいて、ちょっかいをかけたんだ。そう言うときに使われる言葉って、知識の問題上日本人は聞き取り辛い。加えてシュウはアメリカに来たその日だったから普通の会話すら儘ならない状態だった。だから何時の間にやら奴らの賭けバスケに乗ってしまったんだ」
『バカだ……』
そもそも、英会話をこなせるスペックだって持っていないのは知っている。……だからこそ、私は油断をしてしまったのだけど。すぐカッとなってしまうソイツは言葉よりも拳で語りたい派で、だからそのあとの展開は予想できた。
「実はここまでの話はシュウと遊んでいた子から聞いた話で、俺は彼らがゲームを始めた時くらいにたまたま通りかかったんだ。殴りあいにならなかったから俺はそれを傍観してたんだけど」
アメリカの、本場のバスケがどれ程すごいのか分からない。勿論プロの試合はテレビで見たことある。だからあくまで知らないのはそこら辺にいる人の平均値だ。ストリートバスケのコートなんてあまり多くない日本と比べればその習慣の違いは一目瞭然で、小さいときから誰もが1度は触れてきたのだろう。
だけど、私にはアイツが負ける姿なんて考えられなかった。氷室が数秒後に説明する通りの動きを、私の思考の中でやって魅せたアイツは勝ち誇ったように笑う。
「片言の英語で、体格だって勝ってはいないのに、シュウは完璧に相手を出し抜いてしまった。高速でキレのあるドライブに、奴らは動くどころか反応すらできてなかった」
なんで、私が嬉しくなるんだろう。バカなのは私だ。アイツがバスケで笑顔になる度に満たされる心が音を立てる。
「だけどまあ、プライドを傷つけられた彼らはついに手を出しそうになってね。それで紆余曲折があって、俺はシュウと知り合った。向こうにいる時は帝光の出身だって言ってくれなかったけど、日本に来てアツシたちの存在を知って調べたらシュウのことも出てきてね。彼があれほどの技量を持っていたことも、そしてそれを床に置いてまでして家族の為に異国に来たことも知ったんだ」
『…………氷室は、何が言いたいの』
努めて冷静に訊いた。怒りはないけど、焦らされているのが少しだけ棘になり始めていたから、彼を傷つけたりしないように頑張った。
氷室は穏やかな笑みで答える。
「俺はナギサが帝光でマネージャーをやっていたこと、最初から知ってたよ」