間に合わない、と分かればさっきの決意はどこへやら。一気に行く気が失せていく。だけどその一方で、“会いたい”という欲がなぜか上昇した。どうしてだろう。行ったって姿を見れることすら怪しいと分かっていて、話もせずに会う、というか見るだけじゃ、私は尚更バカみたいにかってに傷付くだけだ。遠く、小さくなっていくその背中をまた眺めているだけだなんて、耐えられないに決まってるのに。
もう誰もがダメだと悟ったこの空間でリストバンドをギュッと握る、その時だった。
「みんなして何諦めた顔してるんだ!!」
『伊月……、』
「この様子だと俺しか聞いてないのか?───まあいいや。実は氷室からの伝言がある。十三時半くらいに到着できるならそれでいいから、何がなんでもナギサを連れて来て、ってね」
「どういう意味アルか?」
「よく分かんないけど、とにかく話す時間とか無くてもとりあえず来てほしいってことじゃないか?」
「…………ま、ああ見えて常に色々考えているヤツだからな、氷室は。んじゃ白幡、行ってこいよ」
日向の言葉に、体が固まる。……あれ、何でだろう。身体が、動かない。
頭の中では、話さないまま遠ざかる後ろ姿を見ている視界が映されていた。周りの景色は空港じゃなく、数年前の“あの日”だ。空の色も、木も、校舎もある。だけど、アイツだけは。着ているものは帝光の制服ではなくて、心なしか身長も伸びていて。直ぐに、合宿のとき無意識にインプットしていた情報に上書きされているんだと自覚した。何だそれ、仕事早いなオイ。
その映像は、ある程度遠ざかったら私の視界が近づいて、止まって、また見送って、近づいて、そんな繰り返しだ。まるで、追い付けないと言われているような感じがする。
そんなときに“あ、ダメだ”と、突然心が足を踏み出すのを止めた。だって、あの背中を見たら、たぶんとんでもないことを口走ってしまう。
「白幡、どうした?」
黙り込んで動かない私に中村が話しかけてくれるけど何も反応できない。新たに知ってしまった嫌な可能性に、私は動けなかった。
『……ごめん、やっぱ、……無理だ』
「は?」
『話せないなら……見送るだけに、なるんなら、私行けない……』
「今更何言ってるアルか」
皆の視線が痛い。勝手に鋭利な刃物に仕上げている私は、とんだ被害妄想者だとも思う。
リストバンドを見つけてくれて、こうして背中を押してくれることはとても嬉しい。彼らのその力を糧にできないことを申し訳なく思うくらいだ。だからこそ私は、今気づいた“行けない”理由を話すべきなんだろう。
これから口にするのは、……とても、良くない心だ。
『……っ、だって、……言えないよ、』
何も話さずに背中だけを見送ったりした場合。たった一言しか言えないような状況下で、何よりも先に口に出してしまいそうな気持ちがある。
それは“あの日”も思ったことで、あのときはその、……き、キスとかされたから言わずに済んだけど。背中を見送った後に踞って一人で呟いてしまうくらい、言いたくなるものだった。
だけどそんなこと……、言えないよ。
『“行かないで”なんて、言えないよ……』
共有できる時間が限られているかもしれない大切な人を追いかけるその足にしがみつくほど、汚くなりたくない。言っちゃいけないってことも頭ではちゃんと解ってる。
でも、
『でもたぶん言っちゃう気がする。何か言わなくちゃって思って口開いたら、言っちゃいそうで怖い……!』
リストバンドがついた左腕を持ち上げて、右手で支えている反対側に額を押しつける。ああ嫌だな。惨めすぎて、なんか泣きそうだ。
『あの日も今回も留学とかそういう話じゃないのにこんなこと思うなんて……!』
どうしてこうなんだろう。もっと上手く、嘘がつけるようになりたい。
ふと、この前電車で見た高校生を思い出す。遠慮するお年寄りに「次で降りますから」と席を譲って、彼は確かにその次の駅で電車を出たけれど。連結部分にいた私の右側の車両にまた乗り直していた。あんな風に、誰も傷つかないような嘘をつけるようになりたい。
「言えばいいアル」
『嫌だよ!そんな人間になりたくない……っ、そんな人だと、アイツに知られたくない』
結局私は。ビンタまでしたくせに、この期に及んでアイツの中でキレイな存在で居たいと思うのだ。埃を被ってもいいから、拭えばキレイだと思われるモノでいたくて。いつか思い出して貰ったときに苦笑いしてもらえることを望んでる。
『ごめん、でも……っ!私、修に、嫌われたくない……っ』
目に押し付けていたリストバンドのオレンジ色が滲んだ。これだけ皆を振り回しといて申し訳ないけれど、でも私はやっぱり……アイツだけは、どうしてか特別で。
一番奥底にあった本音を情けなく溢したとき、体育館に繋がる階段の方から声がした。
────「……から、言う相手が違ェんだよウジ虫!!」
驚いたのは私だけじゃなくて、全員で声の方向を向く。合宿以来顔を見せなかったその男はズカズカと此方に歩いて日向と伊月を退かし、容赦なく私の手首を掴み上げた。
『な、んで、』
「───……ふはっ、まぁちょうどいい。復讐の時間だぜ?」
冷めた目で見下ろすまこっちは私の疑問だけでなく心労や不安さえもお見通しの上、まるでどうでもいいことのように一笑した。そのままニヤリと口角を上げる。
「いいから来い」
『うわ!?』
グイッと掴まれた腕を引かれて歩き始める。後ろを振り向けば日向と劉が喚いていたけど、中村と伊月が押さえて手を振っていた。行き先は空港とでも言うのか!!
『待てってば花宮!!』
「るせーなお前の意見なんてどうでもいいんだよ黙れカス」
『そんなこと言ったら私だってお前の意見はどうでもいいことになっちゃうんだからな!!離せ麿眉痛たたたたた!!』
体育館の中を突っ切って出入口まで向かっている私たち。今日は暑いからとか言って冷房の当たる長机に予め置いていたお弁当を食べる皆はそれぞれ色んな意味で私たちを鑑賞していた。
お弁当を上に置いてたのはいつメンの説得を邪魔しないためかよ。あと原と高男マジで明日のドリンク覚悟しとけよ。
こう言うときに限って自慢の力が入らなくて、ずるずると容赦なく下駄箱に近づけばまこっちは私の靴を取り出して床に転がす。全くこっち向きじゃない上に一つ裏返っちゃってるよ。
靴を履くために手首は解放されたけど今度は頭を鷲掴みにされて首に圧をかけ始めた。
『分かった!履くから!履きます履かせていただきます!!』
頭を捕らえられたまましぶしぶ足を入れ終えれば、広がっていた筈の手が拳になって旋毛の辺りを強打した。『いっっ……!』と悶絶している間にまこっちは一人で歩き始める。しかもいつもより大分速い。
リードはもう繋がれていないけど、逃げるなんてものは自殺行為だ。そもそも、この様子を何も言わず見守ってる時点で後ろの仲間はみんな共犯なわけで逃げ場なんて無いに等しい。
出る間際に葉山に投げられ体育館の真ん中を突っ切った自分の携帯。それを慌てつつ何とかキャッチし(そこそこ正確に胸元へ飛んできたのだけど凄く痛かった)、慌てて彼の背中を追いかけた。
『ねぇ花宮「言えよ」、は?』
前を向いたまま振り向きもせずに呟く彼の声は、会話言にしては小さくて、でも一人言にしては大きすぎた。立ち止まることは許されないまま、校門に近づいていく。
「綺麗事だけ言って好かれようなんて上っぺらの関係がお前の望むもんじゃねェだろ」
『っ、綺麗事だけじゃ……!』
「前にも言ったのにもう忘れてんのかよバァカ。お前の頭は矮小で、考えることなんて高が知れてるっつったよな。どうせ碌なもんじゃねぇだろーが」
『なっ、』
「うじうじすんなって何度言ったら分かンだよ。マジであの野郎を考えずにいれんのか?あ?無理だってことに気づいてンのにいつまでテメーを誤魔化すつもりだクズ」
まこっちの言葉は、飲み込もうと思っても大きくて喉を通らなくて。だけど吐き出すなんて出来ないから、不味い中でどうにか噛み砕く。
そうしている内に景色は開けた場所に出て、守衛室の隣に置いてあった真っ黒のバイクの前で止まった。え、と働きを停止しかけた頭に無理矢理ヘルメットが被さる。
「さっさとつけろよ。早く。五、四、三『まっ、待って!!これ、どうやってつけるの!?』あァ?ったく死ねよカス」
カウントダウンってのは人間を非常に焦らせるものだ。逆らう気なんてもはや道端に落としてきた私が顎の後ろでカチャカチャ鳴らせていただけの部品を、まこっちが奪って正解の通りに填める。ぶつくさどころか散々なことを言いながら準備を整えてくれる顔を見上げて、私は心から思った。バイクの免許持ってたのかよ……。
舌打ちをしながらエンジンをかける姿がやけに似合う彼は、後ろのシートを叩くこともせずに首で示す。
「乗れ」
ヘルメットまでつけて、皆に諭されて。ここまでされたらやっぱり私は行かなくちゃならない運命なんだろう。初めてのツーリングに心臓を冷やしながら座る。
「降りたきゃ勝手に手ェ離して落ちればいいし、そうじゃねぇなら死ぬほど力入れて掴んどけ。どっちにしろ俺は後ろは振り返らねぇ」
『最後カッコいいこと言ってるようで中身最低だからな、ぁあああ!?』
言葉の途中で何の合図もなく急発進した車体。身体が慣性の法則で後ろに引き摺られ、慌ててまこっちにしがみつく。あ、あっぶな!!コイツマジで私が死のうがどうでもいいのかよ!!ビュンビュンと風が頬や髪を擦る。撫でるなんて表現は生温い。
向かう先は、ちゃんと口にされてなくても分かりきっていた。平均とかよく分からないけど、たぶんかなりのスピードでぶっ飛ばしていたと思う。
空港に付いた時の時間は十三時二十分。あと十分しかない。バイクから降りた私は、まこっちに引っ張られて国際線の方まで向かう。
ここまで来て間に合わなかったらどうしよう。もう会ってくれないんじゃないかって考えしか出てこないから、考えを無理矢理切り換える。
たった一言、伝えるとして。私は何を言えば良い?ちゃんと準備しておかなくちゃ、……余計なことを言ってしまう。
纏まらない考えと焦りと不安で心臓がバクバク鳴る。まこっちの手に掴まれていない方の手で、彼の腕を握った。
その時突然足を止めたのはまこっちで、首だけで此方を振り向いて、空いている手で私の頭に手刀を叩きつける。本日二度目にして最大の痛みがビリビリと頭蓋骨から脊椎までを走り抜けた。声も出ない痛さに悶えていると、「よく聞けウジ虫」と失礼な呼び名で喚起される。
「こっから先何も考えるな。整理なんてすんじゃねぇ」
『え、』
その続きにあるであろう真意を聞こうとしたとき、携帯の着信音がその雰囲気を貫いた。私は相変わらずサイレントモードなわけで、勿論取り出したのはまこっちだ。
着信音と言っても通話やメールではなく、メッセージアプリの方だった。無言で見せられたお馴染みの画面上部には、“はら かずや”。重要な本文を読み終わった頃には、さっきとはまた違う不安が襲った。
“赤司と氷室の計らいで、虹村だけ三十分あとの飛行機で帰るらしいよん。あとどっちでもいいから東京バナーナ買ってきて”
最後の一文は見なかった或いはまこっちへの伝言だと称しておこう。三十分あと、ということは、ゲートに入る時間もそれだけ遅くなれるということだ。
走らなくても良くなったわけだけど、……三十分って、逆に時間ありすぎませんかね。むしろ何を話せば良いのか余計分からなくなった。
緊張も競り上がってきて、まこっちを見上げる。特徴的な眉を焼き付けていると、少しだけ気持ちが楽になった。考えるなって言われたんだよね、よし考えない。そんなこと考えるよりこの眉の形がどういう経緯で生まれたのか考える方がよっぽど楽しくて有意義だと思う。
「おいテメー失礼なこと考えてねーか?」
『まさかそんな滅相もないです!えっと、ほら、花宮が居てくれて良かったなって!』
まこっちだけじゃない。氷室も日向も劉も中村も伊月も。カラフルズだってサークルの仲間だって、こんなにも個人的な問題に巻き込んだというのにみんな私の力になってくれた。
既に私だけの問題じゃなくなってるとも思うから、尚更後戻りなんて出来ない。
私の言葉を聞いたまこっちは目を丸めて、気恥ずかしそうにそっぽを向いた───訳もなく。相変わらず八分開きくらいの目で私を見下ろして眉を寄せる。
「お前は百害あって一利も無いけどな」
『おいふざけんなよ。何度飯を作ってやったと思ってる』
随分と聞き捨てならないことを吐かしたと思えば、すたすたとまた歩きだす。彼が次に立ち止まったのは自販機の前だった。ジーパンの後ろポケットに突っ込まれただけの財布から小銭を出してコーヒーを買っている。すっかり焦りが無くなった私は、とはいえ落ち着かない気持ちを持ちつつもそれを見ていた。しかし視線に気づいたまこっちは舌打ちをしたあげく私の後ろを指す。
「何付いてきてんだよストーカー。お前の目的地はあっちだろうが」
『まさかの解散してた感じ!?てか、場所分かんないんだけどっ、』
「どう考えたってあのクソウザい集団だろーが」
『え、あ……。』
くい、と顎で示された先には、距離はあるものの色とりどりの頭が並んでいる。なるほど、まこっちの誘導がなくても良いのか……。此処からは一人なんだと思うと急に心細くなる。
でも逆に、あのまこっちがこんなことまでしてくれたんだ。恩を売り付けられているのにこれ以上何か無礼を働いてみろ。馬車馬のように酷使される筈である。
『……花宮、何で連れてきてくれたの?』
「……さっき言ったろ、復讐だ。お前が嫌がることをこの先とりあえずあと十回はするぜ」
『と、トリアエズアト十回??』
「あ?」
『イエ何デモアリマセン。……あ、ごめん花宮、120円貸してくれない?倍にして返すからさ』
幻聴だと信じたくて射抜くような彼の視線から顔を背けた先に、私は一つ必要なものを見つける。案外相手が誰でも頼んでみるもので、まこっちは舌打ちをして百円玉を二枚自販機に入れてくれた。話しかけてきたまこっちに答えながら、オレンジ色の缶を呼び寄せる。
ガコンと音を立てて地上に降りてきたそれを握り締めて、まこっちに向き合った。
『ありがとう。行ってくるから健闘を祈っててよ』
「何で俺がそんなことまでしなきゃなんねーんだよさっさと消えろ」
『本当にありがとう心の友よ!!!』
「ざけんなバァカ死ね。」
大きく手を振りながら踵を返す。まこっちはコーヒーの缶を煽りながら、今度こそそっぽを向いた。
一人で歩いていれば、今更ながら緊張が戻ってきて心臓が暴れる。いや落ち着け。考えるな考えるな。何とかなる。だって花宮様がそう仰ったんだもの。此処まで来たんだから、どうせなら言っちゃダメなこと以外全部伝えてやる。