枕の下で唸るアラームをもぞもぞと止める。えっと、そうか、昨日から真太郎ん家で、だから朝御飯は和食にしなくちゃいけなくて……。そんなことを考えながら目を開け、何となく仰向けになる。
そうして赤い天井に違和感を覚えて、周りを軽く見渡した。……違う、ここはあの部屋じゃない。───あぁ、そうか。
『……夢になんか、なってないか』
グッと布団を握り締めて、息を吐く。
両側の2人を起こさないように、身体を持ち上げた。幸い、目の前の2段ベッドから1人ひとつずつ掛け布団と枕をゲットできていたからか、リコもさつきちゃんも腹式呼吸に変化はない。
この世界は、私をどうにかして貶めようとしていて、そのせいで真太郎や真くん、翔一先輩、鉄平くん、その上女の子のリコや真太郎と仲の良い高尾くんと誠凛・秀徳の皆さんまで巻き込んでしまったらしい。誰も直接的なことは言わないけど、この予想が的外れなんかじゃないのはよく解ってるつもりだ。
朝からバクバクと血液を吐く心臓を、ギュッと服の上から押さえる。目が覚めればいつも通りの日常があるんじゃないかって、随分期待を寄せていたらしい。私がこんな様子じゃダメなのに。
昨日は何とかなったけれど、……今日も、ちゃんと全員、……大丈夫でいられるかな。───ううん。大丈夫に、させなきゃ。私が責任を果たさなきゃ。気丈に振る舞って、この世界が大したことないと感じさせなきゃ。
そう、大したことない。謎のレベルも数も、屋敷の構造も簡単。その上、真くんと翔一先輩もいる。中学時代首席を誰にも譲らなかったふたりがいれば二百人力だ。ハードモードなんかじゃない。
余裕がなくなれば視野が狭くなる、頭が硬くなる。そんなんじゃ解ける謎も助けられるものも、この手からすり抜けてしまう。それは私だけじゃなくて、他の人たちにも共通して言えることだ。あの人数をいっぺんに守れるような術なんてない。それが解っているから、向こうも大人数を巻き込んだんだろう。
どうして私が狙われているのかなんて二の次。とにかく今は全員で無事に帰ることだけに専念しなきゃ。───絶対に、思い通りなんかにさせない。
パチンっ。両頬を叩いて、キングベッドからそろりそろりと降りる。少し窮屈ではあったけれど、あれだけ寝れてるなら安心させてあげられたみたいだからめでたしめでたし。
床に置いていたローファーを履いたところで、もぞもぞと布擦れの音がする。確認すれば、顔をあげて髪を手櫛で軽く弄る人がまだ眠たそうな目で私を見上げて捉えた。
『おはよう実渕くん』
「えぇ、おはよう円香。よく眠れたかしら?」
『うん、思ったより』
「そう、よかったわ」
クスクスふたりで静かに小さく笑いながら、並んで歩き始める。
カードリーダーが付いているドアも、一度解錠されたならそのあとは自由に開閉できる仕様になっていた。ここはダイニングを挟んでキッチンの向かい、カードリーダーがついた部屋からまたさらに同じシステムで施錠されていた寝室。カードキーは “N” ───つまり、さつきちゃんが開けるものだった。
ドアノブを捻った瞬間目に入ったものに心臓が僅かに跳ね上がる。一礼するのに紛れて生唾を飲み、声を出す。
『おはようございます、……若松さん』
「……はよ」
わざわざ椅子をこちらに向けて座っていた彼の役目は、言わずもがな、だ。
女子が鍵付きで、しかもリビングや廊下に直接出られる部屋に配されたのは何も安全のためだけじゃない。私が、逃げ出したり怪しい動きをするのを防ぐため。
この部屋割りを提案したのは真くんだった。見張り役は私と関わりのある面子以外で、なおかつ私を信じきっていなかったり、人情を捨てていられる人達で構成されたらしい。リコや日向くん、伊月くんは良い顔をしなかったけど、私としてもそこまで周到にしてくれた方がやり易くて有難い。
中には、私とさつきちゃんたちを鍵のかかる部屋に一緒に居させるのを嫌う人もいたけれど、真くんの達者なお口に説得させられていたなぁ。……確かに彼の言った通り、私は、申し訳なさそうな顔のリコやさつきちゃんに確認してもらったように武器も持ってないし、丸腰で最悪なことをするとしても、女子1人、しかも1対2じゃ流石に何もできない。とはいえ、そんな理屈は私の疑いを晴らす風なんかじゃないのも事実だ。保険として一緒の部屋になってくれた実渕くん(真くんに洛山のオカマ呼ばわりで指名されて怒ってたけど)がいてもなお、全てを解決するのは不可能で。
若松さんは今も昨日も言葉にこそしないけれど、怪訝な表情が私を良く思っていないことをひしひしと感じさせる。気まずくない訳はなく、逃げるように視線を巡らせてしまうのは必至。周りのセミダブルのベッドには、紫原くんと劉さんが寝ている。
「朝から暗い顔してんじゃないわよ、情けない」
「はぁ!? してねーし!」
あと1人、確か黛先輩がいるはずだったけれど、見当たらない。彼なら少し話しやすかったのに、と考えて、大急ぎでその愚考を無かったことにした。
言い合いをし始めたふたりを止めるべく、気持ち口角を上げ、微笑の仮面を被る。イメージは専ら真くんだ。
『あの、朝御飯、作りに行ってきます』
「……おう」
『…………おやすみなさい』
けれど愛想笑いは功を成さず、応じながらも目を逸らされて心臓が軽く怯んだ。それから少し考えて、きっと私のせいで寝不足であろう彼に酷く身勝手な挨拶をしてしまう。……ちょっとの仕返しを許してほしい。
鉛を胸に埋められたような心地で実渕くんとリビングに出る。そこには既に翔一先輩と赤司くん率いる桐皇生と洛山生がいて、私たちに気付き快い反応をくれる。
「おはよーさん、円香チャン、実渕」
「お早うございます。実渕さん、椥辻さん」
「おはよう実渕、椥辻」
『おはようございます』
2人と諏佐先輩が先に見せてくれた緩やかな弧に、自然と同じものを返す。黛先輩は1人違うテーブルにつき、無言で本を読んでいた。
───温かい。昨日の夜に備え付けてあった薪の一部と下の階で拾ったマッチで暖炉をつけていたけれど、今もそこでは既にゆらゆらと炎が揺れている。斧はあるし、薪の補充が中庭で出来るといいな。
「今から朝御飯の支度か。おおきにな」
『いえ、昨晩より手軽とはいえ1時間くらいかかってしまいますから、お待たせして申し訳ないです』
「お気になさらず。黛さんは読書中で彼以外はみんなそこで寝ていますし、俺たちも探索のメンバーやアルファベットについて考えるつもりです。時間を潰すのは難しくありません」
「まったく……、見張りの意味が無いじゃない」
設置されているベッドの他に、私たちが寝ていた部屋や他の部屋の収納スペースからかなりの数の布団が見つかった。それら寝具数を踏まえて、2校ずつ3時間交代で見張りを立てることになっている。とはいえやはり疲れているのは当たり前で、さっきまでベッドの上だったであろう高校生男子のほとんどは堪らずテーブルに突っ伏していて。その様子に実渕くんは呆れて息を吐く。
ところで、紳士な対応を見せた赤司くんは、さつきちゃん曰くあの赤司グループの御曹司だという。昨日から漂っていたお坊ちゃんオーラが嘘でないことを知った私には、今なおとても彼の言動が輝いて見えています。
───探索メンバー……、聞き捨てならない言葉だ!
『私も探索させてください!』
「堪忍してぇな。昨日おたくの日向と約束してたやん」
『でもそれは休養のためです! ふかふかのベッドで眠らせてもらいましたから、リセットで!』
「……やって。どないしよか、赤司」
言われると解っていた台詞に用意していた言い訳は、翔一先輩にとっても想定内だったみたい。困った顔を浮かべて、けれど笑みを含んだ口は後輩へ意見を求める。
赤司くんはマンガみたいに顎下に指を宛てた。
「そうですね。この階をしっかり探索するのは初めてですし、諏佐さんも中庭に関しては椥辻さんに見てもらった方がいいと仰ってましたから……。」
『じゃあ……!!』
「リセット、賛成です。他の主将の方々には俺から上手く言っておきます」
『ありがとう赤司くんっ!!』
ルビーの宝石が私を見上げて、畏れ多いから背中を丸めて頭を下げる。ハハ、と笑う声に「顔をあげて下さい」と言われてしまった。
「水戸部さんと桜井は既にキッチンにいますよ。火神は見てませんが……、後で必ず送り届けます」
『ふふ、ありがとう』
「じゃあ私たちも向かいましょうか。またね、征ちゃん。ちゃんと休むのよー」
歩き始めた実渕くんの台詞に思わずその隣の人を見てしまう。他人事風を吹かしているけれど、そんなことはない。 赤司くん同様に、翔一先輩も真太郎も必要あらば自分を犠牲にする人だ。警戒心だってきっと人一倍強くて、だから休むこともままならないし、自分の能力を知っているなら尚更仕事を睡眠のために惜しんだりしない。
『翔一先輩も、疲れたらちゃんと寝てくださいね』
「言われる思っとったわ。おおきに、気ぃつけるで」
苦笑する翔一先輩に笑って、ひらひらと手を振る彼と共に私のカードで開けたドアへと入っていく。聞いていた通り、既にキッチンには水戸部くんと桜井くんが腕を奮っていて、その動きは止めずに私たちを視認しては2人して菩薩のような笑みを見せてくれた。その表情に癒されつつ、肩を並べる。
男侮るなかれ。少し遅れて来た火神くんはもちろん、彼ら全員が手際よく、素晴らしいスピードで進んでいく準備。それにしても、リコだけじゃなくてまさかさつきちゃんも料理下手なのは驚いたなぁ。どちらもエプロンがとても似合うだろうに、勿体ない話だ。
ユーキちゃんが使った食材は6時間ごとにリロードされると教えてくれたけれど、それは本当で。昨日夕飯のカレーに使ったニンジンもジャガイモも鶏肉もルーもお米も全て戻っていた。
食材の種類は増えないと言われたけれど、野菜・お肉・お魚、調味料に至るまでかなりの品揃えである。廊下には男女別のお手洗いだけじゃなく浴室だってあって、問題など1つもないこの空間。…………この用意周到さが逆に問題に感じて、少し怖いくらいだ。
───「では、【Banbury Cross】の部屋へ行くメンバーは笠松さん、実渕さん、原さん、緑間の4人でお願いします」
朝食後。洛山の皆さんが囲うテーブルから離れぬまま、赤司くんが話し合いの報告をしてくれる。件の部屋は施錠こそされているが、鍵になると予想できるものは既に手にしている。もし開かなければ、原くんが機転を利かせた誘導をしてくれるだろう。
次いで、赤司くんは私を一瞥してから口を開く。
「それと、昨日椥辻さんが提案してくれたように、カードリーダーがあった【 “東西南北” 】の部屋には、名前と同じアルファベットを持ってる人たちと椥辻さんで行ってもらいます」
「おい。なんで椥辻もなんだよ。アルファベットじゃねーし今吉もいるし、必要ねーだろ」
宮地先輩の声は棘棘しかったのか、隣に座るリコが少しだけ眉を歪める。けれど、私が抱くのは嫌悪でも失意でもなく、じんわりと感じる温かさだ。自惚れだとか思われても構わない、いつぞやか木村さんが聞かせてくれた “不器用な優しさ” を、私は彼の願い通り取り零さないようにしたい。
『さつきちゃんがいるなら、私もいたほうがいいと思って志願しました』
「ッお前は、日向たちと一回ずつ休むって約束したんじゃねーのかよ」
『寝たので休憩はバッチリです!』
「まぁワシに免じて今回は許してくれへんか? 円香チャンがおったら桃井も気が楽なるんはホンマのことやし」
「……勝手にしろ」
舌打ちと共に視線だけそっぽに向けてふてぶてしく腕を組む宮地さん。昨日寝る前も発作の具合を気にかけてくれたし、後で声を掛けよう。
探索時間は1時間まで。切り上げたければいくらでも早くしていいけれど、延ばすことは許されない。私たちの探索チームにはさつきちゃんもいるから目一杯使わないでおきたい。
このダイニングと隣の寝室を繋げる扉には “N” 、浴室の扉は “L”、そしてキッチンには “&” と書かれたパネルがあって、傍のカードリーダーはどれも同じ記号のカードを通せばロックが解除された。
ちなみに、浴室を開けるとき試しに鉄平くんがリコのカードを借りて開こうとしたけれど、エラーになってだめだった。そのうえで、ユーキちゃんにこの “安全地帯” 以外で同じことをするのは止められた。いわく、ゲームオーバーに近づくらしい。ゾクリと、全員の身の毛がよだつ。指紋か、人の静脈に流れる電気を感知してるのか。委細は分からないでも、作為的に選ばれているのは確かだ。
もし、もうこれ以上フロアーが無いならば、今日が終る頃には帰れるはずだ。此処がどこなのかとか、何で私たちが、───私が、選ばれたのかとか。そんなことは帰ってから調べれば充分だし、最悪知れなくても大した問題じゃない。科学で説明できなくてもいい、無事に帰れるに越したことはないんだから。