近付いてきた翔一先輩は、真太郎の前に回ると体を触りながら言い聞かせた。
「緑間、ワシの声が聞こえるか。触られとる感覚を追うてみ。……深呼吸して、落ち着くんや」
「……っ、いま、よし、…さん、……円香は、」
「見ての通りピンピンしとるわ。大丈夫やから安心せぇ」
翔一先輩の言葉で我に返ったような真太郎は、どこか虚ろな目で私を捉える。ドクリと、心臓が嫌な音を立てた。
隣では真くんが舌打ちをして、私の注意を引く。
「チッ、こっちにも入ってたのか。円香、その駒拾え。……オイ今吉サン、説明は寝室だ」
「おん。移動するで緑間。しゃんとしぃ、同じこと繰り返したないやろ」
「……ハイ、」
言われた通り私がチェスの駒を拾っている内に、顔色が悪い真太郎をあの翔一先輩が甲斐甲斐しく寝室へ誘導する。みんなが意味の分からない顔でそれを見送るなかで、私も真くんに腕を掴まれ歩かされた。
同じことって、なに? 繰り返すって何を。真太郎が翔一先輩や真くんと私抜きで会うことなんてなかったはずだ。なのにどうして、私が知らないことがあるんだろう。
真くんは普段からあんまりふざけた顔はしないけど、……今の表情も平生とは違う。深刻な上に何だかイライラしてる。
こんな顔をさせる原因となったのはたぶん真太郎で、その真太郎の様子だって本当におかしかった。……怖い、……私の声が聞こえなかったことも、あの子の五感を奪ってしまうような相手がいることも、不安で堪らない。
『ねぇ真くん? 真太郎は、真太郎はどうしたの?』
「うるせぇな。とりあえず平気だから黙ってろ。……説明にはお前が必要なんだよ」
必要と言われたって、私は何も理解できていない。疑問と不安しかない心地でいっぱいだ。
でもやっぱり真くんはそれ以上何も言わないでスタスタいつもより早く歩く。そうしてふたりを追って私たちも寝室へ入ると、中にいた翔一先輩がバタンと音を立てて扉を閉めた。ビクリと体が揺れる。
翔一先輩の目が、開いていた。
とりあえず扉から離れて奥まで進む。壁に背を向けて立つ真太郎に、真くんと翔一先輩と、彼らに挟まれる形で私が向き合った。
「真太郎。さっきリジーの部屋で目ぇ閉じさせてお前の手に乗せたのも、チェスの駒だ」
「っ……」
「お前に見せたらああなると思って黙ってた。…が、見ちまったもんは仕方ねぇし、今後恐らく集めなくちゃなんねぇアイテムだ。今ここで耐性つけろ」
『えっと……、何の話?』
全然意味が分からない。タイセイ、は “耐性” のことだろうか。それなら真太郎はチェスの駒が怖いということになる。あんな風に取り乱した訳も恐怖に因るものなら納得できる。
……だけど、私は真太郎がチェスを怖がっているなんて知らなかった。そもそもチェスを怖がるってどういうことだろう。
聞きたいことはいっぱいあるのに、誰も私の言葉には耳を傾けなかった。
真くんは私を親指で指し示しながら話を続ける。
「よく見やがれ、コイツは大丈夫だ。何の反応もしてない」
「……はい」
「無茶言うてるとはワシも思うが、自分のその動揺がきっかけになるとも分からん。踏ん張りどころやで」
「はい。ご迷惑をおかけして、済みませんでした」
───私は、別にチェスに思うことはない。強いて言えば、どこかで知識を得た気がするという、少し変な感覚があるだけで。何かの本で読んだのかもしれないし、それこそ真くんたちに昔聞いたのかもしれない。
真太郎が、このふたりに素直に心から頭を下げるのを初めて見た。幼馴染みの贔屓目から見ても少々プライドが高い真太郎が、毎度弄られていた真くんと翔一先輩に……。
これも敗北を知ったことや、チームワークだったり先輩への敬意を学んだ秀徳の皆さんのお陰なんだろうか。
『……翔一先輩、真太郎はどうしちゃったんですか?』
「んー? ちっとは可愛い後輩になってくれたゆーことやな。花宮もこんくらいになってくれたら先輩嬉しいんやけどなぁー」
「言ってろ」
けっ、と唾を吐かんばかりの言い草で翔一先輩をあしらった真くんは、それから片手で顔を覆い眉間を人差し指で押しながら言った。悩んでいる、もしくは考えているときの癖だ。
「───で、こっからが本題だ。さっきのチェスの駒は、恐らく円香とお前しか触れねぇ」
「花宮、どうゆうことか説明してくれるんやろな」
「俺が触ったら静電気みたいなのが流れたんだよ。試しにあんたも触ってみろ。円香、渡してやれ」
『え、あ、…………の、乗せますよ?』
「なんや怖いな」
『……えい』
「っ、」
駒が翔一先輩の手に触れた瞬間、先輩は眉を顰めて手を引いた。私は慌てて下に落ちる手前でそれを拾う。
本当に、私と真太郎以外は触れないんだ。……どうしてだろう。
持っていた紙は、真太郎が2枚、私はひとりだけアルファベットじゃなくて記号。異端が揃っていると言われればそれは肯定できる。でも、なんで私たちが……?
翔一先輩はやっぱり三白眼を見せて、真太郎を見上げる。
「なるほど。これが何を意味するか、……分かるな、緑間」
「…………、……円香は、何があっても俺が守るので」
『……真太郎……?』
私ではなく真っ直ぐに翔一先輩を見下ろす彼に、背筋がぞくりと一瞬震える。
……此処に。私の知らない、真太郎がいる。チェスが怖くて、こんなに真剣にふたりに向き合って。
いつも私が守っていたつもりの……守ろうとしている真太郎が、逆に私を守ると、力強く宣言する。
駆られたのは、焦燥感か、無知への恐怖か。
私は私で意思を伝えようと、真太郎のジャージを両手で掴んで意識を向けさせ真下から彼を覗き込む。
『わたしも、私も真太郎を守るよ? だから、怖いことがあったらちゃんと教えて……! ホントのゲームなんかじゃないけど、でもやっぱりゲームに近いから、私が出来ることたくさんあると思ってる! だから、真太郎だけじゃなくて、真くんも、翔一先輩も、ちゃんとみんなで帰れるように頑張るから、……だから、』
何が言いたいのか分からなくなってしまって、口を閉じる。下を向いて続きを考えていると、頭をポンポンと撫でられた。優しいこの感覚は、翔一先輩だ。
見上げれば、糸目に戻った翔一先輩が涙を拭うフリをする。
「ホンマええ子やなぁ円香チャンは。ワシなんかを守りたい言うてくれんのは自分だけやで」
『本当ですよ?』
「疑ってるわけあらへんがな」
「つーか、別にお前に守られるほど柔じゃねえんだよ。そんな理由で危ねぇことしたらただじゃおかねぇからな」
「要約するとありがとう大好きっちゅーことやな」
「何でだよ!!」
真くんの言葉にいつもと変わらず翔一先輩翻訳機が反応する。そんな中、真太郎が私の両肩を掴んだ。やっぱりいつも以上に力強い眼は、私をしっかり映している。
「絶対に、危ないことをするでないのだよ」
『……善処するよ』
「約束しろ」
『えー、じゃあ真太郎も同じこと約束してくれる?』
「……善処する」
『はい、おそろいだからトントンね!』
「緑間は相変わらず円香チャンに弱いなぁ」
『翔一先輩と真くんも同じですからね!』
「俺はそんな約束立てしねーからな」
ですよね。真くんは約束なんて破るためにあるとか言ってた気がするし……うん。
そんな真くんは、チラと扉を見て次の話をした。
「とりあえず、チェスの駒はどちらにせよ集めなきゃなんねぇからいつかはあいつらにも見せる必要がある」
「問題はおたくらしか触れへんことをどう説明するかっちゅーことやな」
「ただでさえコイツは疑われてる。これ以上荒立てしたら……」
「せやのぉ。あんまりこないなことしたくはあらへんけど、……ギリギリまで隠すゆうのが手やな」
『……本当のことを話しては、いけないんですか』
「バァーカ。んなことしたらマジで軟禁されてゲームに参加できなくなるぞ」
そうしたら。ここにいるみんなを自分の手で守れなくなるだろう。それは困る、とても困る。
嘘をつくのは忍びないけれど、そうするしか一先ずの手立てはないみたい。
「とりあえず、探索隊には必ず円香チャンか緑間を入れとく。それらしいものがあったらいち早く掴んでくれや」
「はい」
『……ごめんなさい』
頷く真太郎とは違い、わたしの口から出たのは謝罪だった。真くんが舌打ちをする。
「何でオメーが謝んだよ」
『……そうだね、ごめん』
「だから謝んじゃねえ!」
真くんに頭を叩かれれば、それを真太郎が諌める。翔一先輩はいつものようにくつくつと私たちを見て静かに微笑む。
ああ、懐かしいこの光景。この4人でいると、毎回一度はこんなやり取りをしていた気がする。絶対に、これを奪わせたりなんかしない。
────ごめんなさい。何だか、本当に邪魔者みたいだなって、思ったの。
そんな続きを言ったなら、たぶん優しい3人はみんなして私を怒っただろう。だから口を噤んだのだけれど。……私はやはり、そのレッテルを常に意識しなければならない。それが、彼らの足手まといにならないように。
「ほな、まずはこの時間をどうみんなに説明するかやな」
「ふはっ、それはあんたの仕事だろ今吉センパイ」
「お願いします」
『……え、えっと、頑張ってください!』
「円香チャンにそんなこと言われたら頑張るしかないやんかー」