「そうだ、円香。良かったら今日ウチで夕飯食べない? パパが久しぶりに円香の顔見たいんだって」
『あちゃー、ごめん。お誘いも嬉しいし影虎さんにも会いたいけど、今日は “約束の日” なんだ。真太郎のお母さんが何日か家空けるみたいで、私も同じ期間だけ向こうに居候するの』
「そっか、じゃあタイミングが悪かったわね。また誘うからその時にヨロシク!」
『うん、ありがとう! その日は私も食事のお手伝いさせてもらうね!』
「ほんと!? やったあ!」
女子特有の弾んだ声が、薄暗い2階の廊下に響く。1階は昇降口があるからまだ明るいが、最終下校時刻はあと5分ほどに迫っている為に消されてる電気は多い。
2人分の足音が数人の声に近づけば、そのうちの1人が階段を下りる私たちに振り返った。
「あ、鍵さんきゅ……って、会長!?」
『部活お疲れさまです、バスケ部のみなさん』
「いやいや、お前何でここに!」
「聞いてよ日向くん! 円香ったらこんな時間まで生徒会室にいたのよ!」
さっき和解したはずの親友は、掌を返してキャプテンに私の所業を言いつけ始めた。酷い仕打ちだ。日向くんも伊月くんも、はたまた1年生の子達まで眉を顰めるから責められた気分になる。悪いことなんてしてないのになぁ。
『私は会長として生徒会の仕事に務めてただけだよ!』
「椥辻会長、問題はそこではありませんよ。こんな遅い時間まで残ってたことが問題なんです」
『でも、それを言ったらみんなだってリコだって…「 “でも” じゃありません。僕たちはまだしも、カントクだって1人では帰らないんです。椥辻会長はカントクに会ってなかったら一体誰と帰るつもりだったんですか?」
ジッ、と透き通るような水色の瞳に見下ろされて、私は言葉をつまらせる。一緒に帰る相手なんてもちろん居ないのが答えだからだ。
黒子くんは文学少年と言うのもあって、説得力も聴かせる能力も高い。
「ダアホ。黒子の言う通りだろ会長。こんな遅い時間に一人で帰るだなんて言ったら伊月じゃなくても怒るぞ」
『……ごめんなさい』「日向ッ!?!?」
なんで伊月くん? と思いながらも、怒られるのならば謝ろう。素直に下げた頭の上で、伊月くんの慌てた声と日向くんの笑いを含んだ声が行き交っている。そして頭を上げて目があった暁には、それはそれは必死な様子で伊月くんは首を振った。
「違うんだ椥辻!」
『違うって、なにが?』
「あ、いや、えっと……ゴメン、何でもない」
うろうろと目をさ迷わせて、苦笑いで話を切ってしまった彼。練習がきつかったのか、疲労が垣間見えた。でもその狼狽え方が少し可笑しくて、思わずクスクスと喉が鳴ってしまう。
『変な伊月くん。でも、心配してくれてありがとう。こんなにみんなに言われちゃったから、もう少し気を付けるね』
「「少しじゃダメ!!」」
『え』
総員に訂正されてしまい、私は口許をひきつらせた。
夜道には気を付けろという忠言は真太郎にもよく言われるけど、これこそ耳になんとやら。中々実行に移せないというか、必要性もいまいち分からないから意識に結び付かないのだ。
でもここまで毎度念を押されれば、さすがに自重しようかなって気にはなった。ローファーに履き替えて、『十分気を付けます』と言い直せば漸く事態は終着したようだ。
それから、新入生歓迎会のパフォーマンス内容の話や数日後に迫る球技大会について盛り上がって、いつの間にか今日の夕飯に食べたいものに話題は変わった。
そうして私は買い物に行かなければならないことを思い出す。まだスーパーを通り過ぎる位置じゃない。良かった。一応今から報告をしておこう。
『ごめん、私買い物して帰るね』
「あ、俺もスーパーに寄らねぇと、……です」
どうやら、火神くんと一緒になるみたい。彼はいわゆる料理出来ちゃうぜ系男子で、何度か合宿中にも手伝ってもらった時はその手際の良さに感動すら覚えた。包丁を持つ姿が良い意味で様になる人はカッコいいと知った瞬間だ。
「火神も会長も自炊だもんな。今から飯作るとかすげーよ」
「今日は何を作るんですか?」
日向くんの感心に『そんなことないよ』と火神くんと返せば、黒子くんがそう尋ねてくる。火神くんは決まってなくて、スーパーのセール品を見て考えるらしい。すっかり主夫の思考です。
『私はオムライス。だから卵を買わなくちゃいけなくて』
「あ、卵なら家にあるッスから分けましょうか? 白玉だけど、この前のセールで買い占めた、です」
そう言ってくれたのは言わずもがな火神くんだ。彼の家は私の帰路の通り道にあって、お互い食材や調味料の交換をすることも多い。今回の申し出も凄く有り難いんだけど、でも今日はそうもいかない。
『ううん、欲しかったけど今日は火神くん家通れないんだよね。それに赤玉がラッキーアイテムなんだって』
「「えっ」」
相変わらず酔狂な占いの信者である幼馴染みは、昼休み辺りにリクエストを聞いたとき “赤玉” と返信してきた。卵に連想するのはちょっと時間を要したけど、お陰で彼の好物の1つにありつけたので結果オーライ。因みに学校には小さなタッパに入れて持って行ったのだとか。
いつの間にか歩みが止まっている皆に気づかず歩き続けていた私を呼び止めたのは黒子くんのいつも通りの声だった。
「椥辻会長、緑間くん家に行くんですか?」
『あぁ、うん。今日から3日間は向こうで過ごすよ』
「だからそんな大荷物だったのか」
「てか今、過ごすって……」 「ドンマイ伊月くん」
『まあ教科書が大半だけどね……。着替えは向こうに元からあるから』
「「え゙」」 「ドンマイ伊月くん」
そこで、私の記憶は一旦ブラックアウトしている。後ろにいたバスケ部たちの驚いた顔と、ちょくちょくリコが伊月くんの肩を叩いていたことが一番鮮明な内容だった。
そして次に目を覚ましたそこは、記憶のように真っ暗だった。覚醒しきっていない脳が、クエスチョンマークを浮かべる。恐怖を感じたのは、身動ぎが殆ど出来ないことを認識したときだ。
『え? ちょっと……、』
あまりにも近すぎる天井は、肘を曲げないと触ることができない。それは左右の壁も同じで、血の気が引いたのが分かった。
まるで耳の中に心臓があるように、バクバクと鼓動が大きく鼓膜に響く。直ぐに、私の拳は目の前の天井とは言い難い壁を叩いた。
『や、だ、誰か、……誰かっ!』
強い力で叩いて鳴らすドンドンという音よりも、鼓動の音の方がよく聞こえて気持ち悪い。
狭い、暗い、狭イ、暗イ、セマイ、コワイ。
ヒュウと、情けない呼吸がますます肉薄させた。
このまま、酸素が足りなくなるんじゃないかって、そればかりが頭をめぐる。一緒にいたはずのバスケ部のみんなとか、家でお腹を空かせて待っている真太郎のこととか、そんなのは文字通り他人事で。
行きすぎた考えがプラシーボ効果的なのを引き寄せたのか、呼吸が満足に出来なくなる。どんなに大きく口をあけて、肺を開いても、全く酸素が取り込めない。やばい、発作が出てしまえば、薬のない此処ではもう終わりだ。
『ぃ、嫌……、苦し、真太郎っ、真太郎っ……!! 助けて、しんたろ……っ!』
口をついて出るのは、隣に居てくれた年下の子で。全く大人げないなと、変に冷静な自分が遠くの方で嗤ってる。
そうして段々と、酸欠に身体中で悲鳴があがった。拳を振る筋肉どころか、握る手にすら力が入らなくなる。どうやら身体は、そんなことよりも酸素を取り入れることを優先させたいようだ。
理性と本能のせめぎ合いだなんて、均衡な勝負ではない。圧倒的な大差で、本能が支配を広げる。
『お願い……、誰か……、たす、けて……』
夢なんかじゃないのは、息が出来ない苦しさが何より証明していた。
その台詞が、私の限界だった。風船の空気のように力が抜けて、固い床に腕を打ち付ける。朦朧とする意識のなか、誰かの声が聞こえた気がして、『(惜しかったなあ)』なんて苦笑が漏れた。
ごめんね、真太郎。オムライス、作れないや。